ナイトメアがやってくる!

序章 『心の雨は降り止まぬ』
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BGM:3rd「爆釣王よ永遠に」(サントラ2・20)




「エステル、そっちに行った! かなり素早いから油断しないで!」

 琥珀こはくの瞳と黒の髪を持つその少年は、自身もその影を追いながら、その先を駆ける相棒へと叫んだ。
 常人からは想像そうぞうも出来ないほどの素早さを持つ彼が「素早い」と言うのだから、それの速さは並み以上という事だ。…しかし捕捉ほそくできないわけではない。予想よりも動きの速い魔獣の位置を把握はあくしながらも、相棒たる彼女へ視線しせんを送る。
 彼女は短めのスカートをひるがえしながら全力で疾走しっそう、作戦通り敵の前方へと回り込み、その行く手をふさがんと立ちはだかった!

「任せてヨシュア! こんな猿なんか旋風輪せんぷうりんで一撃よ!」
 茶色く長く、腰までの長さに伸ばされたあでやかな髪を、頭の後ろで二つのふさにしたその少女は、余裕の笑みをニンマリと浮かべて、おそい来る手配魔獣”神速猿しんそくざる”の迎撃げいげきをするため油断無くかまえた。対するそれの大きさは通常のしゅよりも小さめ、…どうやら子供のようである。それでも旅人の災難さいなんとなるなら倒さなければならない。

 彼女……エステルの得物えものは自身の背丈よりも少し長めの棒。彼女が得意とするあざやかな棒術さばきはすでに達人レベルだ。そしてその構えは、片側の先端せんたんを持つという特殊なもの。これは『旋風輪せんぷうりん』という技特有のものである。
 体の回転から生み出される遠心力で広範囲を攻撃する技。……言うのは簡単だが、絶妙ぜつみょうなバランス感覚に加えて一定の攻撃力もなくてはならない。これがなかなかむずかしい技なのだ。

「ウキーー!!」
「旋風───り……、きゃあ!」
 あまりにも素早い神速猿をらえるために、広範囲攻撃で太刀打たちうちしようと考えたエステルだったが、まさか、技をり出す前にさらに加速するとは思ってもなかった。

 こともあろうに……、チビ猿はエステルのまたの下を走り抜けてスカートをめくり、しかも手の届かないところまで行くと、あっかんべーをして、手を打ちつけながらおどっている。エステルは完全にナメられていた。

「ウホッ! ホーホッホッ! ホッホッ!! キャッキャッ!」
「うきーーーーー!! こ、このバカ猿め〜〜〜〜〜!!」
 手をわきわきとしながら怒りにふるえるエステル。彼女はこのテの悪さが大嫌いである。しかも、あのおどり! 絶対バカにしてる! 馬鹿にしまくってる! あの態度たいどが気に食わない! 今ここで百万回ボコボコにしてやらねばこの怒りはおさまらないだろう。
 やっと追いついて来たヨシュアは、相棒であり、恋人でもある(一応)彼女の姿に嘆息たんそくする。熟練じゅくれんの遊撃士になったといっても、こういうところは昔からちっとも変わらない。
「ちょ、ちょっとエステル……。猿と同レベルで怒ってちゃあ……。」
「ヨシュアはだまってて!」
「はい…。」
 相変わらずしりかれっぱなしである。昔からちっとも変わらない。

 すると、いきなりエステルが得意げな顔になった。絶対に何かをたくらんでいるというような、あやしさと邪悪に満ちた雰囲気でいっぱいである。
「ふふん。このエステル様をただの遊撃士だと思ってもらっちゃ困るのよね。」
 彼女は腰のポーチをごそごそと探し、とある品を取り出した。それは魚をかたどった金の紋章もんしょうである。恐ろしげな、それでいてニヤけた顔でそれを自身の武器に取り付けると、神速猿へとき直った。

「さあ、バカ猿っ! かかって来い!」
 エステルは再び棒をかまえた。今度も旋風輪の型である。体から放たれる闘気という名のエネルギーは、子猿への怒りによって極限にまで高まり、まるで彼女の体からえたぎる憤怒ふんぬの炎がき立っているようだ。
 そのすさまじき乙女おとめいかりに、近くでのんびりと眠っていた小動物達でさえも、びっくりして飛び起きてしまい、一目散いちもくさんに逃げていく始末しまつ……。

 羞恥しゅうち、というか屈辱くつじょく、というか……乙女にそのような仕打ちをしたという事実が、彼女にすさまじいまでの気迫きはくを与えている。近寄りがたいエネルギーがヨシュアの元にもビリビリと伝わってきていた。長年共にらした彼でさえも、ここまでの怒気をはらんだ彼女を見たことは2度しかない。


 そう、あれは確か……彼がエステルと共に暮らし始めて、ようやく打ち解けた頃の話だ。
 我が家の裏にある池に住むヌシを、苦労に苦労を重ねたすえにとうとう釣りあげ、大喜びをしたあの時……。今夜はゴチソウだとよろこんでいたその魚を、野良猫にうばわれ追いかけて行ったエステル…。あの時も、ちょうど今のような怒りを見せた。
 それにもう一つは、貯金ちょきんして買ったばかりの人気シューズ『ストレガーA』を、その日に小魔獣のシャイニングポムに片方持っていかれた時も物凄ものすごかった。逃げるポムを裸足はだしで追いかけ、素手でひっぱたいたあの時、元暗殺者という仕事をしていた彼でさえも恐怖にふるえたものだ。(結局、父さんが取り返した)

 その悪夢が再び目の前で起こりつつある。彼的には非常に恐ろしいのだけど、一応はパートナーなのだから……、と声をかけてはみる。
「あの……、エステル? 良かったら僕も手伝うけど?」
「ふふふふ……、あのチビ猿め…。思い知らせてくれるわ…。」
 ヨシュアはすでに蚊帳かやの外で、エステルの瞳には憎き猿しか写っていない。これは何を言ってもダメだろうなと納得なっとくしてしまう。……だけど同時に、いくら怒っていてもエステルはエステルなりに考えているというのも知っている。ここはだまっていた方が得策とくさくだ、とヨシュアは身をすくませた。

 こうなってしまったら、
 もはやこの同レベルの戦いを止められる者など、いるわけがないのだ。







 《七の至宝セプト=テリオン》の一つ《輝く輪オーリ=オール》。そのシステムが創り上げた虚構きょこう世界《影の国》……。

 その不可思議な事件に巻き込まれながらも、仲間と共に無事帰還きかんを果たしたエステル、ヨシュアは、寸分すんぶんたがわぬ元ある日常へと戻っていた。その戦いはほんの短い時間ではあったが、これまでの経験したどの試練にもおとらぬ程にけわしく、容易よういなものではなかった。
 しかし、彼女達は多くの苦難に遭遇そうぐうし、悩みつつも、これまでつちかってきたチームワークで解決へいたる道を見つけ出す。災いを共に乗り越えた彼女と仲間達の顔は、その結末を希望に満ちあふれたものとして残すことが出来たのだ───。

 そんな事件から4日経った今、彼女らは遊撃士として本来の仕事に従事じゅうじしている。
 そして、いまるのは事件が起る前から到着していたクロスベル自治州だ。

 『クロスベル自治州』。

 エレボニア帝国、そしてカルバード共和国との境目に在る緩衝かんしょう地帯と呼ばれる位置にあるそこは、両国の利権を争う力により、混沌とした勢力が暗躍あんやくする”最も戦場に近い土地”としてうわさされている。
 一見すれば平穏な空気といとなみが流れてはいるが、実はその裏側で激しい権力闘争、てには血で血を争う暴力事件までもがり広げられている……。そういう土地であった。エステル達はそんな危険きけんな場所で仕事をしている。

 しかしながら、今回受けた依頼はそういったたぐいのものではなく、単純な荷物の搬送はんそうである。来るべき春に使うべき種籾たねもみを運ぶというものだった。確かにクロスベルには様々な問題が持ち上がっている。だからといって通常の依頼いらいまでもが消えてなくなるわけではないのだから、こうした依頼もこなさなければならない。

 いまや熟練じゅくれんとなった彼女らにしてみれば、あまりにも初歩的な依頼ではあるが、目指す村は山脈つらなる僻地へきちにある。街道より反れたその道は、導力灯さえも満足に整備されていないため、道に熟知じゅくちしているか、もしくは相応の強さを持って徘徊はいかいする魔獣を撃退げきたいできる者でなくてはならない。ただ通るだけでも危険をともなう難所だ。魔獣そのものの強さはたいした事はないのだが、それでもただの旅人が気楽に通る、とはいかない場所だった。

 いつもならば、長年、村を行き来する「ロブ爺さん」という老人が村への橋渡しをしていたのだけれど、通常なら居ないはずの場所に現れたという『魔獣』に手傷を負わされてしまった。そのため、今回の依頼を遊撃士にたくす事となったのである。

 様々な事件が多発している事で、慢性的まんせいてきな人手不足となっている遊撃士協会支部。それに運搬うんぱん自体は急ぎはしないものではあったが、魔獣を放置するわけにもいかないだろう。この依頼は、村人へ安心をとどける仕事でもあるのだ。
 そこへ、丁度ちょうど良くやって来たのが外部から来たエステル達である。しかも、とびきりの腕利きが二人もいるとなれば、なおさら適任てきにんだろう。

 困っている人達がいる。
 そうであるなら迷わない。エステル達は二つ返事でそれをけ負う事となった。

 請け負う事となったのだが……。この有様ありさまだ……。


 ───神速猿は一気にスピードを上げた! まるで迅風じんぷうのごとく疾駆しっくするその子猿は、とても子供とは思えない程の加速を得ている。神速の名は伊達だてではないようだ。高速戦闘を得意とするヨシュアにさえも、素早いと言わせるほどの速さに対し、エステルは再度、得意技の旋風輪で対抗する。

 一見いっけんすると不利な状況にも見えたが……今度のエステルは一味違う!

 彼女は旋風輪を放つと見せかけいきおいよく体をひねると、まるで釣竿つりざおあやつるがごとく棒を振った! それと同時に、棒の先に取り付けた魚をした紋章《釣師の紋章》がかがやく。すると、なんと紋章からルアー付の釣針がの糸をなびかせて飛んでいくではないか!

 急激なスピードで伸びる針と糸、それは完璧なタイミングで、狙いすませたように神速猿の首根っこを捕らえた! そして一気に引き上げる! 神速猿は抵抗する間もなく真上へと引き上げられたのだ。

「いやったぁ〜! 大漁大漁!」
「ウキャアー!!」
 いきなり、わけもわからずり上げられたのにおどろき、めちゃくちゃに暴れる神速猿ではあったが、エステルのすさまじいまでの釣師の実力により、完璧に首根っこにかかった釣り針はどう足掻あがいてもはずれる事はない。これはもうグゥの音も出ない状況じょうきょうだ。
 さんざんあばれたすえ、どうしても外れない事をさとった子猿は、もう降参とばかりに、ぐったりとうなれた。観念したようである。

「ふふふふふ……。釣り業界の王とうたわれた”爆釣王”、このエステル様の実力をみーたーかー!」
 竿さおと化した得物を引き上げ、大人しくなった神速猿に大はしゃぎのエステル。一部始終を見守っていたヨシュアは、自分の将来に一抹いちまつの不安を持ちながらも、あっけなく終った手配魔獣との戦いと後始末のために彼女の元へと向かう。

「ほら、エステル。もう勘弁かんべんしてあげなよ。かなりこたえてるみたいだし。」
「ウッキ〜〜、キキ〜」
 釣られたままで、なんとも申し訳なさそうに何度も何度もしつこい程に頭を下げる子猿。
 誠心誠意…のように見えるその態度……。まったく、この素早い態度の変化は見上げた根性だ。動きだけでなく、転進(態度の変化)の早さまで並以上のようである。ずるかしこさもここまで来るとあきれてしまう。

 しかし、エステル的はまだまだ怒りも覚めやらぬ様子。いかに子猿だとはいえ、スカートめくりなどゆるしては乙女の沽券こけんに関わる。ここはもう少し脅かしてやらねばなるまい。

「さぁて、どーしようかしらね〜。新作の料理レシピにサル鍋なんて美味しいかもね〜…。」
 そのあまりの邪悪な表情に固まる子猿。すると今まで頭を下げていたのがウソのように、……まるで、とんでもなくおそろしい魔女に捕まってしまったかのように命乞いのちごいをしはじめた。どうやら本気でこわがっているらしい。
 もちろん食べる気なんて少しもなかったエステルだが、……これは少々、おきゅうが効きすぎたようだ。…というか、今の自分の顔がそんなに怖かったのか、と逆にショックである。エステルは呆然ぼうぜんとしてしまった。

 そんな、どっちもどっちな姿を見兼ねてか、ヨシュアは小さく溜息ためいきをつくと子猿を抱き上げて針を外す。そして手近な木へと乗せた。まさか魔女を目の前にして、無事に解放かいほうされるとは思ってもいなかったらしく、子猿は目をパチクリとさせる。
「もう悪さをしないようにね。人を傷つけるのなら本当にキミを退治しなくちゃならなくなる。……だから、もうお行き。」
 優しく、そして笑顔でそう言い聞かせるヨシュアに、本当に申し訳なさそうにする子猿。何度も頭を下げてヨシュア達の元から去っていく。元々、凶悪な魔獣ではなかったのだ。悪戯いたずらが過ぎて爺さんを傷つけてしまった、といったところか。これにりて、もう人を襲わないだろう、とヨシュアは思った。
 退治はできなかったけれど、これで手配魔獣の討伐とうばつという依頼は解決だ。退治分の報酬ほうしゅうもらえないかもしれないけど、それは大した問題じゃない。何も傷つけずに済む事が最善さいぜんであり、何事も円満解決にした事はない。それが遊撃士の仕事であり、一番のよろこびでもある。

 魔獣はただ一方的に倒すためだけに存在するのではない。様々な生き物がこの世界には生きている。だから、魔獣達が人を襲うことがないのなら、それを倒すことも必要ない。ヨシュアは、この遊撃士の仕事を始めて、強くそう感じていた。

「もうっ! ヨシュアは甘いんだから。」
「はは…。もういいじゃない。さあ、早く村へ行こう。」
 オイシイところを持っていかれた形となったエステルだったが、その顔に不満はない。
 そういえば、ヨシュアが魔獣を思いやり、自ら見逃すようになったのはいつからだろう? もうずっと前の事にも思えるし、今ではなんの違和感もない。むしろ最近では、エステルの方がちょっと甘いんじゃないかと不満をらすくらいだ。
 ……だけど、それがいい。今のヨシュアにとって、こんな事は当たり前なのだから、昔を……あの暗く悲しい暗殺者という過去を思い出すなんてしなくてもいい事だった。いまこの場の彼と共に道を歩いていければ、こんな幸せはないと思う。

「ん? 僕の顔に何かついてる?」
「───なんでもない。それよりも、子猿を捕まえても仕方ないんだった、と思い出したのよ。あたし達はもっと捕まえるのが大変な”子猫”を捕まえなくちゃいけないんだから。」
 エステルの顔つきが優しくなる。それはすぐ近くに居るはずだけど、心にまだ距離がある存在を想ったからだ。彼女らが探している想い人を心に浮かべる。あの少女の姿を想い浮かべる。

「そうだね。僕らはもっと素早くて、隠れるのが上手な子猫を探しているんだった…。」


 様々な出来事を経て、エステルとヨシュアは、《身食らう蛇》の執行者、すさまじい戦闘能力を持つ《殲滅せんめつ天使》を名乗る少女を探していた。
 天才と呼ばれていても年相応の無邪気さを持つ少女。
 強がっているけど、本当は孤独な少女。
 一人で生きていけるけど、誰よりもぬくもりを欲している少女。

 レンという名の少女は───この広い空の下、何処どこにいるのだろう? 今何を想っているのだろう?

 一人、孤独な道を行く彼女の家族になるため、エステルとヨシュアは旅を続けている。
 近くて遠い彼女へと手を伸ばすために、今日もまた、歩いているのだ。





◆ BGM:3rd「始まりの地」(サントラ1・04)








 ほどなく、二人は目的地へと辿たどり着いた。ここは種籾たねもみを届けるために向かっていた目的地、オルサ村というところだ。ちょっとした戦いはあったものの、無事に到着したエステル達の目に映ったのは、過疎かその進んだ人影もまばらな村であった。

「村っていうから、マノリア村みたいな場所を想像してたんだけど……、なんだか…違うのね。」
「………そうだね…。」
 エステルのつぶやきのような声に、ヨシュアは言葉少なく相槌あいづちを打つ。

 故郷であるリベール王国にもいくつかの田舎村はあったが、ここはそのどことも違い活気がなく、旅人さえ寄りつかない程にさびれている。なにせ導力灯さえ満足に整えられていないのだ。残ってはいても、残骸ざんがいのようなものばかりで、ほとんどの地域で導力器が普及ふきゅうしているリベールとは随分ずいぶんと差があるのがわかる。

 元々は鉱山資源を集積するために出来た集落だったらしく、敷地自体はかなり広く、家屋数も街に見える程に多いのだが、今はそのほとんどが廃屋となっていた。昔は栄えていたのだろう証が至る所に見えている。
 村の入口を飾るべく、見栄えよく作られたはずの木製アーチは、その木自体が半ばで腐って倒壊とうかいしているし、村自体を囲うさくさえも所々が朽ちている。そのどちらもが長く放置されていたようで、修繕しゅうぜんの跡は見られなかった。
 数だけは多い井戸はほとんど封印されているし、学園のような2階建ての建物は色あせちて雑草に埋もれたままになっていた……。

 唯一使われていそうな施設といえば馬屋くらいで、もう何年前のものだか判らないそこには、飼葉が申し訳ない程度に残っている。……きっと、この村では、導力車なんて裕福なモノはなく、馬や牛などの家畜を使うしかないのだろう。

 そして、そういう建築物の老朽化をさらに印象づけるのが、やけに広い敷地だ。故郷のマノリア村の2倍以上の広さはありそうのに、人自体がほとんどいない。ただ、何も無い平地と朽ちた家々があるのみだ。活気がない事が一目で分ってしまう。……それがより一層、さびしげなのだ……。


 ちかけた村。───エステルの第一印象はそういうものだった。


 故郷であるリベール王国とは違う土地。エステルはまだ、郷里きょうりを旅立って半年ほどしか外の世界を見ていない。諸外国を回った経験も浅い。だから、リベール以外での村というものを知らなかった。リベールという国自体が、本当に裕福な国であるという事を今まさに実感していた。




「おやおや、こんなに若い人が来られるとは思いませんでした。」
 そんな事を考えていたエステル達に声をかけてきたのは、長い白髪を後ろに流し、杖で体を支えた老女であった。彼女はにこやかな笑みを向けると、自分よりも随分ずいぶんと若い二人を出迎える。

「こんにちわ。かわいい遊撃士さん方。私はこの村に住む医師で、バンドルと申します。」
 その温和な微笑みに、エステルとヨシュアは改まって、彼女へと挨拶あいさつを返す。
「あ、えっと…こんにちわ。あたしは遊撃士でエステル=ブライトです。こちらは同じく遊撃士のヨシュア=ブライト。名字は同じですけど、血はつながってなくて……、えーと………。」
 自分の発言だというのに、いきなり顔を赤らめているエステルの言葉を、ヨシュアは慣れた様子で引き継いだ。

「こんにちわ、バンドルさん。ヨシュア=ブライトです。僕らは遊撃士の依頼で荷物を届けに来ました。彼女とは……兄妹みたいなものなんです。」
ちょっとヨシュア、兄妹ってなによ? あたし達ってそんなんじゃなくて……。その……
 小声で抗議するエステルだが、またもや自分で言い出して顔を赤らめている。
 さすがに初めて会った人にまで恋人を公言するのは恥ずかしいらしい。

 もちろん、ヨシュアもそういう間柄について異論などなく承知していたが、仕事で来ている以上、他人にそれを説明するのに、いきなり「彼女は恋人です」とは言わないものだろう。事実を言うことで必ずしも好意的にとらえてくれる人だけではないのだ。世の中には様々な人が居るのだから、遊撃士という仕事である以上、無難な紹介をしておく方がよい。
 それに、自己紹介として兄妹と名乗っても、きっと態度を見ればさっしてくれると思い、えて言わなかったのだ。
 そんなヨシュアの配慮はいりょの一方で、この半年の間、エステルはいつもこうして自己紹介の度に顔を赤らめ、抗議してはまた赤くなっている。そんな彼女の可愛い自爆が、なんとも気恥ずかしいヨシュアであった。もうちょっと慣れてくれると嬉しいけれど、こんな風に照れる彼女を見るのも……実は好きだったりもする。

「ほほ……、若い方はいいですねぇ…。」
 老女、バンドル先生もそれは察してくれたようで、言葉少なく流してくれた。しかし、あまりにさらりと流してくれたためか、そのセリフがあまりにど真ん中だったせいか、かえって意識してしまい、余計に恥ずかしくなって一緒になって顔を赤らめてしまう二人……。

 こんな姿、故郷の知り合いに見せられたもんじゃない。
 二人は揃って、もう少し頑張ろう、と思い至るのであった………。



「それはさておき……、村を見て驚かれたようですね。ご覧の通りさびれておりますから、お若い二人なら無理もない事でしょう。年に1、2度、まばらに訪れる旅人も皆同じような様ですから、気になさらないで下さい。」
 やわらかい笑みでそう言ってくれるバンドル先生。エステルは気持ちを切り替え、少し前のやりとりを思い出しながらも、ここに住む村人に対して、その話に触れていいものかどうかと逡巡しゅんじゅんした。
 しかし、自分達がそういう顔をしていたのを見られているのだから、隠すのもよくない、と素直に白状する事にする。

「あたし達、諸外国を回った経験がまだ浅くて…。こういう村を訪れたのは初めてなんです。それで……少し驚いたかなって…。ごめんなさい。」
「そんなに悩まなくともいいですよ、エステルさん。村が寂れているのは今に始まった事ではありませんから。………私も若い頃、様々な土地を回って病人の治療をしていたものですからね、貴方の気持ちはわかるんですよ。」
 そんなに考えなくともいい。バンドル先生はそう言ってくれる。それが本心なのだろう。
 しかしこんな事は、村にとっては事実とはいえ、不名誉な事なのだから言わなくともいい話だ。それなのに、わざわざその話題に触れて、エステルが自責じせきねんに刈られないようにしてくれたのだから、バンドルの配慮はいりょにはなんとも頭が下がるばかりである。さすがに年のこうというべきか。

 うまく言葉を見つけられないエステルは、こんな自分はまだまだ未熟なんだと改めて感じるのだった。彼女の遊撃士としてのランク自体は、大きな事件を解決した事で随分と上がったものの、人と接する事の難しさについては、まだまだ新米だと最近特に実感している。準遊撃士になった頃は軽く考えていたと思わざるを得ない難しさが、今になって分ってきていた。

 ───そんな会話を経て、バンドル先生に村長の家へと案内してもらう二人。
 その道すがら、ヨシュアは先生に世間話でもするかのように話掛けている。

「そういえば、この仕事を受けた時にうかがったんですけど、この近くに古い家柄の貴族が住んでいる、という話を聞いたんです。先生はご存知ですか?」
「ええ、イアソンさんのご一家ですね。もちろん存じてますよ。あそこのお嬢さんは私の患者ですからね。」
「……お嬢さん、ですか?」
「ええ、あなた達よりもっと…、いいえ。随分と幼い女の子ですよ。年の頃は12歳ですが、とても利発な子でね、毎週診察させていただいております。……最近の私の楽しみは彼女と世間話をする事なんですよ。」
 バンドル先生は本当に楽しそうな笑顔でそう言う。それに触発しょくはつされたようで、少々反省していたエステルも会話に加わってきた。

「へえ…、12歳か。レンと同じ歳ね。会ってみたいかも。」
「それは嬉しいですね。あの子も私のような年寄りとばかり話していては退屈でしょう。エステルさん達がよろしければ少し話し相手になってはいただけませんか?」
「もちろん。こっちからお願いしたいくらい。いいわよね? ヨシュア。」
 エステルは期待をするように彼を見ると、一瞬だけ別の事に気を取られたようなヨシュアが返答する。
「そうだね。少し話してみたいかな。」
「ん? どうかしたの?」
 その小さな変化に気づき、何気なしに聞いてみるエステルではあるが、ヨシュアはもういつも通りの様子で、なんでもないよ、と笑顔を返してくれた。


 前を歩くのは、すっかり打ち解けたエステルとバンドル先生。その後ろを歩くヨシュアは、その楽しげな二人を目にしながら、そっとベストのポケットに手を当てた。そこには一枚のメモ用紙が入っている。これは今朝、彼独自の情報網を使ってつかんだ情報が記されていた。
 仕事に集中しなければならなかったため、まだエステルには話していないし、彼自身もざっとでしか目を通していなかったが、実はレンの行方を見極める上での手がかりになるやもしれない重要な情報だったのだ。

 ヨシュアは、この仕事の後、どこかに落ち着いてからエステルに相談するつもりだ。特に今回のこの情報はレンの過去に触れるもの。道すがら話す、というわけにはいかなかったのだ───。





 いつの間にか、宿の外には大粒の雨が降り出していた。
 夕方にはあかね色だったはずの空も、いつしか夜という暗黒の空へと移り変わっていたらしい。依頼を終了させたエステル達は、突然の大雨と、すっかり日も暮れてしまった事もあり、今夜は村で唯一ゆいいつの宿を取り、一泊する事となった。

 滅多な事では旅人の訪れないこの村。その宿で女将おかみをしているのは、バンドル先生よりもさらに年老いた、70歳を過ぎたかという嘉齢かれいのご婦人。柔和にゅうわな笑みが板についた、小柄で可愛いお婆ちゃんである。
 リベール王国の女王陛下のような毅然きぜんとした力強さはないが、村人らしい純真さと素朴さがにじみ出た御老体だった。
 この村は普段、ほとんど人も来ないため、宿として営業してはいないそうだが、早くに亡くされたご主人との思い出がある場所であるため、いつでも使えるようにしてあるのだとか。それに、2週に一度は行商のロブ爺さん(魔獣に怪我を負わされた人)も来るそうだから、まだまだ辞める訳にはいかないんだそうだ。

 エステル達は旅人を思うその優しさに触れ、有難ありがたく一晩の宿を借りることにした。
 最初はあまりにさびもれた村だ、と思っていたけど、そこに住む人々は温かい人ばかりだった。ご老人だけしかいないけど、こんなに優しい村はないと、エステルは思う。







 窓の外で嵐のような雨音が響く。
 なく叩きつけられる天よりのしずくは、次第にその強さを増しているようだった。

 ……窓際に添えられたテーブルに腰を下ろし、食後のコーヒーをすする2人は、じっくりと話し合う機会を得た。女将おかみさんは部屋のキーだけを残して奥へと戻ったため、辺りには誰もいない。 ここほど他者を気にせず話せるところはないだろうし、時間もまだまだ日が暮れて間も無い。そして、語るべき事柄ことがらは充分にあった。

 さっそく、ヨシュアは調べていた情報をエステルへと伝える。

「───《身喰らう蛇》の執行者候補生、フルーレ=アーチェラル。この近くに住む貴族に引きとられた少女がその子だ。バンドル先生から聞いた話と僕の情報を併せると完全に一致する。」
「先生の言ってた”患者”って子? ほ、本当なの?」
 切り出された話はまったく予想していなかった事で、エステルは唖然あぜんとしてその内容を聞き返す。まさか、ここでレンと同年代の《蛇》が出てくるとは思わなかった。

「うん…、間違いない。この辺りでの貴族は、先生の言うイアソン家しかないし、彼らは数年前に幼女を引き取っている。…そんな話はクロスベルでも珍しい事だから。」
 ヨシュアの調査が間違っていた事は一度も無い。エステルは、今回ヨシュアが多くの依頼の中から、真っ先にこの仕事を選んだ理由がわかった。《身食らう蛇》が関わっていたからなのだ。
 あれらが関わっているとなれば、レンが関係している可能性も出てくる。もしかしたら、レンが接触するかもしれないし、命を狙われているかもしれないのだ。その先の話はすぐにでも聞きたいところだった。
 ……だが、こういう時こそ落ちつかねばならない。エステルは少しだけ頭の中で言葉を整頓して、聞きたい事、後にすべき事などを選別してからヨシュアに問う。

「その子、……候補生っていうけど、執行者にはなっていないの?」
「……うん、少なくとも僕が知る限りでは彼女は執行者になっていない。僕が組織を離れた頃まで、つまり、ワイスマンから父さんの、カシウス=ブライト暗殺の命令を受けてキミと出会うまでは執行者候補生だった。……でも、本来ならレンが持つ執行者bP5というナンバリングは彼女、フルーレが受けるはずだったんだ。」

「彼女とレンは同期に《結社》へと身を寄せた。元々彼女らが同じ犯罪組織から開放されたという事もあったんだけど…。まあ、それは後にしよう。
 ───そして君も知るように、レンの天才ぶりが発揮される。だけどそれ以上に、他者を寄せ付けない彼女の”力”は……あまりに特別だったんだ。だから最初に執行者に推薦されたのはフルーレだった。」

 エステルも《身喰らう蛇》の組織形態はヨシュアから聞いている。圧倒的な力を持つ結社の実行部隊隊長、《執行者》は急に任命されるわけではない。誰もが候補生という立場を経て実力を示し、認められる必要がある。(ヨシュアもそうした過程を経ているが、これは100%そうとも言えない場合もあるそうだ)

「でも、彼女は……とある問題で執行者にはなれなかったんだけど……、それがキッカケで《結社》からも身を引く事になった。彼女は数多ある《蛇》の尾のツテを使い、この村の近くに住む、貴族イアソン家の養女となった……。」
 ヨシュアはそこまでを一気に話すと、情報が載せられたメモ用紙をエステルへ差し出した。そこには、イアソン家が引き取った少女についてと、それまでの経緯が克明こくめいに書き留められていた。

 エステルはその内容を噛み締めるように、そのメモに目を通す。そして、自身も考えていた事を、ヨシュアに問いてみる。

「……えーと、先生の言っていた患者の女の子、それがレンとも関わりがあるフルーレって子なのは間違いないのね。──だけど引退して引き取られた……。じゃあ、その子が敵として襲ってくるって事はないのね?」
 エステルは少し緊張した様子でヨシュアに問うが、彼ははそれを困ったような、寂しげな表情で見返した。

「それは、…ないよ。彼女はもう……襲って来ることはないんだ…。」
 いつになく寂しげに答えるヨシュアに、エステルは違う雰囲気を感じ取り、表情を引き締め椅子に座りなおす。
「ヨシュアは、その子とレンの事、全部知ってるのよね?」
 真剣な顔でそう問うエステルに、ヨシュアは視線を合わせる事が出来ず、暗闇の広がる窓の外へと視線を流した。雨粒がボタボタという不規則な曲をつづる中で、ヨシュアは沈黙するようにそれを見守る。

「ヨシュア………?」
 彼の態度が重い。これほどの表情を見せた彼を、エステルはあれ以来見ていない。そう、リベル=アーク事件で想い悩んだ彼の表情を思い出させるような、笑っているようで、心が泣いているような、そんな顔。……きっと、これから話される事は、目をらしたくなるような事実でありながらも、絶対に目を逸らしてはいけない、…いや、らす事は許されない話なのだろう。

「エステルには、レンが……いや、レンと彼女がしいたげられていた頃の、過去の話はしていなかったよね…。」

 レンの過去の……話。
 少しだけ聞いたのは、レンが昔、結社ではない犯罪組織にとらわれており、そこから救われた、という事だけ。そして今の話が本当なら、フルーレという少女までが同様の立場にあったという事になる……。

 ヨシュアがここまで口を開かない理由がその過去にあるのなら、エステルはそれを聞き、感じ、覚悟を決めなければならない。レンの重荷を背負うと決めたならば、どうしても通らなければならない道なのだ。だから、気持ちを整理するために一度だけ目を閉じ、ゆっくりと深呼吸してから開く。

 すると、もうそこには覚悟の表情が宿っていた。エステルは、ヨシュアの話するであろう、その話を聞く心を強く持った。全てを聞き、それでも受け入れるべき話を聞くために。心の底からレンのためになりたいと思っているのだ。

「いいわ、ヨシュア。話してくれる? レンの事、その子の事……。」


 ───その時! 宿の扉が大きな音を立てて開かれた!

「お、お助けください!! 馬車が土砂崩れに! 旦那様方がまだ中に!!」
 飛び込んで来たのは紳士風の老人。この豪雨の中を必死で駆けてきたのだろう。全身ズブ濡れで、息を切らしてへたり込む!
 話を中断した2人は互いの視線を合わせると、すぐさま武器を手に取り老人へと駆け寄る。土砂崩れに巻き込まれたという馬車から、負傷者を救わなければならない。

「ああ、お願いします、お願いします! どうか、旦那様と奥方を! お嬢様をお助けください!!」
 精一杯の懇願こんがん。紳士風の老人は貴族の家に仕える執事なのだろう。主たる彼らの無事を心の底から案じているのだ。この宿の御婦人ほどではないが、かなりの老齢に見える執事。ここまで必死に走ってきたため、立つことも出来ずにヨシュアへすがる。

「大丈夫、僕達は遊撃士です。道は、この先の街道でいいんですね?」
「は、はい! お願いします!! どうか旦那様方をっ!!」
「任せて! あたし達が救出に行くから。お婆さん、この人をお願い。」
 タオルを持ち、慌ててやってきた女将さんは、村の人達への連絡を引き受けると、不安げな顔で2人を見送った。ヨシュアを先頭に、自身の戦術オーブメントを利用し、暗闇を照らしながら疾走する。おけをひっくり返したような土砂降りの中を、一心不乱いっしんふらんに駆けていく二人…。

 これは時間との勝負だ。
 救えるはずの命がある。少しでも遅れれば、その望みが絶たれてしまうかもしれない。
 エステルは今はレンの事を考えずに、遊撃士として目の前にある事へと集中する。

 しかし、一つだけ気になる事はあった。

 馬車に乗っていたのは執事は貴族に仕えている人。しかし、この近くに住む貴族といえば、さきほど話に出てきた古い貴族のイアソン家しかない。それはヨシュアが口にした元執行者候補生であったという少女が引き取られた家ではなかっただろうか?
 だとしたら、そのお嬢様というのが、レンより先に執行者になるはずだったというフルーレという少女ではないのだろうか? 土砂崩れに巻き込まれたのも、その子なのではないだろうか?

 こんな時に考える事じゃないのは承知しているはずだけど、レンが関わる過去であるだけに、エステルはそれを無視せずにはいられなかった。その相手が誰であれ、命が危険にさらされているというなら、が非でも救わねばならないとちかう。レンと同年代の少女ならなおさらだ。

 彼女は走る。満足な視界も利かない夜の道を、雨に打たれながらひた走る。
 その先に待ち受ける結末を知らずに、いまはただ、全力で走っていった───。








◆ BGM:3rd「煉獄への階段」(サントラ2・05)









 善も悪も、生も死も超えたところを
 淡々たんたんと歩いてきた。


 幸も不幸も無い。喜びも悲しみも無い。

 白と黒が私を切り裂いて、天と地が私をなぶって、
 私は淫らになってしまった。

 どこから始まって、どこで終わるのか。

 私はどこにも属さない。
 私は歩んではいないのだ。





 ただ、世界が回っていた。








「雨───。」
 柔らかな草をベッドにして眠りについていた少女は、夜気と忍び寄る雨音に気がつき、目を覚ます。周囲に響き渡るのは天より散り降りる無数のしずく
 空を見上げれば、……まるで、いまの自分を投影しているかのような、さびしげな虚空こくうがただ広がるのみ。少し休憩するつもりで、いつの間にか日が暮れるまで寝てしまったようだ。
 幼き少女はただ一人、起きる事さえなく、思考を働かせる事すらせず、その先の虚空をながめている。


 夢を見た。

 それはあの頃から何度もなく見た夢。
 パパからママと私が手をつないで歩いている。たったそれだけの夢……。

 だけどその夢はもうかなうことはない。そんな事は知っているけど、理解しているはずだけど、未だに見る夢。もう今の自分には手に入れる事のない夢。まさしく、夢の世界の事。

 こんなもの、とっくに切り捨てたはずだった。
 こんなもの、とっくにあきらめたはずだった。

 だけど……、とある時、とある街で、見たことがある男女を目にした。
 両親であったはずの男女の姿を目にし、レンじゃない赤子を抱いていた2人を目の当たりにした。



 幸せな光景だった。人がうらやむ暖かな家族の姿があった。

 ───しかし、レンにとっては、まったく違う感情を生んでいた。あの中に居場所はない。あの赤子が自分のいるべき場所に収まり、話題にさえ上らない。生まれてきた事でさえ無意味になってしまった。その家族の幸せは、レン自身を奈落の底へと落とすものでしかなかった。


 き上がるのは絶望感、身をふるわせる程の憎悪、嫌悪、嫉妬しっと、そしてかなしみ………。



 様々な感情が入り乱れ、その場の全てがいらなくなった。壊したくなった。
 だから、私は武器を取る。それで全てを失くしてしまいたかった。


 でも、そうはならなかった。
 吹き上がる無常の殺意をレーヴェに止められた。斬る価値もない外道だと。
 斬る事で残るのは、むなしさだけだ、と……兄のような人は無言で教えてくれた。


 そうだ、自分は《執行者》だから関係が無い。この世界はレンのために回っているのだから、あんなどうでもいい人間など相手にするのは無意味だ。
 そう割り切って、全ての念が切り捨てられたはずだった。だから、福音計画の最中に、リベールであの人達の姿をした人形を切り捨てた時でさえなんとも思わなかった。

 《執行者》として生きていく事を決めたはずだった。
 はずだった……。




 …………なのに、今になってまた、こんな夢を見る……。




 きっと、あれのせいだ。

 《影の国》の各所に生み出された過去を映し出す【扉】。煉獄の果てに在ったそれは私の過去を投影するものだった。その光景を見せ付けられたことで、思い出してしまったのだろう。忘れたはずの思い出を、自身が置かれた立場を、現実として認識してしまったのだろう。

 なんで、あんなものが在ったのだろう?

 思い出す気はなかった。思い出したくもなかった。
 再びそれに心を揺さぶられる気なんかなかった。



「………また……、雨…………」
 クロスベル自治州を目指して進路を取る彼女。先日もそうだった。目を覚ましたら外は雨が降っていた。
 私はずっと、同じような日々の中に在った。


 上体を起した少女が身を震わせる。すると、同時に彼女を雨より守っていた巨体が反応した。人形兵器には珍しい自律思考的な反応を示す駆動音。それの脚部より吹き出た温風が小さな体を優しく包み込む。

「《パテル=マテルパパとママ》……、ありがとう…。」
 これも同じだ。先日と同じセリフ、そして同じような日々。繰り返される悪夢。

 レンは戸惑う心のままで、すでに半年も一人で旅をしている。しかし、それはけして前進はない。悩みつづける心は時を止めたまま、終わらない明日への問いが、出口の無い螺旋らせんのような問いが、今日も繰り返されている。世界は回っているのに、自分だけが止まってしまったかのようだ。


 世界は自分のために回っていると思っていたのに、自分以外の世界は回り、私は止まっている。あの人の言ったとおりだ。世界は私のために回ってくれない。それどころか、待ってもくれない。

 ……置いていかれるだけの自分が、なんともみじめなだけでしかなかったのだ。



「でも、あと少し……。」
 クロスベルまで、本当にあと少し。レンの故郷である土地。全ての始まりである土地。───そして、心の奥を暖かい気持ちにさせてくれるあの人がいまいる土地……。
 真っ黒な空を見上げると、そこにあるのは吸い込まれそうな闇。先日よりも激しく降る嵐のような雨の中、レンはゆっくりと立ち上がると、濡れる事も構わずに街道へと足を踏み出す。ここから一番近い街へは徒歩で行かねばならない。《パテル=マテル》は目立ちすぎるのだ。街に入れることは無理な相談である。

「《パテル=マテル》はあの高台で待機。レンが呼ぶまでじっとしているのよ?」
 巨体よりオーブメントが生み出す駆動音。それは素直な返事のようにレンへと返る。肩と背中に装備されたブースターより宙へ舞い上がると、金属の塊とは思えないほど身軽に、その身を暗闇の空へとおどらせた。

 雨風より体をさえぎってくれていた大きな大きな体のパパとママ。
 ゴルディアス級機械人形兵器《パテル=マテル》……。

 どんな敵が来てもレンの事を守ってくれる力強いパパのような、けっしてレンを孤独にはしない優しいママのような。何があってもレンの事だけを見てくれる存在。

 その体は、ぬくもりを与えてはくれないけれど、それでいいと思っていた。
 幸せだと思っていた。


「………エステル……………。」

 だけど、心に残るのはあの人の事。
 優しくしてくれる人、しかってくれる人、想ってくれる人。


 雨は降り続く。

 ずぶ濡れになりながらも、街道を一人歩いていく。
 もうクロスベル領に入ってしまった。街の明かりが見える丘まで辿り着いてしまった。


 もし、エステルに会ったら、なんて言えばいい?
 逃げてもまだ追いかけてきたら、なんて言えばいいの?





 様々な事が怖かった。

 いまの自分が変わってしまうのではないかという事。
 つかもうとしている幸せがまたくずれてしまうのではないかという事。
 もしかしたら、やっぱり拒絶きょぜつされてしまうのではないかという事。

 けがれてしまった自分には、どこにも辿たどり着けないのではないか?
 いつまでもいつまでも、繰り返される毎日のように無意味なせいを送るのではないかと。



 それでも、道は終わる。
 つらさびしく、こおりつくような雨に濡れようとも、前に進めば道は終わってしまう。
 答えを出さなければならない時をむかえてしまうのだ。




 レンは、
 その終着点で、何が待っているのか………………それが、怖かった。


 結果を出すのが恐ろしかった。









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