嗚呼、ジョセフィーヌはいまいずこ

J 暗闇を越える道
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BGM:SC「灯火が消えた町」


 午後14:47 エルベ離宮───

 時間は少しさかのぼる。

 まだ王都防衛軍とカプトゲイエンが激突する前、エルベ周遊道より駆けつけたカノーネ率いる周遊道警備隊は、離宮の被害対応に追われていた。

 目の前に広がるのは無残ともいうべき現実。何から何までの至る所が破壊され、かろうじて倒壊を免れたエルベ離宮。そして兵士達の多くが傷つき倒れたその有様は、救護をする側にしても、どこから手をつけていいものかと躊躇ちゅうちょするほどの惨状であった。


 リベール随一の観光名所と云われたエルベ離宮は、まるで廃墟はいきょと見間違えんばかりだ。あの美しく整然とした庭園や、人々に愛される季節の花々は見る影もなく、戦いでえぐれた地面や、飛ばされた土砂に埋もれる花壇、崩された外壁など、…かつての姿を知る者なら、目をそむけたくなるような荒地が残されているのみ。

 エルベに常駐していた警備兵はほぼ全滅。そして訪れていた観光客もひどおびえた様子で、カノーネ達が到着した時、具体的に何が起こったのかを把握はあくする事さえ難しかった。


 カノーネの指揮の元、着々と救助活動が進められる事となりはしたが、救う側も救われる側も、その双方がなんとも…苦い顔をしている。一般人は特にそう思わなかったようだが、兵士の間では分りやすい程にやりにくさが表れていた。それもそうだろう。かつての敵、元情報部という反逆者の一団に手助けされる事に戸惑い、いきどおりさえ覚える王国軍兵士は未だに多いのだから…。


 それでも復旧作業は着々と進められていく。

 衝突しょうとつはない。そんな事をしている場合ではない事は誰もが知っていたからだ。カノーネによる指揮の確実さも相俟あいまって、少しづつではあるが確実に救助は進んでいる。事件は解決していないが、離宮は少しづつ平穏を取り戻していった───。



「隊長! カノーネ隊長! ああ、探しました。こちらにおいでだったのですか!」
 元情報部の、いや、今は周遊道警備隊の兵士である通称・黒装束の一人が、指揮官である彼女の元へと駆けて来た。ちょうど、離宮の一室より出てきたカノーネは、あまり浮かない様子で部下を迎える。


「隊長、どうかされましたか? 顔色があまりよろしくないようですが?」
「……あ、ええ。なんでもありませんわ。それよりどうしたのです?」
「はっ! ただいまグランセルより連絡が入りました。───やはりあの巨大人形兵器はグランセルに向かっている模様です。まもなくモルガン将軍率いる防衛隊と激突するとの事です。」
 一切の無駄なく、はっきりとした口調で報告する兵士。カノーネはその内容に一瞬だけ戸惑うような表情になったが、すぐに指揮官たるべき態度を取り戻した。



「そう───。では、王都はモルガン将軍に任せましょう。それに王室親衛隊も、リシャール様もおられるのです。心配する事はありません。……私達はこのまま救護活動を継続します。」
「はっ!」
 駆け足で現場へと向かう兵士に続き、カノーネ自らも、傷付いた兵士達が収容される仮設テントへと足を向ける。彼女は到着よりずっと指揮をりつつも、多くの怪我人の手当てを行っているのだ。

 ……そもそも、軍の人間というのは、軽症程度の治療ならば誰でもこなせるように訓練されている。打撲、骨折、裂傷れっしょう縫合ほうごう…、軽微けいび外傷程度の処置なら、一通りの治療ができるよう講習を受けてはいる。
 しかし訓練したとはいえ、その場になって平然と行える者はほとんどいない。いかに練習したとはいえ、怪我を負った者を目の前にしてしまえば、緊張と焦燥しょうそうで動揺してしまい、うろたえて冷静な治療が出来ない者が大半…というのが実情だろう。頭で覚えた事を、実際の切迫した場面で発揮できる者はそれほど多くないのだ。しかも相手が血を流し、苦しんでいればなおさらだろう。

 それに加えて困った事に、兵士といえば戦闘訓練や軍事作戦を重んじてしまうやからが多く、戦場において一番大切なのは「治療ができる人材」だという事を失念しがちである。そして残念な事に、今なおその風潮ふうちょうは変わりがない。リベール王国軍において医療チームの姿が目立たないのは、そういう理由である。



 ………そんな現状で、一番手際よく治療を行っているのがカノーネであった。その手並みは、本業の医者から見ても大したものであろうあざやかさで、しかも適切なうえに早い。


 ちまたでは、女狐だの、頭でっかちだの、リシャールの腰巾着こしぎんちゃくだのと散々に言われる人物ではあるが、平時だけでなく緊急時にも慌てる事なく、基本的なやれるべき事をちゃんとこなせるからこそ、上層部へと昇進できたという事も、また事実というわけだ。
 多少、頭脳が明晰めいせきであるくらいで昇進できるほど軍は甘くない。腰巾着になるのだって相応に優れていなければ無理なのだから、彼女を馬鹿にするのは実はかなり失敬な事なのかもしれない。



「ほら、いい大人が騒ぐんじゃありませんわよ! これしきの傷、大した事ないのですから。」
「痛っ! 勘弁してくれ…。骨が折れてるんだぜ…。」
「騒ぐ元気があれば平気ですわよ。大人しく寝てなさい!」
 カプトゲイエンに敗れた兵士達。皆かなりの怪我を負っていたが、命に関わるような深刻な状況の者がいなかったのは幸いであった。痛みを訴える程度に元気があるなら、回復も早いだろう。


「ぐっ! 麻酔を使えよ! 傷口を縫うのに麻酔も使わねぇのか!」
「薬は限られてますのよ、貴方より重傷な人達に回すのですから我慢なさい! たかが親指を少しだけ縫う程度じゃないの。なのに、いい男がぴーぴー喚くなんて、誇りある王国兵士のする事じゃありませんわ。」
「むぐっ! た、確かにそうだ! 確かにそうだが〜〜〜〜麻酔なしって……、くぅぅぅ〜〜、仕方ない! 頼むから痛くしないでくれ〜。」
 ちょっとした傷だが放置するわけにもいかず、ほとんどやった事がない裂傷部位の縫合を行うカノーネ。もちろん医者なんていないこの状況下においては、出来る者がやるしかないのだ。


 …実際にこんな事をするのは軍学校での講習以来ではあったが、軽症とはいえ放置し悪化させれば、最悪の場合は壊死させてしまうかもしれない。麻酔なしだろうと見様見真似だろうと、傷の縫合くらいはやっておくべきである。


 この離宮も間違い無く戦場だった。グランセルでの戦いは耳に届いていたものの、これを放置して王都へ向かえるような状態でもないのは明らか。
 カノーネは焦る気持ちを押さえつつも、多忙に追われて過ぎていく時間を耐えつつ、ただ黙々と作業をこなしていた。
 そして、手当てをしながら、様々な事について考えていた。



 ───それにしても…、状況がなにか妙ですわね。少し整頓してみましょう。

 クローディア王女を拉致したあの巨大人形兵器…『トロイメライ=カプトゲイエン』は、なぜ、デュナン公爵を殺さなかったのでしょう? 短時間にこれほど…、この離宮を破壊できる程の能力から察すれば、どこに隠れていたとしても離宮ごと始末する事ができたはず。
 なのに、それをしなかった。王家の者の抹殺が目的ではなかった、という事なのかしら。つまりはクローディア姫だけが目的だった、と。

 収集した話を総合すると、敵の行動はあまりにお粗末だわ。確かに強力な力を持ってはいたけれど、《身喰らう蛇》の軍事行動にしては効率の悪さが気にかかります。敵である我が軍の兵士と話して動揺したり、怯えたり、何か敵らしくない言動も目立ったという事ですし……。

 理由は……今考えてもわかりませんけれど、とにかく敵にとってデュナン公爵はどうでもよかった、と。

 …確かに、リベール王家で重要な人物といえば、女王陛下とクローディア様のお二人だけ。正直に言えばあのヘタレなデュナン公爵を始末する意味はなかったのかも。いいえ、あまりにヘタレで呆れてしまったのかもしれません。本当にヘタレすぎですもの。

 だいたい……、私達、元情報部が起したクーデターでも、彼が傀儡かいらいにできそうだから使ったまでの話。そうですわ! もうあそこまで来たら生ゴミ同然! 路上の石よりも役に立ちませんわ! ええ、ええ、そうよ! あのヘタレは部屋の隅で怯えてるのがお似合いなのよっ!



「いててててっ! 添木そえぎが食い込んでる! 食いこんでる! 腕が折れてるんだからカンベンしてくれ!」
「あ、あら…」
 手当てを受けていた兵士が悲鳴を上げた。考え事に夢中なうえに、いつのまにか青筋を立てて怒っていたらしいカノーネは、添木を当てる場所を間違えたうえに全力で包帯を縛ってしまったらしい。治療を受けていた兵士は可哀想に、泣きそうな顔をしてカノーネを恨めしそうに見ている。


「ま、まあ、これくらいは問題ないですわ! さ、叫ぶ元気があるなら、他の怪我人の手当てに回りなさいな。ほ、ほほほほ……。──はい、治療終了! 頑張ってらっしゃい。」
 適当な事を言いつつ、笑ってごまかす。…ま、まあ、応急処置なのだから、本職の医者に見てもらうまであれで我慢してもらうとしよう。そう、本業じゃないのだから仕方ないじゃないの。そういうわけだから、仕方ないという事で気にしない。…そういう辺りは根性が座っているカノーネである。


 それよりも、だ。

 先ほど顔を会わせたデュナンを思い出して、カノーネはまた腹が立った。
 暗い部屋の隅で布団に包まり、人形兵器が怖い怖いと怯えて……泣いて……、あのあまりにも情けなすぎる姿を目にしたからだ。

 とても王家の者とは思えないような誇りも威厳もまったくないひどい有様を見て、カノーネは愕然がくぜんとした。かつては利用しようとしたとはいえ、ああまでみじめな人物だと思うと、溜息さえ出てくる。
 抑えきれずに散々文句は言っておいたけれど……立ち直れるとは言いがたい。たぶん無理だろう。なんせデュナン公爵なのだから。

 まあ、彼が王家の厄介やっかい者で終るならそれもいい。あとは彼の問題なのだから。
 どんなに言葉を投げかけても、最後に自分で立ち直れない者は、所詮しょせん、その程度なのだ。


 ……カノーネが何をそんなに怒っているかというと、実は怯えていた事自体についてではない。

 従者であるフィリップが敵と戦い力尽きたというのに、それを気に止める事もせず、人形兵器が怖いと一人で怯えている事についてである。自分もリシャールの部下として行動を共にした身であり、今なお、真の主は彼以外にいないと思っている。王家の人々が嫌いなわけではないし、好ましい人々だとも思うのだが、……やはり我が主はリシャール様しかいない。

 主のために戦い、傷つき倒れる事は、部下としてなんの憂いもない。むしろ望むべき事だ。…しかし、そういった行為でさえも忘れ去られている部下は……悲しい…ものなのだ。
 だから、そんなフィリップの姿と自身の姿を重ね合わせてしまう。自分のように主に恵まれなかった彼が、”報われない部下にされてしまった”あの老紳士が、あまりに不憫ふびんなのである。

 デュナン公爵が怯えるのはいい。誰だって仕方ない時はある。
 ……だけど、ほんの少しだけでいいから、フィリップの身を案じて欲しかった。



「はい、次の人! いいですわよ、とっと治療して差し上げますからお座りなさい」

 そう思うと、どうしても感情が怒りへと変換されてしまうのが彼女である。それとはまったく関係ない人々への治療だというのに、なぜか不機嫌になっているカノーネ。…それを見た兵士達は、少しくらいの痛みは我慢して治療を受けようと思った。…なんか怖いから。

「……すまないな、カノーネ警備隊長……。」
 何人目かの兵士を治療した後、彼女の目の前に座ったのは、このエルベ離宮を警備する隊長だった。足を引きずり、肩に血を滲ませるその姿は、敗残兵そのものといった生気のない顔つきをしている。
 カノーネはそんな彼を見て戸惑うでもなく、驚くでもなく、いつも通りの口調で話しかけた。


「見事に負けましたわね。でも、間に合わなかった事への謝罪は致しませんわよ。」
「……ああ、それは仕方がない。我々がもっと強ければ、こうはならなかったのだからな。」

 エルベ警備隊長はゆっくりと椅子に腰掛けた。

 デュナンの事を頭から追い出し、早速、治療を始めたカノーネではあったが、目の前の警備隊長は目を伏せるように落ち込んでいるようである。彼女は、そのあまりに覇気はきのないその姿に首を傾げた。
 それもそのはず。彼は傷の痛みを堪えるよりも、責務をまっとう出来なかった事への罪悪感に潰されていたのだ。自分が、自分達がもっとしっかりしていれば、こんな結果には終らなかった。敵にここまでやらせてしまう事もなかったはずだ。……そう思い詰めていたのである。


「いだだだだだっ!」
 カノーネは、そんな情けない顔をする隊長の包帯を、思いっっっきり引っ張ってやった。

「な、何をするんだ、痛いじゃないかっ」
「隊長という役職の者がそんな顔をしてどうしますの?! 一度負けたくらいで情けない。民間人に怪我人はなく、代わりに兵士がズタボロになっただけなのでしょう? 立派に役目は果たしているのではなくて?」

「いやまぁ…、それはそうなんだが……。」
 先ほどの不機嫌さも相俟あいまってか、妙に気迫が込められた口調のカノーネに口答えもできない警備隊長。確かに、そう言われればそれも事実ではあるので、歯切れ悪くも認める。

 …彼は、カノーネという女が軍部の中枢におり、クーデターを起した情報部の頭脳的役割だったという事を知っていた。これまで会った事はなく、見かけた程度ではあったが、正直なところ、裏切り者として心象がよくない相手と認識はしていた。
 そんな相手にしかられるなど思ってもみない事だったので、何をどう返答していいのか、と困惑してしまう。


「とにかく! ここの隊長は貴方なのですから、もう少しシャッキリなさい!」
「…は、はい!」
 押し切られてしまった……。
 が、こんな奴だったか? なんだか印象が違うような気がしてならない。前はもっと…無駄話など一切しない、ズル賢い女狐のようなイメージがあったような気がするような…、しないような…。あまり知らないからかもしれないが、なんで自分がそのカノーネにしかられているのか、と悩んでしまう。


「隊長! 大変です! …ああ、エルベ警備隊長もおられましたか、失礼致します!」
 そこへ黒装束の兵士が慌てた様子で駆けてきた。兵士は姿勢を正し、エルベ警備隊長へと敬礼する。
「何がありましたの? ……まさかグランセルから?」
 無言でうなずく兵士に二人は表情を固くした。兵士は手にした報告書をカノーネへと手渡す。


 カノーネは、警備隊長にも見えるよう、報告書を開いて内容を確認する。その場の誰もが口を開かず、時計が刻む秒針の音だけが周囲に響いた。
 現在の時刻、午後15:35分。ちょうど、王都での戦闘が終ってから、15分ほどが過ぎた時間であった。

「───…、一時休戦…ですって!?」
「な、なんだって!?」
 声を上げて驚く二人の警備長。その予想もしなかった事態に、報告書を食い入らんばかりに見入る。そして、しばしの沈黙を余儀なくされた。





◆ BGM:FC「月明かりの下で」(FCサントラ・09)






 同時刻───、
 一つの小さなテントの上へと、それは舞い降りた。

 白い羽毛に包まれた鳥、リベールの国鳥として称えられる白ハヤブサである。その名はジーク。王室親衛隊のユリア=シュバルツが急ぎの報告をする時に使っている鳥だ。
 この白ハヤブサという種は、通常の鳥類から比較しても飛翔速度が早く、また大きさも中程度。あまり多く見かけるほど生息はしていないが、このリベールにおいて雄々しく羽ばたく姿は有名である。

 通信技術が発達し始めたリベールとはいえ、まだまだ各地への配備が整っていない現在において、その存在は欠かせないものだ。 そのスピードと正確さは何よりも信頼がおけるし、場面を選ばない情報伝聞の手段として、重要任務を担わせる事ができる。特に今回の様な通信さえ機能できない状況においては、このジークなくして軍は動く事もできないだろう。

 また、これも有名な事ではあるが、ジークは特にクローゼによく懐いており、任務がない時は彼女と共に行動している事が多い。そして、万が一にも戦闘ともなれば、彼女の補佐をし戦う事もできるという賢さと勇敢さをも合わせ持っている。
 先のクーデターやリベルアーク事件でもその本領をいかんなく発揮し、その存在は無くてはならないものとなっていた。



 さて、そんなジークが今回受けた任務は、報告書の運送である。先ほど、カノーネに預かったエルベ被害状況を王都に輸送したのはこのジークで、今回もその報告書の返信を預かり、今しがた戻ってきたところだ。
 大役を終えたジークは、もう一つの任務をこなすために大きくはばたいた。空へ舞うと敷地を旋回し、所狭ところせましと並べられている無数の簡易テントを視界に納める。そして程なく、そのうちの一つに目をつけた。

 ジークは迷う事無くその天井部へと舞い降り、小さく開いた天窓から中を覗き見てみる。



 そこは小さな一人用テント。中には一人、静かな寝息を立てて眠る娘がいる。

 その娘の名はアネラス。
 戦いに敗れて傷を負い、意識を失った彼女だった…。



 ほんの少し前、休戦となったグランセル戦場へと降り立ったジークは、報告書の輸送のついでに、アネラスの安否を見てきて欲しいという言葉通りに様子を見に来ていた。
 もちろん、”彼女の寝ているテントを探し当てて様子を見てきて欲しい”などという依頼は、鳥類の知能では不可能である。人でさえ、なんの手がかりもない無数のテントから、怪我人一人を探し当てるのは難しいだろう。
 だから、ジークがいかに優れているとはいえ、そこまで細かい事はできない。しかし、印のついたテントを探して、顔を覗かせる事くらいは出来る。空から探せば見つけるのは簡単な事だ。…いや、それだけ出来るのだから、十分に頭がいいと言えるだろう。

 依頼の主はもちろんクローゼ。……本当は彼女自身が訪れたかった。しかし王都に居る彼女には、それができる状況でもない。だから、安否を確かめる事はできなくとも、せめてジークが顔を出す事で相手を見舞いたい…そんな想いを込めて、相棒であるジークを使いに出したのだ。

「ピュイ」
 以心伝心いしんでんしん、そんなクローゼの想いをみ取ったのか、ジークはまるで自身が心配しているかのようにひと鳴きしてみる。テントの中は昼間のためかほのかに明るく、そして暖かい。その中心で昏々と眠り続ける娘、アネラスはその声に応じる事無く寝息を立てている。その表情は何か苦しげで、時折、口から短く言葉がれているのが聞こえる。
 もう少し近くで様子を見てみようと、彼女の枕元まで降りてみる事にした。小さく羽ばたいて、枕元へと降り立つ。

「…くっ…………。」
 やはり彼女は苦しげな表情で、額に浮かぶ玉の汗が、ただ事ではない状態を語っている。
 アネラスは夢にうなされているようだった。さすがのジークも表情からそれを読み取る事はできなかったが、あまりよくないという事だけはわかった。何か、悪い事でもあったのだろうか? 倒された時の傷が痛むのだろうか?

「ピュイ」
 もう一鳴きする。娘の容態を気遣う鳴き声が小さく響く。

「………………………りょ……。」
 何かはわからない。しかし、苦しみながら物言いたげな表情をしているような気がする。ジークは報告書を渡した人間を呼びに行こうと決め、入って来た天窓へと飛び上がろうとする。大きく翼を広げて、いままさに飛び立とうとした。

 そこで───、
 いきなりアネラスが起きあがり、ジークを思い切り抱きしめ叫んだ!!






「クマひゃん! 両方ほしい〜〜!!」
「ピュィィィィイィィィィィ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」






「ん? 何の音かしら??」
「……なんだろうな??」
 重々しい沈黙をしていたカノーネと警備長は、何事かと思い外へと飛び出る。そこで見たのは……。

「いたいっ! 痛いよ! 痛いってば! ひぃ〜、助けて〜!」
「ピュイ! ピュイ!」
 怒りに燃えたジークに、頭をツツかれるアネラス。彼女は寝ていたテントから全力で飛び出し、あちらこちらへ走り逃げ回っていた。いきなり抱きついた上に、力いっぱい抱きしめられたのが痛かったのか、ジークはもう許さない、といった剣幕で、一生懸命にアネラスの頭を、特にオデコをこずいていた。


「違うよ! 聞いて聞いて!」
「ピュイ!!」
 アネラスは両手を前に広げて、ちょっと聞いて、といわんばかりに待ったをかけた。ジークも”なにさ!”とでも言うように答えて、アネラスの待ったを”少しなら聞いてあげる”という怒りに満ちた雰囲気で攻撃を中止した。

「違うんだよ〜! あのねあのね! 夢の中にね、シルクハットをかぶった白くて可愛〜いクマさんと、コック帽をかぶった黒くてプリティ〜なクマさんが出てきて言うんだよ。アイスクリームとチョコレートパフェ、一つだけあげるけど、どっちがいい!?…って。」
「……………………」

「そうしたらさぁ、どうしても両方欲しいよね? あんなに可愛いクマさんが目をくりくりさせて言うんだよ? もう堪らないよ〜。とてもじゃないけど、一つを選ぶなんて……。」

 起きているというのに、まだ夢を見ているように、アネラスは至福の時を事細かに、まさしく鮮明に思い出していた。あんなに可愛い子達がどちらか一つを選べなんていうのだ。苦しむほど悩んでも仕方ないのではないか!! いや、もはやこれは拷問だ! ついつい両方を抱きしめてしまったのは、自然の成り行きとして当然なのだ。むしろ非常事態なのだ。




「………………ピュイ…?」

 まるで、”それだけ?”とでも言うようなジークの鋭い目。アネラスはそれにすら気がつかず、夢の世界に心おどらせたまま、あっちの世界アネラス・ファンシーワールドへ行っていた。

「ああ〜、今からでも遅くないかなぁ〜。もう一回選ばせてくれたら両方抱きしめてあげるのにぃ〜!」

 そんなアネラスのしょーもない妄想もうそうに、普段は温厚なジークが………とうとう”キレた”。


「許ひてー! もうしないよぉ〜。」
「ピュイ! ピュイ!」
 オデコへのつっつき攻撃が再開。もはやアネラスには弁解の余地もない。…人々の暮らしを守る遊撃士ともあろう者が、鳥に向かって一生懸命に謝るその姿は、……リベールの歴史上でも初めてかもしれない。たぶん。


 怒涛どとうの40連発を叩きこんだジークは、まったく失礼だ、と言わんばかりに突つくのをやめて、どこかの木へと飛んで行ってしまう。
 それを終始…呆然ぼうぜんと眺めていたのは、隣のテントで状況に頭を悩ませていたカノーネとエルベ警備長。その騒ぎに何事かと顔を覗かせた二人は、なんとも言えない珍妙な光景に頭が痛くなった。…カノーネは眉間みけんを押さえつつ、しゃがみこんで額を押さえるアネラスへと声を掛ける。


「……何をやってますの?」
「痛〜〜、うう、ちょっと全力で抱きしめだけなにの……。あ〜、ああ、どうもです。…ちょっとだけ、寝ぼけちゃった、かなー…って。」
 アネラスの頭は寝癖でボサボサ、突つかれたオデコは赤くなり、あまりの痛さで半ベソ状態。うら若き乙女ともあろうものが……なんとも情けない姿である。


「…はぁ、やれやれですわね。それよりもあなた、ええと…アネラスでしたわね。体は大丈夫ですの? 外傷は頭部の皮膚の裂傷程度で大した傷ではありませんでしたけれど…。他にどこか痛むところはありまして?」
「オデコがとても痛いです。ひりひりします。」

 アネラスがあのカプトゲイエンに倒された、という話を聞いて手当てしたのは、到着したばかりのカノーネであった。彼女がその容態を見た時、これはマズイと感じたのは、実は出血の問題ではない。
 出血の割に傷自体は浅く、仮に入院させたとしても1日で追い出される程度の傷であったのは間違い無い。彼女位の年齢ならばカスリ傷みたいなものである。…それよりも、一番の気にかけていたのは、むしろ脳への障害だと言えた。

 アネラスが跳ね飛ばされ、地面に叩き落とされたと聞いたカノーネは、頭をぶつけてはいないか、と心配していた。人にとって脳というのはもっともデリケートな部分であり、後遺症が残り易い個所である。ほんの少しぶつけただけなのに、打ち所が悪かったというだけで半身不随になる者だっているのだ。



「ちょっと、質問しますわよ? まじめに答えなさい」
「は、はあ? なんでしょう??」
 先ほどの姿を見れば、まっったく問題がないような気はするけれど……、もしかしたら後遺症のようなものが残っているかもしれない。それを調べるために真剣な顔で覗きこむカノーネ。赤くなったおでこに大きな絆創膏ばんそうこうを貼ったアネラスは、微妙にうろたえつつもその質問とやらに答える。


「この指、何本に見えます?」
 カノーネが出した指は、人差し指と中指の2本。アネラスは不思議そうに見たままを答える。
「ピースですか?」
「……………。」
 視覚と、それにつらなる認識力は問題ないようである。2本と答えずピースと答えている事から、ちゃんと思考も働いているようだ。しかしまだ油断はできない。その他の障害も考えられるため、もう少し確認をしようと、カノーネは質問を続けてみる。



「貴方、名前と年齢は言える?」
「はぁ…、アネラス・エルフィード。18歳ですよ?」


「職業と所属場所は?」
「えーと、ボース支部所属の正遊撃士で、こう見えても期待の新人です!」


「好きな…食べ物は?」
「アイスクリーム! 特にグランセル西区の露店で売っているアルティメット・ロイヤルバージョン三段重ねの10種類トッピングが堪りません! あ"あ"っ! で、でも、さっきのクマさんが持ってたチョコレートパフェも捨てがたいです!」
「……………。」


「じゃあ、好きな……えっと、動物は?」
「クマさんと、ウサギさんと、リスさんと、イノシシさんと、ペンギンさんと、………とにかく全部好きです!」
「……子供ですわね……。」
「ほっといてください。」


「…………タイプの男性は?」
「ハンサムで、とっても優しくて…… 希望としてはヨシュア君くらい美形が好ましいと思います! あ、それと、ぬいぐるみとかアイス買ってくれる人が大好きです! そしたらもう何処でもついて行きますよ〜!」
「え"っ…ちょ、ちょっとお待ちなさい!」
 なんだか夢を見るように遠くを眺めるアネラスに、カノーネは激しいツッこみを入れた。

「ついてちゃだめでしょう! 今時、子供でさえ用心しますわよ!」
「えー、なんでですかー? いい人かもしれませんよ?」
「とにかくダメ! ダメです! 危ないからダメ! それどころか貴方は遊撃士でしょう? 遊撃士がそれでは示しがつかないでしょう」
「む、一理あります」
 なんとなく納得していないアネラスに、カノーネはなんだか質問するのが馬鹿らしくなっていた……。



「まったく………。え〜と、じゃあ次は……そうですわ!(ニヤリ) スリーサイズを言いなさい。ついでに体重もどうぞ。」
「イエス・マム! ええ〜、と1週間前に計った時は、上からななじゅ……………、って……」




「何 言 わ せ る ん で す か っ !」





 そこでやっと、今になって遊ばれている事に気がついたアネラスは、うらめしそうな表情でカノーネを見た。最初の杞憂きゆうはどこへやら、途中から大丈夫だと確信を持ったカノーネも、その反応が面白かったらしく、ついつい質問を続けてアネラスが気がつくのに任せていた。よほど可笑しかったのか、口に手を当てて大笑いしている。

「ふふふ、異常なさそうでけっこうね。それに元気もあるみたい。」
「ううう〜、遊ばれたぁ〜。……あー…、そういえば聞きたいんですけど〜…。」
「なにかしら?」
 アネラスは左右へと視線を送り、周囲を眺めた。


「ここって、何処どこでしょう?」
 彼女は至って元気だった。脳にも問題はなく、傷も問題無い健康体である事がわかる。…しかし、ほんの少しだけ記憶が混乱していたらしく、この場所が何処なのかをいまいち認識できていないらしい。確かに、あの美しいエルベ離宮の面影はなく、至る所が破壊されているため、違うと思えても仕方がないのかもしれない。

 カノーネは自分が知り得る情報を伝える。アネラス達の戦いの結末や、報告書に記載されている事、エルベの現状など、包み隠さず全てを話して聞かせた。

「……………そう、…ですか。」
 やっと事態を把握したアネラスは、目を閉じて思いを馳せる。自分が負けてクローゼちゃんが囚われた事、王都での防衛戦が失敗に終った事、一時休戦になった事…。

 休戦になったとはいえ、戦いはまだ続いている。そして、自分はまだ動く事ができた。ならば、自分が居るべき場所はここではない。自分が出来る事をするべきではないか、と思う。
 女王陛下が代りとなってクローゼは開放された。だったら、彼女は今とても苦しんでいるんじゃないだろうか? 支えが欲しいのではないか? それなら、自分がこれからやるべき事はもう決まっている!


「カノーネさん! 私、グランセルに行きます!」
 闘志を取り戻したその瞳は決意に満ちていた。確かにさっきは負けたけど、今度は大丈夫、絶対に負けはしない! 根拠なんてないけど、行かなければならない。だって王都にはクローゼちゃんが、友達が待っているのだから。


「お待ちなさい! まったく…せっかちな娘ね。一人で突撃して解決するなら苦労はありませんわよ」
 駆け出そうとするアネラスを引きとめ、あくまで冷静な言葉で返すカノーネ。彼女の言う事は正しい。気合だけで勝てる相手ではない事は承知している。でも理屈なんかどうでもいいのだ。友達のために努力する。そんな事、考えるまでもない。


「でも、急がないと! クローゼちゃん待ってるから!」
「貴方ねぇ………。」
 カノーネの真剣な眼差しと、アネラスの燃える瞳が交錯する。しかしアネラスは止められても行くだろう。怪我をしていようと、勝てないかもしれない敵であっても、それでも行くべきだと決意を固めているのだ。

「ふぅ…、まったく。そんなボサボサに寝癖のついた頭で出かけるつもりですの? 身だしなみくらい整えてから行きなさい。」
「へ? …ああ! うひゃあ、頭がすごい事にぃ〜〜〜!」
 爆発気味の頭を必死に押さえるアネラスに、カノーネは微笑みかけた。それはこれまでの彼女では見られなかった優しいものである。そう、最初に周遊道ですれ違った時のような、あんな笑顔…。警戒していたアネラスが、いつの間にか力を抜いてしまった、あの安心感のある優しい顔だ。


「行くのは少しお待ちなさい。私達も用意をしますわ。…ここには最低限の人員だけを残してグランセルに乗り込みましょう。きっと、助けが必要なはずですから。」
 彼女はそう言い残すと、背中を向けて作業中の兵士達へと声を召集の号令を掛けた。適切つ迅速な命令を下し、そして兵士達も乱れ一つない統率の取れた動きで、瞬く間に王都出発の準備が進んでいく。

 そんな凛々りりしい彼女の背中を見るアネラスは、厳しく、しかし決意ある言葉を聞いて、カノーネという女性にまた違和感を覚えた。さっきといい、今といい、……やはり雰囲気が違う。口調は前と同じなのに、トゲトゲしさがまるでない。みんなが言うような”女狐っぽさ”は微塵みじんも感じられなかった。



「あ、あの……カノーネ…さん? ちょっと聞いても…いいですか?」
「なにかしら?」
 振り返った彼女の顔をまじまじと眺めて、アネラスは一言、ぽつりと漏らした。



「………もしかして、偽者?」

 カノーネは眉間にしわを寄せて目をつむると、アネラスの前まで歩み寄って、両手の指を頬に当てた。
 …そして、思いっっ切り──引っ張る!



「だ・れ・が、偽者ですって!? この口かしら? この口が悪いのかしら?」
「ひひゃい、ひひゃいーれふー! ほへんなはい! ほへんなはい〜!」
「おほほほほ…、よく伸びますこと。せっかくですから、どこまで伸びるか試してみましょうか?」
「ほにー! はくまー!」
 それが周囲の注目を浴びていた事など知る由もない二人に、口を挟む機会を失っていたエルベ警備隊長が、口をあんぐりさせていた。





◆ BGM:FC「胸の中に」(FCサントラ1・12)






午後16:05 王都グランセル──

 陽光はなおも天に高く在り、王都グランセルを照らす。その日差しは傾きつつあるが、まだ日は十分な高さを維持している。
 春という季節は意外と日が長い。一年と通じてみると、春は日照時間が長い期間である。秋ならば”秋の夜長”という言葉があるように、それは日照時間が少なさから来ているものだ。日照時間が最も長いのは初夏、そして次に長いのは春。この時期なのだ。…だから、この時間でもまだまだ日が高い事も頷ける。

 そういう理由で、いまこの時期の日没は少々遅めの18:00頃。───、つまり、現在時刻から換算すれば、カンパネルラが猶予を与えた日没まで残り2時間、…いや、2時間を切ったという事になる。

 しかしながら、戦いに敗れた兵士達は、いまだ傷の手当てや臨時的な復旧措置、被害の確認に追われている。反攻作戦を準備するどころの状態ではなかった。多くの兵士がレーザーカノンにより負傷し、動くだけで精一杯。付け焼刃の復旧自体もさえ満足にいかない状態だったのだ。
 その絶望の戦場跡で指揮をっているのはモルガン将軍。立っている事にも厳しい火傷のため、臨時で立てたテントで、椅子に腰掛けながらの状態ではあったが、なんとか兵を動かし復旧に全力を注いでいた。


 彼の本心を正直にさらせば、自分の指揮ではだめだ、と全てを拒絶してしまいたかった。だが、誰かがやらなければ命令さえ伝わらないのも事実。彼は自分が人として、将軍という立場として、己が英雄という者達に大きく劣っている事を噛み締めながら、この命令さえも間違っているのかもしれないと怯えながら、指示を出し続けている。


「こんな指揮でよいのだろうか…。私などが指揮した軍では、また失敗するのかもしれんな……。」
 誰もが知るモルガン将軍は、勇猛果敢ゆうもうかかんな事で知られる人物である。この弱気なつぶやきは誰に届く事もなかったが、その彼の落胆した表情を見て、困惑する兵士も少なくなかった。

 本来ならば、これだけの大敗で気を落としている兵に気力を授ける事が将としての勤めである。しかし、モルガンにはそれすらも出来ない程、うちのめされていた。頭では理解できても、心がくじけ、失敗を繰り返すというなげきの念が渦巻いている彼には、気迫を込めた激励など出来るはずもなかった。


 真近に取り残された巨大な影、動きを止めたカプトゲイエンを見上げる。
 …あの後、カンパネルラを名乗る執行者はこう言った。




「僕は用事があるから出かけるけど、日没まで動かないようにはしておくよ。……でも、それ以前に攻撃を仕掛けられたら、容赦なく反撃し出すように調整してあるからね。」



 彼があっさりと消えてからすでに30分以上、そして残り2時間を切った。
 …しかしこれ以上どうしろというのか?


 唯一の希望である女王陛下は石にされ、また、再起を賭けられるような作戦もない。リシャールは意識を失い倒れ、ユリアもまた復旧への対応で精一杯だ。このまま無為に時間を削る事しか選択できない我々に、救いの手はない。


「英雄がいないリベールは……これほど…もろいのか……。」
 リシャールの罪をただ責めていた自分が、今更ながらに情けない。英雄が去ったリベールの事など考えもしなかった自身の愚かさを悔いる。具体的な人材育成、長期的な安全への展望。そうした事を考え、悩んでさえいなかった自分。何もやっていなかった自分…。

「あの執行者の言う通りだな……。」
 すっかり老けこんでしまったかのような、まるで別人のようなモルガン。彼の護衛として従事する兵達も動揺を隠せない。怒号飛び交う毎日を送ってきた彼らにとって、その落胆はかつて見たことのないものであった。



「───っと、お待ちなさい! 勝手に先に行くんじゃありませんわ!」

「え〜、だってですね、早くクローゼちゃんを探しに行きたいんですよー」
「だったらまず、姫様がどちらにおいでになるか聞いた方が早いでしょう!」
「あ、そうですね。カノーネさん、実は頭いいとかですか?」
「ケンカ売ってますの!?」
 やけにテントの外が騒がしい。しかもその両方とも聞き憶えのある声だ。誰と聞かれればすぐにわかる。それは───、


「すいません、お邪魔しちゃいます! クローゼちゃんどこ行ってますか? あ、そこの兵士さん、クローゼちゃ……じゃなくて、クローディア様どこでしょう? むぅ、どこじゃなくて、どちらって言うのかな? 丁寧語って面倒くさいですね。」
「作戦本部なのですから、静かになさい!!」
 場違いなかしましい声。彼女達はなんの断りも躊躇ちゅうちょもなく、モルガンの居る作戦司令部の、この仮設テントへと入りこんで来た。中にいた者達は皆、何事かとその二人を凝視ぎょうしする。


「あれ、ヒゲ将軍さん?! …じゃなかった。モルガン将軍こんにちわ。」
 兵士の敬礼を見様見真似でやってみたのは遊撃士アネラス。以前、モルガンがボース市近隣にあるエレボニア帝国との国境「ハーケン門」へと常駐していた際、何度も顔を合わせた娘である。


「も、申し訳ございません、モルガン将軍閣下! エルベ周遊道警備隊、隊長以下12名、ただいま到着致しました!」
 アネラスの傍若無人ぼうじゃくぶじんな振るまいを無視するような形で、カノーネは将軍へと敬礼する。



 無言……。呆気に取られたモルガンやその他兵士はただ呆けるばかり。そして、なぜ反応が返って来ないのか不思議なアネラス達。なんとも言えない雰囲気が漂っていた。



「どうされましたか? モルガン将軍、私の顔に何かついてますか?」
 不思議そうにするカノーネに言われ、やっと我を取り戻したモルガン。あのリベルアーク事件以来、リシャールを嫌うのと同様、カノーネには会ってさえいなかった彼ではあったが、何か妙な感覚の違いを覚えてうろたえていた。
 意気消沈していたというのもあったが、どうもカノーネという女の印象が違うような気がしたからだ。



「あ、ああ…、いや、何でも無い。それよりエルベ離宮はどうした? 被害もかなりのものだと耳にしたが……。」
「ええ、それでしたらご心配なく。兵達に怪我人はおりますが死傷に至る者もおらず、一般人には被害がありませんでしたわ。離宮自体は半壊しておりますけれど、現在はあちらの警備隊長が復旧作業を指揮されてます……ああ、忘れてましたわ。デュナン公爵も至極お元気でおられます。」

 カノーネのよどみない報告。それは思ったよりも安心できるものであった。しかしここに来るまでの、王都の惨状はもう見たであろうはずなのに、彼女は少しも動じていないように見える。この燦々さんさんたる状況を目の当たりにして、沈痛な面持ちは欠片も感じていないようだった。


「あのー、報告もう終りました? クローゼちゃんの居場所教えてください。どこのテントですか?」
 待ちきれずにそわそわしている落ちつきのないアネラス。いつもなら図々しいとか、落ちつけ、とか怒鳴っているだろうモルガンも調子が狂ったように素直に答える。
「……あ、ああ。姫様なら…、遊撃士協会で休むと言われて…」
「わ、ありがとう! ヒゲ将軍さん、大好きです〜!」
「こ、こら! からかうんじゃない!」
 アネラスはそれだけ言うと、遊撃士協会へと駆けていく。その横顔のどこにも不安のようなものはない。ただ真っ直ぐに前を向き、希望を持つ者の輝きを携えている。

 モルガンはその姿を見て、何か心に引っかかるものを感じた。こんな状況で、絶望だけが残されているというのに、なぜあんなに輝いて見えるのか?…と。



「ユリアです。入ります───。」
 そこへ、作戦本部のテントへと入って来たのは親衛隊副隊長であるユリアであった。彼女もまた、あまり精悍せいかんとは言い難い、彼女らしくない冴えない表情をしている。明かに気落ちした表情でテントへと入ったユリアは、入るなり馴染みの顔がいる事に驚いた。


「カノーネ……君か……。」
「久しぶりね、ユリア。」
 クーデター後、カノーネが起こしたリシャール奪還作戦、そして再度の軍事行動。あの時、戦いに敗れたカノーネは、軍への復帰を果たした後も友人であるユリアと顔を合わせる事がなかった。

 旧友として、またライバルとして良き争いをしてきたユリアにとって、カノーネの起こした事件は大きなショックだった。だからこそ、復帰したという話を聞いた後、また、いつか肩を並べられるのではないかという期待も、少なからずあるにはあったのだが…、そう簡単にいくわけがない、という現実も当然のように理解していた。

 自分達が行く道を違えた事で、いや、情報部と親衛隊に分かれた時からすでに、二人の間には大きなへだたりと埋めようの無い溝が出来てしまったようにも思えて、次に会ったら、どういう顔で迎えてよいのかと悩んでもいた。

 モルガンも、ユリアも、カノーネという人物にどう接してよいのかと言葉を出せず、対応し兼ねていたのだ。

 復帰してからの彼女の仕事ぶりは、軍部においても話題に登っている。日常のエルベ周遊道警備は優秀の一言に尽きる確固たる成果をあげているし、今回の敵襲撃についての迅速な報告、そして救助活動も誰よりも早い処置を行っていた。彼女が職務に忠実で、人々のために尽力している事は誰の目にも明らかだ。

 だが、これまでの事があるのも確かな事。反逆という過去がある以上、素直に賞賛を送る事もできない。人はそれほど単純に割りきる事はできないものである。失われた信頼はその何十倍、何百倍の時間と誠意を尽くさなくては取り戻す事などできないのだから……。


 そんな思いが錯綜さくそうし、誰もが何を話してよいのかと口を閉ざそうとした時、カノーネは一切の物怖じなく、質問をぶつけてくる。



「……今の私が、軍の行動仔細しさいを伺うのは分不相応かもしれませんが、それでもお聞かせください。反攻作戦はもう決まっていますの?」
 そのストレートな物言いに誰もが身をすくませる。実情、反撃どころか復旧さえ出来ていない事もあるが、カノーネ自身がこれほど気力にあふれている事が不思議に思えたのだ。
 当然、彼女も知っているであろうリシャールの容態。彼がいかに重傷で、どうして傷付く事になったかについて自分達を問いたださない。それどころか彼が無事なのかも聞かずに作戦への意欲を示している。


「………あの、カノーネ。リシャール殿が…我々を庇って傷付き、倒れた事は聞いていない…のか?」
 ユリアは、もしやリシャールの件について知らないのでは、と確認するように問いかけた。ジークに現状報告の返信を持たせたのは、自分ではないため文面もチェックしなかったからだ。
 それら全てをアルセイユのオペレーターを担う親衛隊の女官士、エコーに任せたままだったので、もしかしたら彼女がその件を伏せていたのかもしれない、と思ったのだ。
 しかしカノーネは変わらない、落ち着いた様子でユリアへと返答する。

「もちろん知っていますわ。報告書の文面を書いたのはエコーとかいう娘でしたわね。…ええ、そりゃもう傷の具合の痛々しい詳細だけで報告書4枚に渡って書かれてましたわ。いい度胸してますわね、彼女。」
「あ、ああ……。」
 そうだった。エコーは無口だが頭のいい娘で、詳細を報告せよと言えば5分でレポート10枚を仕上げる頭脳を持っている。しかしそこには一切の感情を挟まないので、あのリシャールの重傷ぶりを完璧に伝える文章を作成したのだろう。


「でも、妙な気使いは無用よ。…それどころか、貴方は何か勘違いをしているようね。」
「…え?」

「リシャール様が倒れたのは責務をまっとうされた結果ですわ。貴方が悪いわけではないし、ちゃんとした治療さえほどこせば死に至る傷ではないのですから、私がうろたえた所で何にもならないでしょう? 今やるべき事はそうじゃなくて、リシャール様の抜けた穴を私が補う事。…だったら何を迷う事があるというの?」

 ユリアはカノーネの瞳から目を外す事ができなかった。その瞳はまるで…、仕官学校で夢を語った時のような純粋な、あの頃のような力強いものだった。
 信じるもののために戦う、全力で立ち向かう意志というを光を携えた瞳、ユリア自身でさえも見失っていたであろう、希望という未来への光であった。

 敵の言葉に震え、叩きのめされた自分にはあまりにまぶしい姿。なぜ彼女はこうも強くいられるのだろう? 彼女はこれまで何度となく失敗し、どん底に叩き落されたというのに、どうして挫けず、まだ前に進めるというのか?

「ユリア、それにモルガン将軍。あなた方が敵の言葉におどらされた事も知ってますわ。…だからといって、このまま放置してグランセルが守れますの? 人々を悪意から救う事ができると言うのですか?」

 カノーネの視線はモルガンを、そしてユリアを交互に見て取り、怯えた心ではなく、その心の奥にある信念へと直接問いただしていく。



「たった一度の失敗がなんだと言いますの? 敵の言葉が的を得ていたとして、それが人々を救わない理由になるわけではありませんわ。自分に負けるのは後でも出来る事、しかし今は立ち上がるべき時なのではありませんか?」
 モルガンはその彼女の姿を別人のように見ていた。あのずる賢い女狐と嫌うどころか無視にも近い感情を抱いていたカノーネが、こうも心揺さぶる言葉を発するのが信じられなかった。

 この女の言う事は正論だ。確かに今、何を悔やんだところで時間が無為に流れていくだけで解決などしない。落ちこんでいた所で何にもならない。自分でもそれは承知している。我が心の問題など人々の命に比べれば比較にもならないだろう。
 しかし、それがちっぽけな問題であっても、人は挫けた心のままで希望溢れる行動をとる事は容易ではないのである。もし出来るのであれば自分でも動きたい。しかし駄目なのだ。何をしようにも心が邪魔をしてしまう。



「なぜだ…?」
 誰もが沈黙する中、モルガンは自然と心の内のそのままを吐露とろするように言葉を発した。

「お前は…、クーデターにしろ、再度の決起にしろ、2度も挫折を味わったではないか? リシャールを心酔したお前が、そのリシャールを失い、そしてこの絶望的な状況を目にして、なんでそこまで強く在る事ができるというのか? そう言いきれる要素がどこにあるというのだ?」

 モルガンは本当に理解できなかった。カノーネがここまで希望を持って言葉を発する理由。それがどうしてもわからなかったのだ。
 しかし、彼女は少しの動揺もない。ただ静かに知っている事、自身が感じたありのままを口にする。


「ふふ…、モルガン将軍ともあろうお方が、知りませんでしたの? 私は失敗と挫折の達人ですもの。打たれ強さは人一倍ですわ。それに今回はまだ失敗確定ではないのでしょう? まだ可能性が残されている。……こんな好条件で諦める方がどうにかしてます。もったいなですわよ。」

 そんな事を、なんでもないように言う。

 彼女はかつて、先の見えない暗闇を歩いていた。愛すべきリベールを救うための必要悪として、リシャールと共に罪を被るつもりでクーデターを決起した。しかし信頼に足る主を得たとて、彼女自身も幾度となく悩んでいたのだ。全てをあざむいてまで国を救いたいのか?と問いかける自身に。


 そんな事を考え続けているうちに迷いが生じた。その迷いが失敗を生み、挫折を生み、いつの間にか大きな過ちを犯す身となっていた。
 大罪人として拘束され、そしてリシャール様の言葉に救われた自分はすべてを悔いた。悩んで、悩んで、悩んだうえに───越えたのだ。心にかかった黒い霧の先を、”暗闇を越える道”をみつけたのだ。

 それは、本当になんでもない事。気がつかない方がおかしいような当たり前の事。
 誰もが知っているはずの答えなのに、いつの間にか誰もが見てみぬ振りをしている真実。



「こう言っては申し訳ないのですが、……きっと、モルガン将軍が失敗した原因は人を頼らなかった事にあるのです。他人を受け入れ、信じ、相談し、理解を得た作戦であったなら、きっと勝てていたのです。将軍の敗因は、私とリシャール様のように孤立したから……なのですわ。」

 自分がいれば戦える。経験があるのだから自分の考えは正しい。人間は誰しも、人との協力が最良と知ってはいても、自分の力をあてにしてしまう。

 こんな少しの事なら、話さなくたっていいと報告をおこたり、
 こんな事なら自分だけで平気と、連絡を渋り、
 これは自分が正しいに決まっているから、相談を拒否する。

 実は大変な事だったとしても、人はその時の判断が正しいと思えば自分の内で飲み下してしまう。そうやって、自己を尊重していく事でいつの間にか他者を軽視していく。それが人間というものなのだ。


 かつてリシャールがこの国の先行きを案じたように、他国に先駆け情報戦を制する事は重要だろう。軍備を強化する事も重要だ。エレボニアとカルバードという二大大国に挟まれた緩衝かんしょう国という立場にあるリベールが、何もしないままで常に他国を退けられる道理はない。
 しかし、少数の個人がいくら努力したからといって国を救う事などできはしないのだ。人の間に立ち、理解を得て協力して初めて、力は大きくなるのである。だから、助け合う事で力を得ていた遊撃士達には勝利できなかったのだ。


 カノーネはユリアを見て、モルガンを見て、そして将軍の護衛として残っている衛兵のそれぞれにも視線を送る。

「一緒に戦いましょう。皆で協力して、持てる力の全てをぶつければ、きっと勝てるはずです。」

 人を信じる事。互いを尊重し、認め合い、力を合わせる事…。それこそが、どんな苦難をも越えていける力になるのである。彼女が失敗を超えた先に見つけた答えは、簡単なようで、とても難しい行動であったのだ。



 笑顔を浮かべたカノーネに、言葉を失っていたユリアが呟いた。どこか大きく見える友人を見ながら、静かにつぶやく。
「………キミは…、いつの間に……。」
 そこで切れた言葉、ユリアはそれ以上を口に出来ない。──ただ、こう言いたかった。



”キミはいつの間に、私の前を歩いていたんだ?”



 何度となく罪を重ねた彼女が、つまずき、足踏みしていたはずの我が友人は、ほんの少しの間に、自分などよりもっと先を見つけていた。歩いていた。失敗と挫折が彼女を大きく成長させていたのだ。…それが堪らなく嬉しい。
 道を違えたはずの友人は、今ここで頼もしい戦友として隣に立ち、私の背中を押してくれる仲間として居るのだ。それを嬉しく思わないはずがない。


「ちょ、ちょっとユリアっ! なにも…泣く事ないでしょう…わ、私は泣くような話はしてませんわよ?」
「いや…すまない。泣くつもりは無かったのだが……。」

 ユリアは涙をこぼしていた。友が居る事が嬉しかった。戦える事が嬉しかった。なによりも、心強い言葉が嬉しかったのだ。そうしたらいつの間にか、泣くなんて考えもしなかったのに、涙が流れていた……。


「ほら、ハンカチ。指揮官なのですから、そんな顔しないの。」
「ああ…。すまない。」

 そんな中でモルガンは一人、難しい顔をしていた。そして、いきなり声を出して命令する。


「そこの衛兵、ワシの護衛はもういい。それよりも現状の作業状況を集めてきてくれ。ワシは現場で指揮を執る!」
「は、はっ! 了解致しました!」
 いきなり大声で呼びつけられた彼らは、事態を見届ける事を許されず、慌てて外へと駆けていく。そしてまたモルガンも何も言わずに立ち上がった。剣を杖代わりにして重い体を支え、重い足、そして重い心をを引きずりながら、テントより出ていこうとする。

 気分を害したわけではない。まったく逆だ、彼はこの場に居る事が苦しかった。成長する事をやめた自分が、様々な苦難を乗り越えた者の前にいる事がひどく失敬に思えたのだ。自分という存在が彼女達のただ足を引っ張るだけの存在にしか思えなかった。…だから、仕事を逃げ道にするように彼女らを無視した。



「お待ちくださいモルガン将軍!」
 その背に声を掛けたのはカノーネ。彼女は揺るがない意志を携えた瞳でその老兵を呼び止めた。怯えて逃げ出そうとする彼の心を引きとめてしまった。そのまま振り向かず、背中で彼女の言葉を聞くモルガン。
 何かを言われるのではないか? きっと今のカノーネに何かを言われれば、自らの呵責かしゃくに押しつぶされててしまう。そう考えると、心が痛かった。


「……反撃の手立てがまだないのなら、私が作戦を練ります。だから、あれを倒しましょう。身喰らう蛇からグランセルを守りましょう。この人々が暮らすリベールを敵意から守るために、私達のような軍人がいるのです!」


 彼女は許されないであろう言葉を口にした。状況からみて反攻の手立ては立っていないとは思ったけれど、罪人である自分が作戦を提案する事はモルガンのみならず、多くの兵士達が許さないのだと心得ている。
 それでも口に出さねばならなかった。どうののしられようとも、グランセルを救いたいのだ。


 ───その言葉に呼応するかのように、ユリアも強い意志を込めた声を発する。何かを取り戻したような、希望の込められた声はモルガンの心へ響いた。


「私も、私からもお願いします! 作戦は彼女に任せましょう! カノーネなら大丈夫です。彼女の知略なら我々にも勝機があります!」
 カノーネは驚いた顔でユリアを見た。
「……ユリア、そこまで言い切っていいの? 私は……。」
「構わない。元々、乾坤一擲けんこんいってきの策などありはしない。…だったら、私は君を信用したい。君なら、私の知る”文のカノーネ”と呼ばれた君ならば、必ず越えていけると信じている。」


 モルガンは背中でそのやりとりを背中で受け止め、深呼吸と共に上を……空を見上げた。空はただ蒼く澄み渡り、雲はただ緩やかに、人の世の何事にも関わらずに惑わずに流れていく。そんな緩やかな流れに心を落ちつけた彼は、力を抜いたように振り返り、話し始める。




「──空は……穏やかだな。そして澄み渡っている。まるで今のお前達のようだ。……私のような乱れた心しか持たない私が作戦を練るよりも、その方が確実かもしれん」

 モルガンは振り返るとカノーネとユリアの顔を真剣に見つめた。自分からすればまだ若く幼い娘のような彼女ら。…だが、その心は今の自分よりも遥か高く、この澄み渡る空のように純粋に強い力を秘めている。

 力を合わせる事を知る今のカノーネであれば、もしかしたら勝てるやもしれない。いや、少なくともいまの自分よりもよほどいい策を持っているだろう。
 …どうせ、彼女の言う通り、落ちこんでいても時間は過ぎていくのだ。失敗を恐れて今を逃げても、現実は待ってくれないのだ。だったら、今は出来る最善の策を執るしかない。諦めてはならないのだから。

「お前達が指揮を執れ。思うようにやってみるがいい。…私が兵を説き伏せよう。」
 モルガンは自身が劣っている事について、今は考えるのをやめた。全てが終り、敵が撃退できたとしたら……その時に悩んでみるとしよう。浅はかな自身をもう一度見つめなおそう。


 彼は立ち上がれたわけではない。何も解決などしてはいないし乗り越えてもいない。その心は未だ暗闇の底にたゆたっている。……しかしモルガンは、その心の奥底でほんの少しだけ、言いようのないわだかまりが消えたような気がした。





◆ 






 クローゼは軋む階段を昇り、遊撃士協会の2階へと出た。



 屋根があるはずのそこに天井はなく、見えるのは限りなく蒼く広い空。通り添いに面した部分が、綺麗な円形に削れた光景は、まるで故意に作られた出窓のように見えなくもなかった。
 そこから顔を覗かせると、周囲の家々が皆同じ状態で、巨大な光が駆け抜けた傷痕であると認識できる。避難勧告が出ていなければ大惨事になっていた事だろう。


 そして……、一番大きく見えるのは、動きを止めた巨神トロイメライ=カプトゲイエンである。



 執行者カンパネルラの言葉通りに一時休戦にはなったものの、本来あるべきではない破壊兵器は、依然として街中に残されていた。もし、少しでも攻撃を加えれば、間違い無くグランセルは灰と化すだろう。
 私は王太女として軍を指揮し、これを倒すという使命と責務を背負っている。そして石化させられたアリシアU世、お婆様を救い出さなくてはならない。


 戦わなければならない。
 守らなければならない。
 勝利しなければならない。

 女王の責務として、心に訴える言葉。気迫を込めた決起すべき想念。

 絶対に負けられない。負けるわけにはいかない。……そう理解しているはずなのに、解っているはずなのに心は奮わず、何も感じなかった。それらの言葉は、まるで砂に書いた文字であるかのように、風に吹かれて消えていく。
 砂漠にいくら水を与えても緑は戻らないように、乾き切ってしまった心に、希望という名の水を注いでも、もう元には戻らない。…クローゼの心からは、勇気という感情という泉が枯渇こかつしていた。



 そんな中で、彼女の心に繰り返し流れるのは、お婆様は言った”英雄の意味を考えろ”という言葉。
 その荒唐無稽こうとうむけいの難問とも言える問いに、クローゼはすでに答えを見つけていた。


 英雄とは、非凡な事柄を達し、行える者の事。いかなる困難にも屈せず、偉業を成し遂げられる人物。それこそが英雄である。

 カシウスさんや、エステルさん達。みんなそうだったではないか。
 挫けたとしても最後には事件を解決に導いたではないか。つまるところ、彼らこそが英雄であるのだから、それもうなずける事なのだ。自分は──ただあの英雄達に同行しただけの荷物のようなものだったのだから。


 今ここに、英雄は一人もいない。きっとお婆様は私に英雄になれと言いたかったのだ。もしくは、英雄のように人々を導き、敵を退けよ、そう言いたかったのだ。

 でも──お婆様。ごめんなさい、私には無理です。
 私はそんな事ができる英雄ではないんです。人々を導くべき優れた人間ではないんです…。

 だって今の私は、こんな時だというのに何の気力も沸かないんですよ?
 そんな私がどうして……何を成し得る事ができるというんですか?



 クローゼは、───もう…、だめだった。

 一番大切な肉親を自分のせいで失い、支えがなければ何も果たせない自分。
 英雄ではなかった自分では、何をしてもだめだと思い至っていた。
 人に頼るだけしか出来ない、ちっぽけな存在なのだ。


 だから、このまま全てが朽ち果て、このまま全てが闇に没し、このまま私の命が尽きて消えたとしても───、それでいいんじゃないかとさえ思った。

 その方が、……いっそ楽になれるのかもしれないから…。




 彼女の心は暗闇の底に在った。越えていくべき道を見つけるどころか、その気力さえも失っていた。しかも嘆く心が彼女をさらにその奥底へと向かわせ、閉ざされ往く心は途方もなく沈んでいく。もう、誰の言葉も届かない暗闇に落ちていくだけのクローゼ。

 しかしそんな彼女の心に一つだけ、どうしようもなく心揺さぶられる想いがあった。今日、さっき友達になったばかりのあの人。友達になりたてだけど、とても大切な人。ずっと一緒にいて欲しい人……。



 アネラスさん───、お願いです…お願いだから……無事でいて…。
 私はどうなってもいいから、だから……あの笑顔をもう一度だけ見せてください。






 ───トタ、トタ、トタ、トタ…

 複数の足音が階段を登ってくる。誰かはわからないけれど、今はアネラスさん以外の誰にも会いたくはなかった。もしかしたら女王という肩書きの私を軍部の人が迎えに来たのかもしれない。でも、もういやだ。私は王家に生まれただけの娘なのだから…。

 そう思う前に彼女は身を隠していた。英雄でもないのに何かを強要される事が嫌だった。もっと何でも出来る人はいるはずだ。もっと優れた人がいればいいはずだ。自分じゃなくてもいいはずだ。



「いねぇなぁ。姫さんがここだっていうから来たってのによぉ。」
「ん〜、いないですねぇ〜?」
 それは聞き覚えのある声だった。忘れるわけがないよく知る人達。リベール新聞社の記者であるナイアルさんと、ドロシーさんだ。なんで二人がここへ来たのだろうか? クローゼは隙間の開いた本棚の後ろに身を潜めながら、それでも出て行く事ができずにいる。


「ったく、何処いっちまったのかなぁ。」
「そうですねぇ、せっかく届けに来たのに〜。お城は大変みたいだから預けにいけないし〜。」
 ナイアルがライターでタバコに火をつける音、ドロシーが困ったように声を出す。

 クローゼはもちろん城の状況は気になってはいた。あのレーザーカノンの砲撃で誰か傷ついていないか、被害はどれくらいなのか、とよく知る人々の顔が浮かんでは消えていく。あの戦いが休戦になった後、それを考える余裕もなく、すぐにここへ来てしまった自分は、今のいままでそれさえ忘れていた。
 女王をやめたつもりでも、見知った人が傷つくのは辛かった。…だけど、いまここで出て行く勇気もなかった。勇気はなかったが……我慢する心が、どうしようもなく痛かった。

「クゥ〜ン、クゥ〜ン……。」
「あー、ジョセフィーヌちゃんがまた怯えて鳴いてますよぉ〜。どうしますか先輩〜。」
「どうするって……あーー姫さんじゃねぇとなぁ……。」

 ───っ! ジョセフィーヌちゃん!?

 逡巡しゅんじゅんする間もなく体が勝手に動き、本棚の影から飛び出したクローゼ。そして当然のように、二人と目が合ってしまう…。

「あーーーーーっ!」
「あ………。」
 言葉を無くしたナイアルと、思い切り叫んでしまうドロシー。そして、思考が停止したクローゼは、互いに呆然としながら突然の再会を果たした。


「あ……あの…、その……。」
 しふどろもどろに答えにならない声を出すクローゼ。隠れていた事に驚き、何を言っていいのかと彼女と同じく思考が止まってしまう二人。互いに言葉を切り出せないまま、なんとも言えない空気が満たされていた。
 そこで第一声を発したのはドロシーだった。いつもの溌剌はつらつとした雰囲気はなりを潜め、少し気落ちした様子で歩み寄ってくる。


「あのねー、この子〜、ジョセフィーヌちゃんを見つけたんだけど〜…、怯えちゃってずっと震えてるんですよぅ。だから王家の人がいないかなーって探してたんです〜。」

 立ち上がったクローゼは何も言わず、未だに震えている子犬をドロシーから受け取る。ジョセフィーヌはこれまで見た事がないほどに体を震わせていた。まるで、恐ろしいモノとでも出会った子供が布団をかぶって怯えているように…。あの元気に遊ぶ姿は欠片も見られなかった。



「ジョセフィーヌちゃん! 大丈夫よ、大丈夫だから……。」
 自然と涙が流れる。大切な家族が無事だった。探していたのに見つけて上げられず、怖い思いをしていた。まだこんなに幼いというのに、こんなにも震えて怯えて…。私が見つけてあげていれば、こんな想いはさせなかったのに……。
 ナイアルは、暢気のんきにタバコを吸っていた自分が酷く申し訳ないような気がして、携帯用灰皿で火を消し、次いで頭をボリボリと掻いて言う。


「あのな、そいつ、…敵に追われてたんだよ。あの紫色のスーツの子供……身喰らう蛇の執行者だったんだってな。後で聞いて驚いたよ。」

 ───カンパネルラ──。クローゼに浮かぶあの少年。邪悪な笑みと心を隠さない執行者。彼に…追われていた? なんでジョセフィーヌちゃんがそんな目に遭わなくてはいけないのだろう?


「ごめんね……一人にして…ごめんね…、私が悪いの……私が……。」
 抱きかかえるジョセフィーヌに頬を寄せて泣く。今のクローゼには謝罪することしか出来なかった。そして再認識してしまう自身の至らなさ。”自分が出来ていれば”…全ての問いがその答えに直結し、全ての罪が自分を責め立てていく。それにより全ての重さに潰れてしまった彼女の心は、もう何の壁を持たずに崩れていくだけだった。


「お、おい、姫さん。無事だったんだからいいじゃねえか。そんなに泣く事は……。」
「そうですよぉ〜、ちゃんと会えたからいいじゃないですか〜。」
 二人は、何か妙な雰囲気を感じ取っていた。クローゼの様子がいつもと違う気がして、あまりにも怯えているような気がして心配だった。そう、今の彼女は怯えきったジョセフィーヌと同じに見えたのだ。何を言おうと言葉が届かない。震えて泣いているだけのか弱い子供。……そんな姿に見えたのである。

 仕方が無かった。クローゼはもうダメだったから…。
 何の言葉も届かない、ジョセフィーヌと同じく怯えるだけしかできないか弱い命だったのだから。




 ───トタ、トタ、トタ、トタ…

 階段を登る音がした。足音は一つ。軽快に、慣れた手つきで登ってくる。ナイアルとドロシーは横目でその姿を追うと、その見たことのある姿を捉えた。


「ああん? ああ、お前さん、…えーと──女王誕生際でシェラザートに取材をした時に一緒にいた………あ〜……。」
「あー、ナイアル先輩ひどいですよ。女の子の名前忘れるなんてー。アネラスちゃんです! うわ〜い、アネラスちゃん、おじゃましてますよ〜。」
 機嫌良さそうに階段を登ってきたのは、アネラス。さきほどグランセルに到着したばかりの彼女だった。

「あ、こんにちわー。お久しぶりで──あっ! いたーーーーーー! クローゼちゃんだぁ〜〜!」
 とびきりの笑顔になったアネラスの声に、クローゼが顔を上げる。そこには心配していたあの笑顔が、向日葵ひまわりのような笑顔の友達がいた。



「………あ……。」
 顔を上げたクローゼが彼女の姿を目に入れた。心配していた姿が、どうしようもなく望んでいた姿が目の前にあった。
 急ぎ足で近寄る二人。合いたくて、合いたくて、喜びで満たされていたはずの友達……だったが。一方のクローゼがその足を止め、逆に後ろへと下がった。


「クローゼちゃん? どうしたの…?」
 もう力いっぱいに抱きしめようかと思ったアネラスは、彼女の行動にいささか驚いた。もしかして、負けて先にやられた事を怒っているのか、とも思ったが……そうではないらしい。


「ご……めん…な………さい……。」
 クローゼの震える声。とめどなく流れる涙は、謝罪と後悔の念だけが深く在り、友人を傷つけてしまったという事実だけが重く圧し掛かる。
 だから、彼女との再会を喜ぶ資格なんてない。そんな事は許されないのだ、と無力な自分を追い詰めていく。考えるだけで全てがマイナスへと向かう。今の彼女には仕方がない事だった。

 そんな、何か違う雰囲気を感じ取ったアネラスは足を止めた。仕事柄、人が怯える姿を見る事も多い彼女は、きっとクローゼは怯えているのだ、という事を感じ取る。理由はわからないけれど、今はささくれた心をなだめてあげなければ、という事を考えるまでもなく実践する。


「クローゼちゃんは私の事、心配してくれたんだよね?」
「……ごめん…なさ…い………、私…助け……られなくて………。」
 そう、優しく声を掛けるアネラスに答えを返すクローゼ。本当にそれだけの事なら時間が解決してくれると思う。一度はやられてしまった私だけど、いまはこうして元気なのだから、それで納得してもらえばいいと思う。心が落ち着いてくれれば、きっと素直に話し合い、喜びあえると思う。
 だけど、アネラスにはそれだけではないような気がした。だって彼女は怯えているのだから。安心した涙だけでは怯える理由が分らない。きっと何か、別の理由があるんじゃないかと思う。

 普段は暢気のんきなアネラスではあるが、それでも彼女は遊撃士だ。相手がどのように困り、どのように解決させるべきなのかを知っている。遊撃士という仕事は、単に戦いに勝利する事が全てではない。その大部分は人と人との間に残す事件を解決する事にある。
 相手の心を安心させる事。それが遊撃士に一番求められる能力なのだ。

「どうしたのかな? お姉さんに話してみようよ。」
 遊撃士として彼女は優秀かもしれない。正遊撃士になって日が浅いかもしれないが、彼女はそうした人に対する接し方が誰よりも長けている。しかし、アネラスはそれを技術として習得しているわけではない。


「クローゼちゃん、私は平気だよ。だからね、どんな事だって出来ちゃう。あなたの心を一緒に背負ってあげるられるよ。うん、大丈夫。……だって私達───友達だもの。」
 とても優しいのだ。アネラスは誰よりも、……優しかったのである。彼女の笑顔、そしてその言葉は人を安心させる。いくら努力してもかなわない。技術なんかでは及ばない人としての慈愛を持っている。豊かな感情、穏やかな心、それがアネラスという娘なのである。


「……アネラスさん…、私……私は───」
 クローゼの心は砕けていた。あんなに泣き叫んでいた。…だけど、目の前に居るこの人は安心できた。優しかった。忘れかけていた友達という言葉を思い出すと、なんでも許してもらえるような気がした。

 だからクローゼは、一番の、心を締め付けていた言葉を口にした。



「…私は───女王には…なりま……せん………。」





◆ 






「んーまあ、なんだ。姫さんは任せてくれ。無事に離宮まで送り届けるさ。」
「はい。よろしくお願いします。」
 新しいタバコを口にしたナイアルは先頭に立つと、アネラスに送り出されて階段を下りていく。その後ろをジョセフィーヌを抱きしめたままのクローゼと、ドロシーが続いた。

 見送るアネラスは、いつもと変わらず元気なままで手を振る。


「アネラスさん──!」
 ドロシーに背中を押されながらも、心配するクローゼが声を掛けた。その声には様々な気持ちが入り混じっているだろうという事は、誰もがわかっている。


「うん、大丈夫。倒したら一番で迎えに行くから待ってて。」
 笑顔で彼女を送り出す。その声にはなんの迷いもない。ちょっとした買い物をしてくるから待ってて、とでも言うような、なんでもない返事。
 クローゼはまた涙を流し、後悔するような顔をこちらへと向ける。しかし、アネラスの大丈夫だよ、という笑顔を目にして、また足を動かした。
 これが二人の出した結論、答えなのだから、クローゼは足を止めてはいけないのだと自分に言い聞かせる。

 完全に姿が見えなくなった3人、ナイアル、ドロシー、クローゼは1階から外へと出て行った。…アネラスは目を閉じて、みんなが外へと出て行く音を感じる。扉が閉められる音は静かだったが、耳を澄まさなくともこの2階に聞こえてきた。


 アネラスは、クローゼを逃がす事にした。
 もう襲われる心配もないだろうエルベ離宮へと避難してもらうと決めた。


 この事件にはもう関わらせない。今の彼女に何かを要求するのは無理だし、落ちつける時間が必要だと思ったからだ。
 彼女は誰よりも重い責務を背負っていて、それが圧し掛かっていた。そしてそれを指摘され、事実を突きつけられてくじけていたのだ。女王になるという事がどれだけの重荷であるのかは計り知れないし、理解できるはずもない。

 さきほどの独白する彼女の姿を見て、どんなに辛かったのか、という事は分った。分りすぎて聞いているのも辛かった。だから、敵への憤りを覚えると共に、避けられない運命を背負うクローゼを案じた。


 ──でも私は、彼女が女王様だから好きなんじゃない。友達だから大切なのだ。
 だったら、無理をさせたくもない。いまこの戦いぐらいリタイヤしたっていいと思う。


 友達が苦しむ姿を目にして、それを癒してあげたいと思うのは当たり前だし、それを取り除けないまでも、少し手助けしてあげられるのなら何でもしたいと思うのは誰だって同じだと思う。
 だからアネラスは、勝てないかもしれない相手を前にしても引くつもりがなかった。敵がどうとか、武器が効かないとか、そんな些細ささいな事はどうでもいい話。友達が苦しんでいるのを助けるのは当然だもの……。



 アネラスは遊撃士協会から外に出ると、モルガン達を探した。これから行われるであろう反攻作戦に合流して力を貸さなくてはならない。
 遊撃士協会の通信機は通じなかった。妨害されているらしく、他の支部へと連絡して助けを呼ぶ事ができないようだ。きっと、この協会を預かる受付のエルナンさんもそれを承知した上で、人々を避難させる事が先決と判断したのだろう。

 そんな時、ふと目に留まったのは人だかりだった。少し先に兵士達が集まり、なにやら言い争いをしているように見える。遠目からでもあまり穏やかと言えないその集団に、嫌な雰囲気を感じながらも、アネラスはそこへと駆けつける。




「冗談じゃない! なんでこいつの命令を聞かなきゃならないんだ!」
「そうだ! こいつは裏切り者だろう?! 平気な顔をして軍に戻ってくるなんて何様だ!」

 罵声ばせいが聞こえた。その大きな円の中心にいるのは、顔色を変えずにただそれを聞いているカノーネ。その後ろには苦い顔をしたモルガンが立っている。

 すごい剣幕でカノーネを拒否するこの兵士達は、主にクーデター事件で元情報部に煮え湯を飲まされた者達だ。彼らの暴走を止められず、遊撃士達が解決した事で、それを晴らす事ができなかった者達。リベールに住む者の誰もが優しい心を持っていたとしても、許せる事と許せない事はある。
 裏切り者がなぜか軍の復帰して、しかも自分達の指揮を執ろうとしている。こんな馬鹿な事が許せるはずがない! 兵士達の怒りは当然のものだった。



「聞け、ワシはお前達の無念も知っている! だが、今はあれを倒さなくてはならんのだ。協力しなければグランセルが火の海になるのだぞ!」
 モルガンがいくらか力を取り戻した声で兵士達へと語りかける。しかしそれが理性で分っている兵士達でも、引くに引けない感情はあるのだ。裏切り者の指揮を受けるなどというのは、どうしても耐えられない屈辱なのである。


「将軍! なぜそいつを信用するんですか!? そんな奴の口車に乗ってやる事はないんです! きっとまた何かを企んでいるに決まってます!」
「今はそんな事を言っている時ではないのです! 敵を撃退しなくては───」

 カノーネも必死で兵士達を説得しようとするものの、彼女が口を開けばその数倍の声が不満となって飛んでくる。いくら指揮をするとはいえ、今の彼女が口を挟むのは逆効果でしかなかった。

「お前なんかの指揮はごめんだ! 将軍! 俺達は貴方の指揮を待っているんです。お願いします! そいつの妄言もうげんなんか無視して、俺達だけで勝ちましょう!」
「そうだそうだ! 俺達はカノーネなんかの指示は受けない! 大人しく牢屋に入ってろ!」

 兵士達の不満は止まらない。敵が目の前にいようと、時間が押し迫っていようと、そんなものは関係がない。許せない奴がここに居るならば、何を我慢する事があるのか。


 ずっと不満に思っていた。
 リシャールを護衛にするという女王陛下の判断は甘い、と!
 カノーネや黒装束が軍に復帰する事がおこがましいと!


「貴様ら! 我々の隊長を侮辱ぶじょくする気か! それ以上の暴言は許さんぞ!」

 兵士達の不満を暴言と判断したのは、カノーネ指揮下の黒装束達である。エルベ離宮にその半数を残してきてはいたが、その全員がカノーネに対する忠誠を崩さない。彼らはカノーネがリシャールを主と決めているのと同じように、彼女を絶対的な忠誠の対象としているのである。

「駄目よ、言い返しては駄目。」
「いいえカノーネ隊長! もう我慢できません! こんな奴らに隊長が頭を下げるなんてする必要ありません!」


「なんだと! 貴様ら裏切り者が偉そうに…! 軍に戻ったからってお前達が罪人なのは変わらないんだぞ!」
「何を! リベルアークの時にグランセルを守ったのは我々なんだぞ! 先にあっけなく敵に倒されたのはお前達だろう! 弱いくせに吠えるな!」
 兵士も黒装束も激突寸前である。将軍の抑止も耳に届かず、互いが互いを否定し、暴言を口にしている。相手が何かを言えば、それ以上で言葉を返す。売り言葉に買い言葉。泥沼とも言うべき状況である。



「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! カノーネさんは悪い人じゃないんですから!」
 そこへ飛び込んできたのはアネラスだった。この言い争いを耳にして、口を出さずにはいられなかったのだ。
 しかし、兵士達はいきなり割り込んで来た彼女を見て、不快という顔を向ける。カノーネをかばった事もそうだが、彼らはモルガンを支持する者達でもある。前のモルガンが遊撃士を嫌っていたのと同じように、彼らもまた嫌っていたのだ。


「なんだお前は? 遊撃士の小娘じゃないか! 将軍、また遊撃士がうろついていますよ! 言ってやってください! 迷惑だって。」
「え、えええ…? あ…いえ、その───」
 まさか自分が暴言の対象になるとは思わなかったアネラスは、うまい言葉を見つけられずに口を押さえた。


「待て! ワシは確かに前は遊撃士を嫌ってはいたが……。」
 慌てて兵士達に弁解しだすモルガンではあるが、感情が高ぶっている者達へはそれがまともな声に聞こえない。それに、モルガンは遊撃士を認めたのはごくごく最近で、特に誰かに話していたわけでもないのだ。最近の遊撃士との協力体制も、カシウスが居たからだという風潮が兵士達にはあり、モルガンが遊撃士と和解したなど、信じない者も多かったのである。



「ふふん、役に立たない王国兵が何を言うのか。結局は遊撃士に救われたんじゃないか。感謝してやれよ、役に立たないで申し訳ないってな!」
「キサマぁーーー!!」

「や、やめましょう! お願いですからっ!」
「落ち着け! 落ち着かんか!」
「───私は…どうしたら…。」

 アネラス、モルガンが互いに声を上げ、カノーネが黙り込む。しかし彼らは何を言っても怒りを増すだけで、事態は悪い方へと傾いていく。こんな時に何を、と思うのかのしれないが、これは……今のリベールの本当の姿だった。


 リベールの内部は、あまりにもバラバラだったのだ。

 クーデターで巻き起こった兵士達の不満。リベルアーク事件で巻き起こった不満。王国兵であれ、黒装束であれ、リベールという国の現状を憂う心を持つ彼らは、いつしか軍を二つに分けて考え、双方ともに、奴らが悪いから責められて当然だ、という考えを持つに到っていた。
 それが噴出せず均衡きんこうを保っていたのは、カシウスという英雄、シンボルともいうべきカリスマが支えていたおかげだった。しかし彼がまた再び軍を去った事で、それが崩れてしまっていた。そうなれば、もう止める手立ては残されていない。



 リベルアークの事件を経て、解決したのはたった少しだけの、表面だけの事でしかない。大いなる危機が去っただけで、リベール王国に残された問題は山積みであった。そうした問題が、この第三の災厄で噴出していたのである。これはリベールという国が抱えていた避けられない問題でもあったのだ。


「お前達が居るから───っ!」
腑抜ふぬけどもが邪魔を───っ!」


 彼らの怒りは止まる事がない。根本たる問題は彼らの心の中にあるのだから、これを丸く治めるのは誰であっても無理なのだろう。英雄という者が居ないリベールは、国自身が抱える暗闇によって、破滅への道を歩んでいるのだ。
 このまま時間が過ぎてしまえば、全ての想いが無駄になる。それはモルガンも、カノーネも、アネラスも感じていた。しかし焦ってみても誰も説得する事ができない……。


 ───ガゥン!!

 ……間近での銃声! 誰もが驚き、言葉を無くす。


「静まれ! 兵士達!!」
 そこに立っていたのは、親衛隊の隊員を引き連れたユリアだった。右手に握るのは導力銃ではなく、礼式に使う火薬銃である。導力銃と違って火薬を使う事により実体弾を撃ち出す。そして凄まじい轟音を鳴らすものだ。そのために礼式で使用されるものだが……その殺傷力は並みではない。
 それを握ったユリアの右腕は天に向かって伸ばされ、表情は石よりも固く引き締められていた。


「……な、なんだ…、親衛隊じゃないか…一体何の…。」
 誰かが言う。全ての視線をその身に受けたユリアは、なんと──その銃を自分の肩に向け、そして迷う事なく引き金を引いた!


 ドシュッ!…という肉を引き裂く嫌な音と共に、ユリアの肩に風穴が開く。ユリアは顔色を変えず、飛び散った血で顔を汚してなお、その視線を戸惑う兵士達から外さない。

「───っ! ユリア!」
 カノーネが叫び近寄ろうとするが、彼女の視線がそれを許さないと語っていた。そして親衛隊の誰一人として動く者もいない。その瞳はユリアと同じく、何があろうとも引く気はないという事を示していた。


「聞け! リベール王国軍に所属する兵士達よ! いま、この国は重大な危機に見舞われている! 我々が動かなければ、人々はその命を失う事になるだろう!
 諸君らの使命はなんだ? 国を守る事ではないのか! 今、何をするべきか考えて行動していると言えるのか!?
 諸君らの憤りはこの身に刻んだ。だから今はそのほこを敵に向けよう! 人が安心して暮らすために! 人が安心して眠るために! そして自身が愛する者達のために、今は戦うのだ!」



 その演説が終った後も、誰一人として声を出す者はいなかった。肩から血を流し、あまりの激痛に膝をついた彼女…。静まったこの場には、駆け寄った親衛隊の隊員がユリアを気使う声だけが響く。



「俺達は…………。」
 分っている。こんな事をしていても意味がない事を誰もが知っている。しかし、感情が許さなかったのだ。今の戦いにしても、これまでの戦いにしても、リベールを完全に守りきれなかった自分達にも、我慢が出来なかったのである。
 それが、相手への不満に入れ替わり、ぶつける事で解消しようとしていた。


 みんな、そうなのだ。
 誰だって、愛する者達のために戦いたいと思っている。そのために軍に入り、敵との戦いを繰り広げてきた。しかし、ここまで言い合って、いまさら笑顔ですまなかったと、引くわけにもいかない。……引けるわけがないじゃないか…。

 身を削ったユリア中尉のためにも、引くべきだと思う双方ではあったが、どうしてもその一言が言いだせない。プライドではないと思う。……たぶん彼らはきっかけが欲しかったのだ。





「このバカモノどもがっ! 何をぼうっとしておる! とっとと動かんかっ!」


 え? ──真後ろから聞こえてくる怒りの声。とても聞いたことがあるそれは…。




「あ……、おかっぱ公爵さんだ……」
 アネラスの呟きに誰もが頷いた。あのヘアースタイルを見て他人を思い浮かべる者はいない。リベールの有名人デュナン公爵を見間違う人などいないだろう。……そんな彼の登場に、誰もが目を丸くした。

「うわ、しかもあのネグリジェ着てるし……。」
 ついでに言うと、彼はいつもの上着の下に……あの悪夢のスケスケの寝巻き、ピンクのネグリジェを着ていた…。アネラスは一度見ていたので、どうにか耐えたが……、兵士達はそのアンニュイな姿に石化した───。





◆ BGM:FC「工房都市ツァイス」(FCサントラ2・03)






「聞こえぬか! とっとと動け! さあ、早く早く!」
 パンパン、と手を鳴らして集まった兵士達を追い払うのはデュナン公爵。双方が詫びる間もなく調子を狂わされ、蜘蛛くもの子を散らすように持ち場へと戻っていった。

「デュナン公爵……エルベで…怯えていたのではなかったのですか?」
 目を丸くしたのは兵士だけではない。一番驚いていたのはカノーネであった。ベッドに潜り、人形兵器が怖い怖いと怯えていた彼を散々に言い散らしてきたのだから、驚くのも無理はない。


「ふふん。カノーネよ、散々言ってくれたな! ワシを誰だと思っておる! リベール王家唯一の男子、デュナン・フォン・アウスレーゼであるぞ。あの程度の人形兵器など───ぐああぁぁぁ!!」
 デュナンが目にしたのは、先ほどエルベ離宮を破壊していった巨大人形兵器カプトゲイエンであった。さきほどの強気がウソのように頭を抱えて、しゃがみこむ。


「───…あ〜、えっとデュナン公爵閣下。心配しなくともあれは今、動きませんわ。」
 カノーネは妙に疲れた顔をしてそう言うと、デュナンは何度も人形兵器をちらちらと何度か見てから、いきなり立ち上がった。

「そうか! 動かんか! それは僥倖ぎょうこうじゃ!」
 またも強気な態度を取るデュナンではあったが、足が震えているのを彼女は見逃さない。きっと怖いけれど無茶をして来たのだろう。……それにしてもこのネグリジェ…見苦しい事この上ない格好だ。きっと「こんな王族は嫌だ・ベスト10」で、間違いなく1位になれてしまうだろう。…カノーネはなんだか泣きたかった。



「デュナン閣下、ご無事でなによりです。」
 モルガンが軽い会釈をして出迎える。実際のところ、ユリアの行動に戸惑っていた兵士達を動かしたのはデュナンなのだから、感謝してもし尽くせない気持ちだった。
 モルガンは彼に王としての資質はないとは知っていたが、それでも、彼という人物が嫌いではなかった。彼の、おおらかな部分は相手を和ませる事もあるのだ。(今回はネグリジェの効果がないとも言わないが…)


「ふん! カノーネ、来てやったぞ。…フィリップに無茶をさせておいてワシが動かんわけにはいかんしな。やたら腹が立つ言い方ではあったが、お前の言う事ももっともではある。」
「閣下……。」
 カノーネはデュナンに文句を言ったが、本当にただ罵倒ばとうしていただけの言葉だと思う。それでもフィリップの事を想い、怖い心を我慢して来たのだから、彼も捨てたものではない。


「ふふ……まあ、当然ですわね。私達が傀儡かいらいとはいえ、祭り上げた王なのですから、これくらいやっていただかないと困りますわ。」
「なんじゃとー! おのれ、フィリップよ! この腹の立つ失敬な女狐を───っと、そうじゃった。置いてきたんじゃったな。」

 彼は一人だった。その後ろに常に付き添っている老紳士の姿はどこにもない。それどころか、護衛の兵士ら連れていないようである。

 そこへ、部下に体を支えられたユリアがやってきた。肩には応急処置として、包帯が巻かれている。もう血も止められているのは適切な処置をしたからだろう。


「ユリア、大丈夫なの? そんな無茶をして……。」
「ああ、心配無用だ。……それよりもデュナン公爵閣下。このような戦場に王族が来るなど歓迎でき兼ねますが…、今この場は感謝させていただきます」

「無茶をするのう…。こっちの身が縮んだぞ。」
「はあ、申し訳ありません。それにしても……まさかお一人で周遊道を抜けて来られたのですか?」
「はっはっはっ! ワシの健脚は周遊道くらいなんてことないのだ! ジョセフィーヌに鍛えられているのだから……ああああああっ!」
「今度はなんですの?」
 さっきから笑ったり喚いたりとうるさいデュナン公爵に渋面を作ったカノーネは、面倒臭そうにしつつも、一応は聞いてみる事にした。(部下の義務として)

「ジョ、ジョセフィーヌは見つかったのか!? ワシの可愛いジョセフィーヌは何処へ行ったのだ?」
 泣きそうな顔をするデュナンに、先ほどから難しい顔で考え込んでいたアネラスが発言する。

「いました。クローゼちゃんが保護してます。」
「ぬっ、そうか。して、クローディアは何処にいる? この騒ぎを前にして何をしているのだ?」

 きっとその話題になる。そう覚悟していたアネラスは、まだ誰にも伝えていない事実をこの場で教える事にした。たぶんこれは自分が言うべき事なのだ。自分が判断してそうしたのだから、罵声を浴びても仕方がないと思う。……だから、ハッキリと伝える。


「クローゼちゃん……いえ、クローディア姫様は───逃がしました。私が彼女の身を案じてそうしました。」


 きっとここに居れば、誰かが彼女を女王だとアテにする。それでは意味がないし、彼女をまた追い詰めてしまう。だから逃がしたのだ。無理に説得させて、ジョセフィーヌちゃんを守る役を押し付けた。そうしないと避難してくれそうになかったから…。
 辛い運命を背負っているからといって、常にその最前線に置かなくともいいではないか。常に槍を向けられるような思いに晒さなくともいいではないか。女王だからって休みは必要だと思う。疲れた心を癒す時間は誰だって欲しいと思う。

 だから私は、行き先を問われても答えない。今は誰にも彼女の心を惑わせないようにしたいから。


「ふむ…、つまり、クローディアとジョセフィーヌは無事だというのだな?」
「はい、……で、でも、どこへ逃げたかを答えるつもりは───」

「無事ならばよい。ワシらが勝利してから迎えに行けばいいじゃろう。…どうせ、カノーネが今回も小汚い作戦を練っているに決まっておるのだからな。」
「こ、小汚いとは失敬ですわ! しかもなんですの? 今回も、って! その、も、が気に食いませんわ」
「はっはっは…、カノーネよ。貴様、ワシを笑わせるのが上手くなったな。」


 アネラスは戸惑う。彼らだけではなく、ユリアさんも、モルガン将軍も誰も自分を責めようとはしないからだ。ユリアさんは目を閉じて安心した様子だし、モルガン将軍に到っては聞かなかった事にしてくれているようである。
 私が勝手にした事だというに、責める者は一人もいない。それどころか安心してくれていた…。


「───あの、私……色々と悩んでいるクローゼちゃんが可哀想で…無事でいてくれればそれでいいって思って……その……。」
 ユリアは一歩踏み出し、アネラスの肩に手を置きながら……優しく…言葉をつむいだ。
「キミは、クローゼを大切に思ってくれたからこそ、そうしたのだろう? ならばそれでいい。私達の思いは同じだ。皆、彼女を愛している。だから、我々が努力すればいいのだ。」

 クローゼちゃん、愛されているなぁ…。
 肩に置かれたその手から感じるユリアの心。それが、たったそれだけの事が嬉しくて、友達を好きで居てくれる人がこんなにも多くいる事が嬉しくて……。


「お、おいおい…。」
 ユリアがアネラスを心配して、おろおろとする。

「あらまぁ、デュナン閣下、何か悪い事でもしたのではなくて?」
「ワ、ワシは何も……して……ないような…。」
 なぜか自信がないデュナンは、カノーネに言われて恐れおののいている。
「フフ…、前々から元気だけが取り得だと思ったが、お前でもそんな表情をするのだな。」
 モルガン将軍が珍しく驚いている。



 みんな、ありがとう───。クローゼちゃん、良かったね───。


 人々の温かさ、そして好きな人が愛されている事、
 それが嬉しくて、たまらなく嬉しくて、

 アネラスは少しだけ、泣いた。










 ───戦う意志は何とか一つにまとまった。
 リベールの面々はそれぞれが暗闇を越える道を見つけ、その先の曙光しょこうを目にしていた。
 しかし、敵は未だ変わらずにここに在り、時間は何も変わらずに流れ続ける。

 クローゼは戦場を去った。もうこの戦いに戻る事はないだろう。


 ……しかし結束はここにある。
 彼女を愛する人々は、リベールと彼女のために戦うのだ。



 そしてとうとう、一丸となったリベールが敵を打ち破るべく行動を開始する。
 現在の時刻、16:17。もう後戻りは許されない───。










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