午後13:41 グランセル城 女王宮───
「まさか、陛下の私室に招待されようとは……なんとも恐れ多いですな」
モルガン将軍は目の前に座るアリシア女王へ視線を向けながら、恐縮したように呟く。軍部を統括するべき彼でさえ、齢60に届く程の長く軍に在籍しながらも、数えるほどしか入った事のない女王陛下の私室。
これまで幾度となく厳しい戦場や窮地に立たされてきたリベール随一の将軍も、これほどまでに緊張する事は珍しい。年老いてなお屈強な体躯と威厳を保つ白く染まった頭髪や髭、そして何よりも覇気を絶す事が無いモルガンが珍しい事に肩をすぼめている。
「モルガン将軍ならともかく、私までがこのように座を会すなど……。」
所在なさげにしているもう一人、緑色の短髪と女性でありながら凛々しさを持った人物、若くして王室親衛隊をまとめる女性・ユリア大尉。彼女は将軍以上に身を縮めていた。
親衛隊の実質的な隊長という立場ではあっても、自身の階級はまだまだ低い。護衛という立場であるため接する機会は多いものの、女王と席を並べてお茶会をするなどと……なんとも恐れ多い事である。
将軍にとっても、ユリア大尉にとっても、一つの小さなテーブルに女王陛下を含む3人だけが座しているのだから、恐縮しない方がおかしい。
「ふふふ……、二人共そんなに固くなる事はありません。カシウス一家の方々は少しも物怖じしませんでしたよ。」
「いえ、あの一家の者達は皆、大物であるからにして…。」
モルガン将軍はなんとも言い訳がましい理由をつけて言葉を濁す。彼ほどの豪傑が、借りてきた猫の様に大人しくなるのは極めて稀な事、もちろんそれは目の前に女王陛下がおられるからだ。
アリシア・フォン・アウスレーゼ。
リベール王国、国家元首アリシアU世として世に知られている彼女は、その卓越した政治手腕を奮い、国を豊かに保つ一方で、導力革命以後の最先端を行く技術を育ててきた。外交においてもその成果は目覚ましく、数々の自治州を武力併合してきた強国、エレボニア帝国の侵略すらも跳ね除け、そして今日においては技術力を武器に和平交渉をやってのける。まさしく現代の女傑と言っても過言ではない。それ程の人物であった。
リベールは小国ながら、世に広く名君として名高い彼女。しかし実際に会った者は皆一様に驚き、口を揃えてこう言う。”穏やかな人”と。
薄紫の髪を後ろでまとめ、飾り気の少ない青のドレスを身にまとう初老の女性。常に落ちつきを払い、不遜な態度などの一切を感じさせない柔らかな物腰は、接する者に安心感を抱かせる。
けして高圧的な態度を取る事が無く、常にリベールの未来を見据える”穏やかな人”であるからこそ、この地に住む人々は彼女を尊敬し、また敬愛するのだ。
軍に在籍するモルガン達にとって、アリシア女王は遥か雲の上の存在である。身近で感じていればこそ、誰よりも女王の力量と人物の大きさを感じていく。
その偉大な人物が今目の前にいるとなれば緊張で身を固くするのは当然だろう。震えないだけキモがすわっていると言えるかもしれない。
会議であればそんな事を考える事などないのだが、お茶会という私用となると勝手が違う。いっそ会議であってくれたらどれだけ気が休まる事か…。
「お茶の用意が出来ました。」
そこへ女王陛下と同じ位の年齢の、貴婦人然とした女性がノックと共に部屋へと入ってきた。女官長のヒルダである。その後ろには、茶器の乗った移動式テーブルを押す侍女の娘シアが付き添っている。
「陛下、昨日手に入った新茶をお持ちしました。香りも味も昨年以上の出来栄えのようです。」
「そうですか。それは楽しみですね……。」
にこやかに、そして静かに答えるアリシア女王。ヒルダは茶器のテーブルからティーカップを並べると、湯気のたつポットから透き通る茶褐色の液体を注いだ。
それを見ているだけで、心穏やかな気持ちになるのは不思議なものである。
「どうぞ。将軍、それにユリア大尉」
注がれた一つがモルガン将軍の前に置かれると、彼はかたじけない…と少し会釈をする。女王がカップを手にしたのを確認した後に、自分も手に取り、温かいカップから香る心地よさを感じながら口へと運んだ。
「ほほう…。これは香ばしい。それにいい味だ…。妻がよく紅茶を口にするのですが、それとよく似た香りがしますな。あれは確かカルバード産でしたか……。」
カップにたゆたう紅茶からのハーブの香りが緊張をほぐしたのか、モルガン将軍は久しく口にしていなかった紅茶というものの味に少なからず驚いた。思った以上に味わい深いものであったからだ。
「いいえ、モルガン将軍。これはリベール産の一般的なものですよ。銘柄はクリストルでしたか。」
女王はそういうと、暖かなカップからの香りを楽しんだ。
「クリストル…ですか?」
そう声を上げたのはユリア大尉。その表情は少なからず驚いているようである。
「失礼ながら……クリストルといえば、ごく一般的な銘柄ではなかったでしょうか? その…それほど高価ではない…と言いますか…いえ、失礼しました。」
ユリアはつい口にしてしまった事を後悔する。女王には似合わない安物を飲んでいる、と言ってしまったようなものだからだ。それを言葉の途中で気がつき、慌てて訂正する。
アリシア女王はヒルダと視線を合わせると、少し可笑しそうにユリアへと視線を送った。心なしかお付きのシアも微笑を浮かべているように見える。
「申し訳ありません。私も隊長となってからは自身で淹れる事が少なくなりまして……。」
それには答えず、ただ静かに紅茶を楽しむアリシア女王。そして恐縮するユリア、紅茶の事などさっぱりわからなそうにしているモルガン将軍を前にして、ここは自分が解説を任されているのだとヒルダは悟っている。こういう時、言葉を出さない女王陛下は「ヒルダに任せます」と言っているのは心得ている。それは長年の経験からわかっている事だった。
彼女は、モルガン将軍へ2杯目を注ぎがら微笑んで言う。
「僭越ながら、私からご説明させていただきます。…大尉の言う通りこれは高価なものではなく、ごく平均的な値段の品です。しかし、紅茶は湯を注げばよいというものではありません。適した水質、茶器、温度、そして淹れ方というものがございます。」
その言葉通り、アリシア女王が好んでいる紅茶は、エーデル百貨店で売られている市販品である。茶葉にも様々な種類はあるが、これはそれほど高額な品ではなく、一般市民に愛飲されているごく平凡なものだった。
一国の主、女王なのだから、紅茶くらい贅沢をしても構わないではないか、と誰もが思うだろう。しかし、アリシア女王にとっては、それが高価な品かどうかは問題ではない。市民と同じ物を口にし、市民の立場で考える。そうやって人々の目線を保つ事でリベールを支えてきたのが彼女なのである。
もちろん、即位前に過ごした一般市民としての生活を好んでの事でもあるのだろう。
「さて、ユリア大尉。最近はどうですか? アルセイユの新型エンジンには慣れたでしょうか?」
アリシア女王は茶の席の雑談のように親衛隊隊長へと近況を問う。もちろんユリアにとっては、お茶会とはいえ、こうした会話が出てくる事は予想の範囲内である。背筋を伸ばし、あまり力まないようにしながら、ハッキリとした口調で答えた。
「はい。親衛隊各員はきわめて良好です。いつ何時の災厄、災害にも対処できます。アルセイユも8度目の試験航行を実施しました。先の《輝く環》事件よりもなお、本来の能力を発揮できるでしょう。」
……さすがはユリア大尉。彼女の言葉からは確実な成果が期待できるし、事実そうであるのだと確信が持てる。しかし……ここは一石を投じる必要がありますね。
アリシア女王はカップを置きながらそのように感じていた。女王はユリアの真面目な性格をよく知っているため、聞かなくともこういう答えが返ってくる事はわかっていた。だからこそ、少しだけ方向性を変えてみる事にする。
「なるほど。では少し意地悪な質問をしましょうか。もし…、アルセイユの機動性を上回る敵と遭遇したらどう対処しますか?」
「機動性を上回る……ですか?」
「逆の発想でも構いません。機動性を発揮できない相手をアルセイユでしなければならないとしたら…。それにどう対処しますか?」
ユリアは思いがけない質問を投げかけられ困惑する。今のこの質問に、女王の真意を計り兼ねたからだ。そしてそれは自分の答えに不備があったのだと気がつく。
もしあのグロリアスがもう一度現れたとしても、今度は逃げるばかりでなく、機動力を生かした戦闘ができる程に錬度は上がっている。しかし、それは通常の空中戦を想定した場合の話だ。
彼女の感じた不備とは、女王の言う相手との遭遇は、「想定外の相手と戦う」という場合を示唆しているのだと悟った。
現状、アルセイユの航行速度を上回る船は存在しない。同レベルの船が敵対したとしても、錬度の差において先手を取れるという自身はある。
先日戦った古竜レグナートのような人知を超えた存在なら別だが……。それでも一度戦った相手に劣るとは思えない。戦い方も把握できている。
普通に考えればアルセイユの能力を使いこなしさえすれば、どのような相手でも対処し得るはずである。エレボニアの戦車部隊が攻めて来ようとも、制空権を獲得する事が出きるアルセイユ、そしてリベール航空部隊ならばどれだけ数が居ようとも殲滅すら可能だ。対応に貧窮するとは思えない。
しかし女王の言う想定外とは、その性能を発揮できない状況に置かれた時はどうするのか?、という事を問いているのだ。
確かに女王の言葉は漠然としたもので具体性はない。しかし、前回も巨大戦艦グロリアスやトロイメライ=ドラギオンのように想定していなかった相手との戦いがあったではないか。だから女王は、次にまた別の違ったタイプの相手を前にした時、どのように行動するのかを考えているか、とあらゆるシミュレーションを行っているかと問いたのである。
「申し訳ありません。今この場での返答は出来かねます……。」
ユリアは少し思案した末、自身の思慮の足りなさを晒した。そう答える以外の言葉を持っていなかった。
彼女の中にはいまだ、グロリアスやドラギオンに痛手を食らった事ばかりが渦巻いていたのだ。
新型エンジンを使いこなす事、あのグロリアスに対抗しうる錬度を得る事ばかりを考えて、想定外の状況に対処するという考えを失念していた。本来の戦闘とは常に想定した範囲の外で起こるもの。そういったシミュレーションついての報告を答えられなかったばかりか、試験航行回数などという「やっていて当然の事」を報告してしまった。我ながらなんと間の抜けた答えを返したのだろうか?
「ユリア大尉、私は意地悪を言っただけです。本来なら有得ない事を口にしたまでの事、気に病む必要はありません。ただ、貴方には考えられる事、考えられない事、その全ての状況への心がけをしていただきたいのです。」
「はい。自身の至らなさを痛感致しました。」
このやりとりを一番驚いていたのは、実はモルガン将軍であった。女王陛下にしては珍しい意地悪をすると思ったからだ。
いつもの女王陛下ならば、こういった意地が悪い質問をする事がない。全てを任せきりというわけではなく、要点をこちらに気づかせるように言葉を導く事がほとんどだからだ。
しかし今回は率直に思慮が足りないと言った。優しい口調ではあったが、女王陛下の指摘はまさしくそういう事である。有能であり、その実直さは誰もが認めるユリア大尉にそのような態度を取るとは、本当に珍しい事もあったものだと驚きを隠せない。
一体どうされたのだろうか? モルガン将軍はそうした変化を読み取ろうと、その横顔を覗き見た。
「時代は常に変化しています。古きを廃し、新しきを望む。過去を省みる事は大切ですが、前進を止める事は過ちである。それが世界の流れというものです。……これは私の祖母、アリシアT世が残した言葉ですが…、そうは思いませんか? モルガン将軍。」
アリシア女王はふと、そんな事を口にした。彼はそれを聞きやっと女王の真意を汲み取った。そして、なるほど、と大きく頷く。女王のおっしゃる事は自身にも身にしみる言葉だったからだ。
陛下はもう退くまで時間が無い。それからはクローディア様が女王となり、次の時代へ、また新たな若者の時代へと進んでいく。
やってくる新時代を担う者として期待しているのだ。このユリア大尉という若者に。
今後ともリベールを支える一柱として太く強く在るために、クローディア姫と共に新時代を歩く一人として、彼女に大きな期待を寄せている。…だから厳しく接した。そういう事なのだ。
………そういった意味では、モルガン自身も感心だけをしていられる立場ではない。女王の問いかけとおり、自分も後継者を育てていかなければならない時期に来ている。時代は変り行くモノ。今はまだ健在でも、これから先どうなるかはわからないからだ。
しかし、自らが引くという事は、若輩者に任せるという事。今よりも劣るやもしれない状況を受け入れるという事だ。それはとても勇気がいる事だろう。もし任せて失敗したら? 自分が居ないせいで過ちを犯したら?
陛下はそれを承知で、時代を次へと渡そうとしている。恐れずに未来を見据えている。……私にはそれがとてつもなく怖い。またリシャールの起こしたクーデターのような事件が起るのではないかと思わずには居られない。
カシウスには頼めそうにないし、もう頼むべきでもないだろう。シード中佐もまだまだ配慮に欠ける、リシャールにおいてはまだ信用すらしていない。いくらカシウスのお墨付きだろうと、こればかりには気を許すつもりもない。それだけの事をしたのだから。
後継者か……、頭の痛い問題だな…。
そう考えれば、これだ、と任せることが出来る優れた後継者と認められる者がいる女王陛下が羨ましい。
溜息をつきたい気分を紛らわすために、まだ十分に温かい紅茶を口へと運ぼうとしたモルガンは動きを止めた。そのまま、カップを見つめ動かなくなる。
「どうしました? モルガン将軍。」
「…いえ……。」
ヒルダが紅茶に何かあったのか、と問うが、モルガンはそのままカップを置いて天を仰ぐように周囲を見回した。
「…………。」
次いで、言葉を無くしたのはアリシア女王。彼女はゆっくりとテラスへと視線を動かした。落ちこんでいたユリアがやっと二人の様子を感じ取り、それに気がついた。
ユリアは慌てて椅子から立ち上がると、体に感じる微弱な変化を感じていた。
「地震……ですか?」
「そのようですが…、妙な揺れ方ですね。」
アリシア女王の声に、ユリアが答えた。先ほどから微妙な揺れが感じられる。かなり遠くの、浅いものだと思えるのだが……。皆がそれを異常と感じた。なぜかと言えば、一向にやむ気配がなかったからだ。
それからさらに3分、浅く遠い振動はまだ続いている。それは外を歩いていれば気がつかない程度の揺れかもしれない。何かをしていれば気にならない程度かもしれない。
しかし、地震というには少々長すぎた。先日ツァイス地方を襲った地震災害を思い出さずにはいられない。
「これは……本当に地震が原因なのでしょうか?」
女王の言葉に誰も答えられ者はいない。ただその場にいる皆が、例え様も無い大きな不安を持ち始めていた。三度巻き起こる災厄の始りではないかと。