ティータ と アガット

B 血に染まるミーシャ
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 視界は赤に染まっていた。

 無慈悲な靴音と爆音に、なにもかもが奪われて、
 俺の一番大切なものは今、その身を赤く染めている。

 何度も叫び、その名を呼ぶ。
 しかし返事は帰っては来ない。もう二度と帰る事がない。
 あの姿と、あの声はもう二度と戻らない。

 俺の腕に残るのは、時間と共に赤を増す服と、温度を下げるその体。
 もう笑わない、もう話さない、もう帰ってこない。

 俺の妹、ミーシャ……。


 あんなに元気で、夢を持っていて、他の誰よりも生きることに必死で、誰よりも前向きで……。

 そんな妹を助けることも出来ず、俺だけがこうして生き残り、抱きかかえて泣く。
 ただ泣く。

 守れなかった自分を何度責めても、悔いても、ミーシャはもう戻らない。
 それを思い出す度に、俺は……。


 ── 朝、
 アガットが目覚めたのは、ホテルの一室だった。
 窓から差し込む朝日は、まだ少し力なく、日が出てからまだそれほど時間が経っていない事を教えてくれる。
 光と共に入ってくる少し冷えた空気は、彼の頭を鮮明にし、今まで見ていた夢の内容を反芻はんすうする。
 全身に汗をはりついている体を起こし、まだ薄暗い風景に向かって呟いた。

「ミーシャ…」
 それは彼の妹の名。かけがえのない肉親の名だ。

 いまだに生々しく覚えているあの感触。命が消える瞬間。
 彼にとって、それは忘れることができない宿業だった。

 10年前、ここ「リベール王国」は隣国「エレボニア帝国」の一方的戦闘宣言により《百日戦役》と呼ばれる激しい戦争へと突入した。
 その中で、孤立してしまった彼の故郷「ラヴェンヌ村」は、両軍入り乱れる戦場と化し、女性や子供などに多くの犠牲者を出してしまったのである。
 平和と平穏を踏みにじられた人々にとって、10年という歳月はまるで意味がなく、その悲しみは消えることがない。それは当然、アガットにも深く刻み込まれていた。

 答えが出ない10年は、長くもあり、短くもあり、今でも尚、その想いは続いている。

「……少し訓練でもするか」
 アガットは側に置いてあった愛用の『重剣』を手にすると、ホテルの外へと向かっていった。
 つらい心を、今だけは振り払うために。












 ちょっとだけ早く起きたティータは、まだ研究に没頭してるだろう祖父のラッセルに、朝食を用意する為に起き上がった。手早く着替え、いつもの作業服に身を包む。朝日は今まさに昇ろうとしている。
 昨日拾った子猫のミーちゃんは、まだ眠そうに布団の中であくびをする。
「あ、まだ寝てていいからね」
 ティータは子猫を起こしてしまった事を申し訳なく思いながら、なるべく静かにラッセルのいる研究室へと向かう。


「おじいちゃ〜ん」
 少し小さめにノックした扉から、頭だけのぞかせてみると、ラッセルは一人黙々と研究機材に向かって打ち込んでいた。昨日、最後にのぞいた時と少しも体勢が変わっていない。大した集中力だ。
「おじいちゃん、コーヒー淹れるけど、ブラックがいい? それとも甘め?」
 そういうティータに、ラッセルがこちらを振り向く事なく呟いた。
「ダメじゃ。どうしてもうまくいかん。補助機構は正常だというのに、なぜこうも稼動効率があがらんのじゃ。何が足らんのか。あー、ブラックで頼む」
「うん、わかった。もう少し待っててね」
「……しかしこうでなくては伝導率の……」

 ラッセルの徹夜はいつもの事で、特に近頃は開発中の新型装置にどっぷりハマっている。
 もちろんティータもエンジニアとして興味があったし、手伝いも何度かしているのだけど、さすがに徹夜をするとなると、12歳という年齢からすれば無茶がある。
 しかし、祖父ラッセルに頼まれ、研究の補佐をしているとついつい没頭してしまい、朝を迎えてしまっていた事もしばしばだった。
 そういう事を何度かしているうちに、徹夜なんか当たり前になっていたのである。

 だが──、
 それを聞いたマオ婆さんは黙っていなかった。ホウキを手に怒鳴り込んできたのである。孫にまで徹夜を押し付けるとは何事だ!…と、ラッセルを徹底的にしかったのだった。

 マオ婆さんの剣幕は物凄く、その怒りは見物人を呼び寄せ、遊撃士まで仲裁ちゅうさいに駆けつける大騒ぎとなった。
 だから今は徹夜はしない。ちゃんと夜は寝ることにしている。
 研究に没頭できないのはちょっと残念な時もあるけれど、マオ婆さんを心配させるのはよくない。

 だけど、昨日はあまり眠れなかった。
 グラッツさんに聞いたあの話に夢膨らませていたら、目が冴えてしまっていたのだった。
 今だって興奮して、朝日がちゃんと昇るまでの時間が待ち遠しい。アガットさんに会える朝がもうすぐだというのに、いまこの瞬間が長くて長くて仕方がない。

 アガットさん、どんな顔するかな? 喜んでくれるかな?

 そう考えると、自然に口元が緩んでしまう。
 だからもう少しだけ我慢する。時間なんてあっという間だから、いつも通りの朝を、いつも通りに頑張ろうと、より一層の気合を入れていた。

 まずはコーヒーと朝食。
 あ、そうだ! 時間も早いし、お弁当も作ろう!

 そうと決まれば時間はいくらあっても足りない。ティータはまた笑顔を浮かべて台所へと向かっていった。












 アガットが遊撃士協会へと出向くのは、いつもこの時間だ。朝7:30をちょっと過ぎた位のまだ早い時間。朝になって新しい情報が入っていないかを確認してから朝食へと向かうのだ。
 遊撃士にとって情報はなにより大切なものである。だからアガットも必ずここを通るのだ。

 ティータはすっかり遊撃士ツァイス支部での顔馴染みで、通る人全ての顔と名前を知っている。もちろん皆ティータをかわいがってくれるし、アガットとの事も応援してくれている。
「おはよっ! ティータちゃん、気合入ってるね」
「あ、グラッツさん。おはようございます!」
 あの話の発案者、グラッツさんはとてもさわやかに挨拶あいさつしてくれた。どうやら彼も自分の提案の結果を知りたいらしい。彼がこんなに早く来るのは、ティータが知る限り一度もなかったからだ。
「お、手作り弁当か。ニクイね!」
「い、いえ〜、そんな事は・・・・ちょっとだけ時間があったもので……」
「まあ応援してるよ。あとでね」
「はい」
 口数少なく区切ると、照れるティータを脇目に遊撃士協会内へと入っていった。

「グラッツ」
「あ、キリカさん。今日もお美しいですね」
 彼に声を掛けてきたのは、この支部での受付兼総務を担当するキリカだ。
 隣国である「カルバード共和国」出身の彼女は、不思議な雰囲気を漂わす異国美人。冷静沈着で、常に先を見通して行動する才女であり、この支部での頭脳的な存在である。

「ティータに何を吹き込んだのですか?」
「え? 何って言われても、そうですね、幸せの呪文ってトコですかね。おお! 俺って上手いこと言うな」
 グラッツはニヤニヤしながらそう答えた。
「もしかして、キリカさんもティータちゃんのアタックに興味深々って事ですか?」
 これは思わぬ獲物が食いついてきた、とグラッツは喜んでいる。キリカはこれほどの美女であるにも関わらず、自分はおろか、他人の恋路などの話にもてんで興味を示さない。
 グラッツには一緒になって野次馬をやれる相手が、キリカさんだと思うだけで嬉しくて仕方がないのである。
 しかし。

「自分の娯楽に他人をつき合わせるのは関心できないわ。」
 キリカはいつも通り冷静にそう言った。
 冷やかしだ、と言われた事にちょっとだけムッとした。それは心外だ、とグラッツは反論する。
「いや、違いますって。俺は娯楽だなんて事思ってないですよ。ティータちゃんが笑顔で居てくれれば、俺だって嬉しいし……、アガットだって暗い顔しなくて済むんじゃないかっいて……」




「迷惑だ」
 その時、扉の向うからアガットの大声が聞こえた。
 キリカは何も言わずに扉へと歩み寄り、グラッツもまた足を向けた。
 そっと扉を開け、隙間から覗くと、そこにいるのは予想通りティータとアガットだった。

「だ、だって……、アガットさん王都に行くっていうから………私も行けば、色々お世話できるかなって思って……」
「それが迷惑だっていうんだ」
「私……アガットさんが、ツァイス支部からいなくなっちゃうって聞いたから、だから…」
 それは先ほどまでの笑顔とは違う。震える声で、おびえた顔でアガットの顔を見つめるティータがそこにいた。
 そしてアガットは、仲間にすら見せたことのないような厳しい視線をその小さく震える少女へと向け、怒っているように見える。

「一般人が何の役に立つっていうんだ? 仕事を邪魔して、引っかき回して、それで手伝った気でいるつもりか? 笑わせるな。こっちは遊びでやってるんじゃない」
「だ……だって……わたし……」
 それは明確な拒否だった。ティータはお弁当の包みを胸に抱いてうつむき、肩を震わせている。

 グラッツが提案したのは、アガットが王都へと行く間、見物がてらに手伝いをすればいいんじゃないか、というものだった。
 アガットは遊撃士として優秀で、誰からもその実力を認められている。しかし、グラッツは、アガットがたまに暗い顔をして、妹の事を気に病んでいる事を気にかけていた。
 それはグラッツだけでなく、キリカも他の仲間もそうだった。遊撃士として優秀だからではない。アガットという人物自身を心配していたのだ。
 しかし、ティータと出会ってからのアガットは、少し変わったように柔らかくなったと思っていた。それがグラッツを始めとする仲間達には喜びであり、なにより嬉しい事だったのである。


 ───だから、このままいい方向へ行く。そう思っていたのだ。

 ……長い沈黙が流れた。
 アガットは少しも視線を外さず、ティータを見つめる。
 ティータは、放心したようにうつむいたまま、何も言わない。

「私は……」
 その長い、気まずい沈黙をティータが破った。


「わたしは……邪魔……ですか………?」


 しぼり出すような、小さな声。あまりにも苦しい声。すがりつきたい願いの声。
 しかし……、
「ああ。仕事の邪魔だ。もう俺の後を付け回すのはやめてくれ」


 ───それはあまりに、無慈悲で、悲しくて、心痛める言葉だった。

 泣きながら駆け出すティータ。
 地面に落ちて中身が崩れるお弁当。
 そのアガットに殴りかかろうとするグラッツ、それを止めるキリカ。

 そして、自分から離れていく少女を見つめるアガット……。


 アガットは遠くなるその姿を見て思う。

 もう、俺の心に踏み込まないでくれ。
 俺の心を変えないでくれ。

 いつかミーシャより、お前の存在が大きくなってしまったら、誰がミーシャを想ってやれるのか。

 いつかティータがもっと大事になって、そしてまた失うことがあったら、俺はどうすればいいのか。

 もう悲しいのはたくさんだ。

 だから、
 今のうちに決別しよう。
 元の自分に戻ることにしよう。

 俺は一人でいい。これからも、いつまでも、一人でいい。……一人でいいんだ。

 朝日に落す暗い影は、少し冷たい風となってそれぞれの心に吹いていく。それは、誰も悪くない。誰にもどうしようもない、来るべくして来た結末だった。



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