ナイトメアがやってくる!

1章 『死をもって瞑すべし』
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BGM:3rd「招かれざる者」(サントラ1・06)


 雨と風とが世界を凍りつかせようと猛威を振るう中、オルカ村より20分ほど先まで進んだエステルとヨシュアは、暗闇に惑わされながらも、土砂崩れの起きたという現場へと到着していた。

 そこは見上げる程の岩肌が両側にそびえ立つ、閉ざされた峡谷きょうこくのような山道で、道幅は馬車一台がどうにか通れる程度のもの。谷間の道である事と、空一面が厚い雨雲によっておおい尽くされている事から、普段の闇夜よりもかなり暗い。オーブメントの灯りがなければ1セルジュ先すら見えないだろう。

 唯一ありがたかったのは、足場が整っていた事だろうか。普段、村人が頻繁ひんぱんに使うためか踏み慣らされており、また、平坦であったため、暗闇の山道とはいえ、まったくつまづくことなく辿たどりつく事ができた。……もちろん、そうでなければ馬車などが通れるはずもないのだが。






 ……そして、



 立ち止まった彼らの眼前には、道そのものを塞ぐかのような巨柱が在った。まるで岩肌そのものが槍のように大地へと突き刺さっているかのような光景である。それに加えて大量の土砂と無数の岩々。それらが狙いすましたように、その足元に敷かれた古風な馬車へと集中していた。

 巨岩は容赦なく馬車全体を襲い、動力であったはずの2頭の馬は下敷きとなり絶命している。かろうじて直撃を免れた首から顔にかけての部分でさえも、鋭く細かい岩に穴を開けられ血だらけになっている。きっと断末魔を上げる間もなかっ事だろう。

 木製らしい馬車の座席部分も、その落下による衝撃と重圧により押し潰されていた。周囲には車輪や窓枠、手綱などの様々が、瞬間的な圧力により弾け飛んだようでもある。



 ……岩の落下により大破しているだけなら生存者の捜索は容易であったはずだが、多量の土砂がその可能性を摘み取ってた。しかもそれらは雨を含んで泥化しており、掻き出す事自体が難しく、そして馬車へと異常な重圧をも生み出している。……もはや、掘り出すなど不可能と言ってよい。

 劣悪な環境に加え、様々な要因と偶然が重なり起きてしまった事故。自然の猛威による災害…。
 あまりにひどいその惨状に、エステルはただ呆然と立ち尽くす。こうした大事故に遭遇したことのない彼女には、大きなショックとなり、今まさに目の前の現実として突きつけられていたのだ。

 その隣で、ヨシュアはたじろぎもせずに行動する。そして、かろうじて土砂に埋もれていない、座席であったはずの部分を見つけた。大部分が潰れた状態ではあるが、なんとか原型をとどめている唯一の部分。地面に顔を押し付ければ、なんとか中を覗きこむ事もできそうだ。
 生存者のいる可能性を信じて、ヨシュアは躊躇ためらいなく地面へと頭を押し付け、泥に髪を押し付けるのも構わずに中を覗く。わずかな空間……。そこで彼が目にしたものは……。








「………………………………。」








「………………男性の遺体を確認した……。執事さんの話からすれば、イアソンさんで間違いないと思う。……エステルは…、見ない方がいい。」
 中の状況を確認したヨシュアが立ち上がり、振り向いた。しかし、その表情はあらゆる感情が消されたように、事実だけを述べているようでもある。過去に多くの人々に手をかけた暗殺者としての経歴を持つ彼がそう言った。多くの死者と対面してきた彼がそう言うのだ。……それはつまり、それだけ酷い状態だという事なのだろう。

 泥だらけになった彼を、雨が洗い流していく。無理に表情を消しているような、そんな顔の彼を見れば、いまはもういたむしかないのだと分る。

「………………。」
 その事実に、エステルは黙したまま思考することさえできなかった。ヨシュアの言葉を察するだけで身がすくんでしまう。彼女の心は怯えていた。それはそうだろう。彼女はいままさに、人が死を迎えたという事実に直面していたのだから。

 エステルは確かに強大な陰謀を解決したという経歴があるし、新人にしてはあまりに高い戦闘能力も持ち合わせている。そういう過程を経て上級の遊撃士に昇格した。
 しかし、だ。……彼女はこういう悲惨な事故現場というものに遭遇した事がない。遊撃士という職業は、ただの手伝いや厄介事やっかいごとの解決だけが仕事ではない。事故の調査、もしくは救出もその仕事のうちにある。必然的に死を目の当たりにする事だってあるのだ。

 エステルは上級遊撃士の名を与えられたにも関わらず、不得意な分野を残していたのである。長年積み上げていくはずの遊撃士としての経験を、大事件の解決という大手柄により昇格してしまった彼女には、本来学ぶべきであったはずの、足りないものが残されていたのだ。


 そして今、彼女にとって、あまりに酷な現実が目の前にある。だが、避けては通れない。これは遊撃士として避けられない任務の一環だ。辛い気持ちはあるかもしれないが、それで戸惑っていていいわけがない。

「こんな事じゃ……だめなのに……。」
 エステルは自身の震えるひざを拳で叩き、心を奮い立たせた。震えているだけでは人は救えない。動かなければ間に合わない。それを心に刻んでいく。


「落ちついて、エステル。……大丈夫。僕がいるから。」
 そんな時、ヨシュアは彼女の怯える肩へと優しく手を置いた。自分が側にいるから、どんな困難であっても僕が守るから。………そう言いたかった。
 崩落による事故と聞いた時、現場がこうなっている事はある程度、予想がついていた。そして、彼女がこれを見てショックを受ける事もわかっていた。……だけど、だからといって置いてくるつもりはなかった。そんな事は彼女だって望んでいない。

 彼女は愛すべき人であると共に遊撃士なのだ。だから、このような状況には、遅かれ早かれ出会う事になっていたはずなのである。それはエステルだって分っていた事なのだろう。

 だから、こんな所でくじけたりはするはずがなかった。遊撃士としてもっと高みに登るために、エステルは挫けたりはしない。
 それに、きっと彼女なら大丈夫だと信頼もしている。だって彼女は、彷徨さまよえるレンを救うために、これ以上に辛い事実を知っていかねばならないからだ。レンの過去と向き合う覚悟をしているはず。……だから、その前に負けるはずが無い。

 ヨシュアは彼女を信じている。だから自分は、今できる事をしようと思った。


「(それにしても…………。)」
 ヨシュアは天を仰ぐ。崩落した岩は狙いすませたように、的確に馬車を潰していた。岩による圧死、それは免れない事実として彼らの前に在った。偶然にしては出来すぎている気もするが……、彼はそれでも、これが事故の可能性が強いと判断する。
 彼女を狙うなら《結社》しかない。…だが、組織がわざわざ、この一家をピンポイントで襲う理由がないからだ。

 《身喰らう蛇》にとって、フルーレは捨てられた娘である。特に秘密も知らず、もはや戦力にもならない彼女が、今更になって口封じのため襲われる事に意味はないだろう。そうであるからこそ、養女になる事がゆるされたのだから。
 それに他勢力の行動という可能性も低い。その他であれば、何かしらの動向にヨシュアが気づいている。彼の目に悟られず行動できるのは《身喰らう蛇》しかいないのだ。

 しかし、いかに《蛇》であろうとも、隠密行動という分野において、ヨシュアを超える者はまずいない。あの《剣聖》カシウス=ブライトですら及ばないと明言したくらいなのだ。……つまり、彼の目に映らないほどの錬度や正確さを持つ者など皆無に等しいという事になる。

 それほどの実力を持つヨシュアが、様々な角度から判断した結果、これは他者が引き起こしたものではないという答えを出した。だからこそ結論付けられる。

 ………そう、これは事故なのだ。本当に運が悪いだけの、事故でしかない。


 そうであれば、そうであるからこそ、あまりに不憫ふびんだ。
 やっと”彼女”は悪夢の全てから開放されたというのに。なぜ、このように不遇にさらされるのか?


「ヨシュア………、あたしは大丈夫。もう平気だから……。それよりも、まだ生存者がいるかもしれないわ。早く……探さなきゃ。」
 ヨシュアが状況確認をしている最中、エステルは必死で自身をふるい立たせた。もちろん、まだ立ち直れる程ではない。…しかし、自分が怖気ずいているというだけで、遊撃士の本分までをおろそかにしたくはなかった。

「………わかった。でも、無理はしないで。」
 なんとか歩き出すエステル。…その背中を見るヨシュアは、改めて彼女の胆力たんりょくに驚き、そして成長の一歩を祝福した。
 素直に嬉しくは思う。しかしながら複雑な気持ちもあった。正直なところ、彼女は死に慣れて欲しくはない。彼女は死という殺伐とした世界になど慣れる必要はないのだ。そのために自分がいる。汚れ役は全部自分が引き受けたいというのが本音であった。




 ─── 程なく二人は捜索を再開する。あまりに厳しい状況ではあったが、ほうけている時間はない。

 天の彼方より激しく打ちつける銀色の矢は、さらにその強さを増し、すでに豪雨と呼ぶべきモノへと変化している。冬の寒さがじわりじわりと体温を奪っていく中で、2人は息をする事の時間さえも惜しむように生存者を探している。まだ誰か生きているかもしれない。救えるかもしれない。出来る事を最大限にやるしかないのだ。

 二人は馬車を中央に、左右に分かれて回りこむように周囲の捜索している。激しく降り続く雨は激しくなる一方。過酷な状況が続いている。いくら、鍛えている遊撃士だとはいえ、長時間の捜索は厳しいだろう。
 ヨシュアは体内時計で計算し、残り20分が限界と判断した。それ以上はエステルも持たない。……つまり、そこで捜索は打ち切るしかないのである。


「───っ! ………あれって……」
 そして程なく、エステルはそれを見つけた。地面に横たわる岩と岩の合間だ!

「ヨシュア! こっち!!」
 ちょうど逆側に居たヨシュアはその声で彼女の元へと走る。……本当だ。そこには衣服の切れ端のようなものが見えている。暗闇な上に大雨、そして様々な物、土砂、そして大小の岩が散乱していたために、すぐには見つからなかったのだろう。瓦礫がれきの多さから考えれば、いま発見されたのは奇跡に近い。

 もしかしたら直前に難を逃れた生存者がいるのでは? ……そんなほのかな期待を望みの様に駆け寄る二人。それは女性のもので、折り重なった岩の奥から腕と衣服が見えている。


「……………………、エステル! やっぱりここに人の気配がする!」
 それでも、生存の確認をしようとかがんだ彼の耳に、微かな、本当に微かな声が聞こえた。生きている! 弱々しくはあるが、ちゃんと呼吸音が聞こえたのだ。

 普通ならば、この雨の中で音を聞き取るなど不可能に近い事だろう。もしかすれば偶然で聞こえるやもしれないが、それは運任せにすぎない。
 しかし、ヨシュアはそれを人の声として認識し、生存を見分ける。元《身食らう蛇》の執行者にして、《漆黒の牙》の異名を持つ彼だからこそ為し得る技である。

 岩と瓦礫がれきの間にはさまれるようにして、その人は居た。血にまみれた茶系の服を着た女性が、微弱で不規則な息使いでうめいている。どうにか助けられないかとヨシュアはその可能性を探すが……


「(……これは…………無理だ……………。)」
 下半身が完全に巨岩に潰されて埋まっていた。この大岩をどけての救出はできそうにない。少なくとも、2人でどうにかできる状況ではなかった。



 それに、彼女はもう………。



「助けにきました。イアソンさんの奥さんですね?」
 ヨシュアはなんとか隙間に体をねじ込み、女性へと質問する。……すると、彼女はうつろで血にまみれた顔を向ける。ゆっくりと、もう振り向く事さえも、力を振り絞らなければならない程、弱っている。

「どなた……か、存じ………ませんが、娘は………フルーレ…は、無事で……、すか? 咄嗟とっさに……投げ……たのですが、無事で…しょう…か?」
 まだ見つかっていない。そして、見つかるかどうかもわからない。現状はそうだ。……しかし、すでに命の灯火が尽きかけようとしている者を前に、事実をありのまま口にする事などできない。だから───。

「………娘さんは、路肩で倒れていたのを保護しました。安心してください。」
 ありもしないしない事実を本当の事のように言い、少しだけの笑顔を向ける。それは安心させるためのものだ。……だけど、心の底ではそんな言う自分を卑怯だと思った。死を迎えようとしている相手に嘘をつき、大丈夫だと告げるのは、自身のエゴでしかないのかもしれない。……しかしそれでも、いまはそう言うべきではないか、と思った。

 女性は安心したように穏やかな顔になり、小さく告げた。

「………良かっ…た…。無事で……よかった…。でも…、あの子は…風邪が…悪化して…しまい…、バン……ドル…先生に……ご……診察を……してもらおうと……。ゴホッ! ゴホッ!!」
 咳き込む女性。だが、その口から吐き出されるのは赤いモノだ。

「ああ…………、雨が降っている……ので…すね………。大変…、あの子は風邪を……濡れたら…たいへ……。ガフッ───、ごはっ!」
 さらに吐き出される血の塊。内臓が破裂しているであろう事はすぐにわかった。救えないという事はどうしようもない事実だ。…だが、彼女はそんな事よりも、風邪を引いたというフルーレが心配なようであった。フルーレがどんな身の上であれ、彼女にとっては本当の娘のように愛を注いでいた。だから、娘の身に起こる事のほうが大切だったのだ。
 それが本当かどうかを問うまでもない。彼女の目を見ればわかる。…死の淵で苦しんでいるというのに、こんなに優しい目をしているではないか。かつてヨシュア自身も、姉が死を迎えた時に、このような優しい目を見た。……だから、ヨシュアには彼の身を案じるよりも、精一杯の嘘をつくことしかできなかった。本当の事など言えない。それが偽善であったとしても、……言えるはずがない。



「大丈夫です。……娘さんはバンドル先生に診てもらいます。任せてください。」




「どなたか……存じ……じま……せ…ん…………が……、」








「ありが、…とう…………。」







 優しい微笑。苦しいはずなのに、なんと穏やかな顔をするのか?
 きっと安心したのだろう。彼女はそのまま呼吸を止めた。

 フルーレの事だけを心配し、逝ったのだ───。








 後ろで、立ち尽くしていたエステルは………それを身動き一つ出来ずに聞いていた。かろうじて絶えていたはずの心は、完全にほころび、崩れていた。

 雨の音で掻き消えそうな声であったはずなのに、なぜか彼女の声だけは鮮明に耳に届いたのだ。子を心配する親……瓦礫に押し潰され、命が途切れ様としているというのに、それでも我が子を心配する。


 その光景を前にして、彼女は思い出していた。あれはもう……11年前にもなる、エレボニア帝国とリベール王国間での戦争、”百日戦役”の事…。
 彼女は母を失った。崩れる瓦礫から自分を守るため、体を張って死んだのだ。

 だから、場所は違えど同じ死に方をした、……つまり、瓦礫に押しつぶされて死んでいるという現状に、母の死を重ねてしまったのである。呆然としないでいられる理由など、どこにあるというのだろうか?

 自身の母、レナが亡くなった時もそうだった。母も自身が傷ついているというのに、自分の心配をしてくれた。死に至る負傷をしたというのに、笑顔で自分の無事だけを心配してくれた。……親が子に注ぐ愛情とは、なんと凄まじいものなのか?
 フルーレは彼、イアソン夫妻にとっては養女だったと聞いた。他人の子を我が子としたというのに、それでも愛情は変わらなかった。彼らはフルーレを心から愛していたのだろう。



 エステルはいつのまにか泣いていた。同情かもしれない、共感かもしれない、それとも子に対する愛の深さなのかもしれない。一言では言い表わす事のできない様々が悲しくて、涙がこぼれていた。


「なんで……間に合わなかった……の?」

 事実は過酷だ。必死になって駆けつけたというのに、助かって欲しいと願ったのに、事実はそれを簡単に否定する。最初から助かる見込みはなかったのだ。落石に遭遇した時点で、彼らの死は確定していたのだから。

 どんなに有能な遊撃士であっても、全ての事実をくつがえせるわけではない。
 それは自分以上の上級遊撃士であっても同じ事なのだろう。どんなに努力しても人を救えない時がある。父、カシウスもそうだったのだ。いくら自分が力を持っていても、妻を守れなかったように……。

 でも、それは仕方の無い事。
 無力と感じたとしても、起きてしまった事は変わらない。納得し、受け入れる事しか道はないのだ。

 精一杯に努力しても、報われない事など、いくらでもあるのだから。



 ……………しかし、まだ救出作業は終わっていない。ここで悲しんでいる時間はないのだ。
 そう、この一家に引き取られたという少女が、レンと共に《結社》に身を置いた彼女、フルーレが見つかっていない。いま命尽きた女性が心配していた彼女がまだ見つかっていない。
 奥方は亡くなる直前、”フルーレを投げた”と言っていた。自身が岩に飲まれる前に、子供を投げたという。

 そうであるなら、奥方の周囲にフルーレが居る可能性が最も高い。……しかし、懸命に泥を掻き分け、遺体の周囲を捜したものの、フルーレの姿を確認できなかった。女の細腕で投げたというなら、遠くへは飛ぶはずがない。だというのに彼女の周囲にフルーレの姿はない。これは一体、どういう事なのか?

 普通に考えれば、彼女が奇跡的に軽傷で生き残り、一人で歩いて逃れたという可能性もなくはない。

 だが、ヨシュアは知っている。
 彼女が自力で歩き、逃れたという可能性はゼロだ。

 彼女は自力で歩く事は無い。歩けるわけがないのだ。
 だって、彼女は………。

 ヨシュアは今それを考えるのをやめた。今やるべき事は動けない彼女が生きている可能性を信じて探す事。別の事を考えている余裕などあるわけがない。
「エステル…。まだフルーレが居るはずだ。とにかく探そう。」
「………………。」
 返事が無い。ただ涙を流し、安らかな死を目にしていながらも、しかし何も見ていないように虚空をとらえているだけだ。……当時の事を、母であるレナの死の再現を目にした事で、さらに大きくショックを受けていたからだ。
「エステル、落ち着いて……。」
 彼女の様子が明らかに変わった事はヨシュアにもわかっていた。亡くなった彼女の母、レナさんと同様にして息を引き取った女性の死を見たのだ。しかも二人目の犠牲者なのだ。平静でいられるわけがない。

「だめ……ダメよ。探さなきゃ…。泣いている場合じゃない。探してあげなくちゃ………。」
 ───が、エステルはすぐに自分を取り戻し、フルーレを探すためにその場を離れた。

「……エステル?」
「何やってるの!? 早く探さなくちゃ!」
 ヨシュアは彼女のいう事が正しいと知りつつも、いきなり叫びだして作業を優先させる彼女の態度に戸惑った。相当のショックを受けているはずだというのに……。しかし、彼女は黙々と作業を続けているし、フルーレを探さなければならないのも急務であったから、今はそれを考える事をやめた。
 考えていても、人は救えないとわかっていたから、今はただ、フルーレを救うことだけを頭に置くことにした。



 二人はさらに作業を続ける。
 荒れる風吹きすさぶ中、雨と寒さに体力を奪われながらも、たった一人残った彼女を探すべく、時間も忘れて救出に没頭する。泥と化した土砂を掻き分け、ただ闇雲に堀り、岩を退かしていく。まだ生きているのだと信じて、必死に探していた。

 エステルは母の死を再び感じて自失したわけでななかった。ただ、行方不明のフルーレという少女が他人には思えなかったのだ。まるでかつての自分であるかのように思えていた。
 そうであれば、彼女が《結社》に所属していた事など瑣末さまつな問題だ。自分と同じ境遇に置かれた子供を助けるため、そしてレンと同じ年齢の子供が、助けを待っているのかもしれないのだ。だから、絶対に救わなければならない。例え、自分の身に何が起きようとも……。

 しかし、冬の寒空で雨に打たれての作業。それは想像を絶する過酷なものだ。既に手足に感覚はなく、意識までが朦朧もうろうとしてくる。爪はとっくに割れて血がにじみ、冷え切っているため痛みも感じない…。
 それに、助けなければと強く念じても、それに反して体が言う事を聞いてはくれなくなってきている。

 それでも、エステルはやめなかった。退かせる事ができそうなモノは全力で撤去した。後は人が退かす事もできないだろう複数の岩だけが残される。彼女はどこにそんな力が残っているのかという程の筋力で、無理矢理それらを退かしていく。どう見ても、限界を超えての作業であった。

「こ、んな……岩……!」
 だが、それでも動かない岩はある。エステルの何倍もの大きさの岩は重量にして1トリム(約1t)近いのもだ。人間一人がどうにかできるサイズではない。

「だったら! アーツで!」
「待って! エステル! アーツはダメだ!」
 確かにアーツを使えば破壊できるかもしれないが、ヨシュアの見立てでは、今回の崩落は、この雨により起こされた可能性が高い。だとすれば、さらなる崩落を招く危険性がある中での大威力のアーツは自殺行為になるだろう。威力があるからといって使えるシロモノじゃあない。


「じゃあ………どうすればいいのよ!!」
「落ち着いて、落ち着くんだ! エステル!」


「落ち着けるはずないじゃない!! この下に下敷きになっているかもしれないのよ!! 助けなきゃ! いけないでしょう!」


 その叫びと同時に、エステルの身体が揺らいだ。ヨシュアの体内時計からすれば、すでにタイムリミットの20分を大きく超えている。やはりエステルも限界にきているのだ。むしろ、この風雨に加えて寒さがある中で、よく持ったというべきだろう。自分がまだ平気なのは、単純に過酷な状況に慣れているだけの事でしかない。

 どんなに必死で探そうとも、大きな自然の災害に対して、二人の人間はちっぽけな存在でしかない。
 無理なのだ。

 ヨシュアも救出できないのはつらい。しかし、どうしても無理だと判断できるから、非情だと言われようとも、相棒を連れて帰らせる役目を負わなければならない。例えどのようにののしられようとも、無茶をしたことで風邪どころか、肺炎にでも掛かれば、最悪の場合は命にも関わってしまう。それだけは避けなければならない。……脅威に立ち向かう事に勇気が必要なら、引く事もまた、勇気であるのだ。

「エステル、よく聞いて。僕達だけじゃ、この巨岩の全てを撤去するのは不可能なんだ。残念だけど応援を待つしかない……。それに、君をまで倒れたら、レンを助けられなくなる。」
「………嫌…。」
 彼女はそれでも挫けずに体を動かす。手先が傷つこうとも、体が震えようとも、顔だけは前を向いて作業をする。昼間は敵に向けた武器を、今は岩の間に差し込み、梃子の原理を使い、身体の何倍もある大岩をなんとか退かそうとする。もう動きさえも緩慢かんまんで、意識も薄らいでいるというのに、それでもまだ彼女は救出しようとする。

 しかし、岩は動かない。たった一人がどう足掻いたところで動く事などないのだ。それは彼女だって理解している。だけど、それでも助けたかった。

「だって……、あの女性は信じてたのよ?! フルーレちゃんが生きてるって! 風邪を引いて具合が悪いからバンドル先生に診察してもらうって、安心して亡くなったっ!! 助けなきゃいけないじゃない!!」

「それに……もし、レンが同じ立場だったらと思うと、見捨てる事なんて事、できるはずない。絶対に!」
 涙を流しながらヨシュアへと食いつく。ここでフルーレを見捨てたら、彼女だけでなく、ご両親の想いを無駄にしてしまう。そして、レンさえも見捨てた様にも思えてしまうのだ。……だから! 絶対に嫌なのだ。たとえ無理だとわかっていても諦めるなんてできなかった!

「助ける! あた…しは諦めない……………。無理なわけ……ない!」
「…………………………エステル…………。」
 ヨシュアは思う。もし、ここに埋まっているのがエステルやレンだったら、カリン姉さんやレーヴェだったら…、自分はあきらめただろうか? どう努力しても無理だと分っていても、諦めただろうか?……と。

 きっと諦めないだろう。自分がどうなろうとも、諦める事はなかっただろう。

 ……でも、それは仮定論にすぎない。現にエステルは目の前におり、レンはここにはおらず、姉さんやレーヴェはすでにこの世に居ない。ここに埋まっているやもしれないのは、あくまで知り合いというだけの他人なのだ。
 卑怯な考え方だが、それが他人だからこそ引く事ができた。自分の大切な人を優先させて守りたかった。そう考えるのは彼だけではないはずだ。誰しも、このような二者択一を迫られれば選ばざるを得ない。人間は万能ではないのだ。

「ヨシュア……、お願い…。助けたいの…。」
 エステルはそう言葉を残して膝を落とした。うつろな瞳に涙をためて必死に彼へと訴える。完全に力尽きたようだった。冬の寒気に加えて冷水のような雨に打たれての作業。遊撃士でなければとっくに力尽きていただろう。本当に、彼女はよく頑張った…。

 ヨシュアは何も言わず。ほどなく気を失った彼女を包むように抱き上げて、村への道へと引き返していく。
 痛いほどわかる彼女の気持ち。……だけど、実質的に立ちはだかる救出の限界。

 今の彼にできる事は、力尽きて眠る彼女を村へと送り届ける事だけだった。








◆ BGM:3rd「宵闇の王城」(サントラ1・17)









 ───その頃、
 雨に打たれて歩くその小さな影、レンという名の少女は、初めて訪れる名も知らぬ街へと辿たどりついていた。

 クロスベルという土地の入り口。それは自分が答えを見出さなければならない終点の地。誰にも頼らず、庇護を受けず、ただ自分が考えた事の答えを出さなければならない終着点。

 なのに彼女はそれを導き出すに至らない。
 どうしたいのか? 何を恐れて、何を受け入れるのか?

 未だ答えは見つからない。



 いま、エステル達に会ってしまったら………。
 自分は逃げ出してしまうと思う。



 そんな想いのままで街へと到着した。道が終わってしまった。



「あ………、そういえば……。」
 レンは、そこに至ってようやく思い出す。

 考えてみれば……いまの自分は、かなり人の目を引いてしまう事だろう。雨に濡れた子供が、日も暮れた時間に一人で街を訪れたのだ。いくら事件の多いクロスベルだとはいえ、この地に住む大半は普通に暮らす一般市民。そういう目に付く子供を無視できる者はそういない。善良な者ほど、心配して声を掛けてくるだろう。

 いくら天才と呼ばれるレンでも、絶対にくつがえせない問題がある。それは自分が”子供”であるという事だ。

 子供の一人旅は、何かと目を引いてしまうという世間の目がある。自分が同年代の子供に比べて、あまりにも突出した頭脳を持っている事はいうまでもないが、一般人からみれば同じ子供には変わりが無い。容姿で中身を判断できる者などいないからだ。……だから、こんな姿で歩いていれば、何も言わずとも目立ってしまうものなのなのである。

 前に《結社》の作戦の一環としてリベール王国を訪れた時は、”あの人達”の人形を用意した事で怪しまれる事はなかった。
 しかし、今は違う。完全に一人だ。

 いつもならその対策として、日の出ている時間に街へ寄り、子供のお買い物のように振るまい食料を調達していたが……。今日に限ってはそういう事さえも忘れてしまっていた。このまま街を歩けば、きっと奇異の目で見られ、困った扱いを受けてしまうだろう。



「………エステルの……ばか……。」
 ポツリとささやく呟き。それは何の気なしに、自然と出た言葉だ。こんな時に…、彼女やヨシュアが居てくれれば問題なんてないのに、不自由なんてしないのに……。きっと、もっと楽しいのに……。

 いつのまにか、そんな気持ちが沸き上がる。
 少なくとも、今のような沈んだ気持ちではないはずだ。



 本当は会いたいのだと思う。……だけど、会いたくない。会うのが怖い。
 そんな相反する気持ちを抱えるレン……。


「………?……………………。」
 ちょうどその時、ふとレンはうつむいた顔を上げた。なにか胸騒ぎがする。いや、そんな抽象的な感じ方ではなく、肌で感じる不自然、いや、違和感だ。……なにか……ただよう空気そのものが違うような気がする。

 そういえば、まだ中心街とは程遠い入口とはいえ、にぎわいが聞こえてこない。雨が降っているとはいえ、まだ人が閉じこもるには早い時間、夕食頃だ。仕事帰りの者や、飲食店を利用する者達で溢れていてもおかしくはないはず。騒ぎ声や出歩く者達が居て当然だというのに…。

 レンはさらに歩みを進めるが、感覚はさらに例えようもない感覚を伝えてくる。
 これは……危険だ。あきらかな悪意がこの場に充満している。
 それが証拠に、街に入っても人がいない。それどころか、漂ってくるのは……。

「血の臭い……。」
 ざわり、という危機を予見する知覚と共に彼女の血がたぎる。そして彼女の中の獣が目を覚ました。研ぎ澄まされた彼女の感覚は、どんな些細ささいな悪意も逃す事は無い。

 まだ12歳だというのに、その死をぎ取る力はどんな歴戦の者にも負ける事は無い。いや、死と隣り合わせの過酷な状況において、何者の追随ついずいを許さないだろう。彼女は天才という言葉さえかすむ程の使い手なのだ。

 鼻につく死臭、そして生命活動を停止したむくろを確認し、そこから流れる血液特有の鉄の臭いから敵の痕跡を逃さず、死者の数さえ予測する。幾度とない戦闘で身につけた勝利への布石。情報の確認こをを最優先に行う。
 しかしあくまで態度は変えず、平然として緊張を外へと漏らさない。どこからか狙っているやもしれぬ敵に全神経を注ぐ。
 すでに彼女の瞳に輝きはなく、命を狩る事に躊躇ちゅうちょしない、《殲滅天使》の二つ名に相応しい悪意の塊と化している。敵意が己に振りかかれば、容赦なく返り討ちにするだろう。そして身体ごと叩き斬る。


「………それにしても、ずいぶん殺してるわ…。何者…?」
 注意深く歩みを進めていくレンは、その光景を前にさすがに息を飲んだ。前へ進むごとに地面が死者で埋まっていく。しかも殺した数が半端じゃない。街の住民であろう者達が無差別に、老若男女を問わず滅多切りにされている…。


 赤い、赤い、赤い、赤い……。
 どこもかしこも血。幸せを塗りつぶす無常の光景。紅の街は静寂に包まれている。

 壁も、窓も、木々も、地面さえも、赤く赤く赤く赤く染め上げられている。無秩序に。
 そこに吹く重たげな風は、死者の叫びがとどろいているかのようにうるさい。

 ショーケース越しに首を跳ねられた死体、その近くでは武器を持って立ち向かおうとした兵士が胴を薙がれて絶命している。真正面から横凪で真っ二つに切り裂かれた老人や、逃げる後ろから、抱えた子供ごと一緒に切り裂かれた女まで、無差別に、そして一方的な虐殺ぎゃくさつの光景がそこに遺されていた。

 レンも執行者としての任務で何十人、何百人と殲滅してきたが、どれもこれも猟兵団や聖杯騎士との戦いが主で、関係の無い街そのものを潰した事などない。作戦中に運悪く目撃してしまった無関係な人間を情報漏えいのために殺した事はあるが、……さすがにレンでも、街中で無差別の殲滅まではやらない。リベールを襲った時だって、兵士を相手に一人も殺してはいないくらいなのだ。

 人を殺すこと自体に躊躇ためらいは無い。リベールで人を殺さなかったのはレーヴェに殺すな、と釘を刺されていただけの話で、普段は敵対する相手なら一人も逃がさず殲滅しているくらいだ。

 ……しかし、ここまで滅茶苦茶に殺せば足がつく。どこからも警戒されるし、聖杯騎士団からも抹殺目標にされる。……いや、そんな事は大した問題ではない。それよりも厄介やっかいなのは《結社》の方だ。

 自身が所属する《身喰らう蛇》という組織は秩序を重んじている。絶対的な存在と言われる”盟主”が計画性のない殺害を許さない方向性を示唆しているためだ。なぜかは知らないが、盟主は無差別の破壊を好まないのである。よって、そのような行いをすれば末路は決まっている。
 レンは《結社》のトップの事など眼中にないが、無差別殺人などすれば処分されるのは自分の方だという事は理解していた。《身喰らう蛇》とは偽善を好む組織なのである。組織なりのルールがあるのだ。…だから、枠組みから外れれば、処分される事は避けられない。

 つまりだ、ここでの虐殺ぎゃくさつを行ったのが、執行者および、《結社》の関係者では有り得ないはずなのだ。残虐な者であろうとも盟主には絶対に逆らわないと予想できる。

 では、………そうであるなら、どんな奴が、どのような理由でこれを行ったのか?

 クロスベルがいかに犯罪組織の多い土地だとしても、それらが街を滅ぼす事に意味が無いはず。こんな馬鹿な真似はしないはずだ。
 数年前に聖杯騎士団が処分したという悪魔崇拝論者か、その一派であるなら別だが、それにしたってこんな殺し方はリスクが高すぎる。《身喰らう蛇》に所属していなくとも、聖杯騎士団が鉄槌を下すだろう。いや、こんな事になる前に対応している事だろう。
 どちらにしろ、無差別殺人など、自滅行為でしかならないわけだ。

 だというのに、この惨劇の主はそれをやっている。まるで虐殺自体を楽しむように全てを破壊している。
 自身が処分される事を承知でここまでをする。どう考えても異常である。

 それに……、その切り口が妙だ。

 これは自分の知っている武器での攻撃だ。いや、正確には私と同じ武器。敵の得物は間違い無く鋭利な刃物、それも巨大な鎌で切り裂かれたものである。


「大鎌を…使う敵……?」
 自分の知る限り、鎌を扱う者はいない。威力は絶大だが、あまりにも扱いが難しこの武器は、自分以外に使いこなせないはずだ。この武器に関しては、どんな達人にさえ、負ける事がないと自負している。
 もちろん、聖杯騎士団であるわけもない。奴らの中身がどうであれ、表向きは清廉潔白を気取るあの集団はこんな武器は使わない。

 だというのに、この見事と言うしかない傷。まったく想定できないやからである。

 ……正直に言えば、レンはこの街にとって部外者であり、誰が何人殺そうと戦う義務などない。このまま引き返し、敵の顔さえ拝まずに素通りしてもまったく構わなかった。利口な選択をするなら、戻るべきである。

 しかし、純粋に同じ武器の使い手と接する事に興味があった。死者の傷から推測すれば、これがたった一人の凶行だとわかるから、街ごと皆殺しなどという大胆な手段を用いるその相手に興味が沸いた。
 もちろん、襲ってきたとしても負けるつもりもない。その時は逆に返り討ちにすればいいだけの話だ。

 そういう自信はあったが……、もうひとつ、気になる事があった。
 街に入ってから妙な感覚が付きまとっている。この街並みに既視感デジャビュがあるのだ。


 なぜかはわからない。だが、レンはここを知っていた
 この街は訪れた事がないはずなのに、この街並みには見覚えがあったのだ。

 ……そう、ここは確か……。”あそこ”だ。
 自分を捨てた、親であったはずの二人が赤子を抱えていた街。ヘイワーズ夫妻が居たはずの街だ。レンを忘れて幸せそうにしていた場所だ。
 だが、そんなはずはない。あそこはクロスベル領ではあるが、こんな国境近い場所ではなかったはずだ。なのに、街並みがそっくりに見えるのはどういう事なのだろう?

 全ての答えは敵が知っているように思えた。それ以外に、答えを導き出せる要素がなかった。
 ならば、それが誰であるのかを確かめよう。……レンはこのまま敵と対峙する覚悟を決める。どのような相手であろうとも、どのような思惑を持っていたとしても、その正体を突き止めずにはいられない。


 ……だから、レンは歩き始めた。覚悟を決めて。







 感知される敵の気配を追って、レンはこの奇妙な街を、死体のカーペットで道さえ埋まりつつある地獄を横目にしながら進んでいく。どうでもいい他人が死ぬ事なんて些細ささいな事。別にどうとも思わない。……しかし、レンはほんの少しだけ怒りを覚えている。それが何故かはわからない。ただ、なんとなく、殺戮さつりくを続ける者を許すつもりがなかった。


おぎゃあ! おぎゃあ! おぎゃあ!
 赤子の泣き声だろうか? 路地の先から幼いわめき声が聞こえてくる。まだ大分、距離はあるようだが、赤子の声は耳に届いた。火がついたように、あの小さな体のどこにそんな力があるのか不思議なほど、精一杯の声で喚いている。
 なぜか、レンの足はいそいでいた。別にどうだっていいはずの命なのは変わらないというのに、赤子であるという理由だけで気持ちがいている。過敏に反応している。

 いつしかレンは、自身も気づかないうちに全力で駆けていた。赤子の鳴き声が聞こえる先へ、最大速度で疾走する。
 彼女の脚力は同年齢の子供の出せる速度を遥かに越えて、大人さえも追いつく事が難しい。しかも足元は死体の山だ。それを障害ともせずに全力で駆けられる力量は、同じ執行者だとて持ち得ているものではない。天性のしなやかさ、運動神経に加えて、凄まじい状況判断能力がそれを可能にしている。進む先を一歩一歩、着実に安全なルートを選び、どれだけの速度が適しているかを一瞬で見抜く。事実に裏打ちされた予測あるからこそ、進むべき最善の道を躊躇ちゅうちょなく進めるのだ。だから速い。

 赤子の泣き声の先に、この殺戮さつりくを引き起こした敵がいる。

 それを肌で感じ取ったレンは、彼女が愛用する大鎌を”展開”させた。この鎌に取り付けてあるリングはアーティファクトだ。これは執行者となったレンが、盟主より授けられた品である。
 このリングを装着した武器は意思を送り込む事で一定の大きさに収縮、膨張する。リング自体が手首にアクセサリとして隠しておける大きさなので、必要となれば、大鎌を一瞬で元の大きさに戻す事が出きし、閉まっておく事も自在である。
 レンがどんな場面でもいきなり武器を取り出せるのはそういう仕組みだ。ただでさえ重量のある大鎌を四六時中持ち歩いたのでは目立つし、無駄な体力を使う。……レンにとって、これ以上に便利な道具はないだろう。

 ─── だんだん死体が山の様になり、道を塞いでいく中を、レンは低く飛び跳ねるようにして、さらに加速した。右手に握られた鎌は、いつでも攻撃できる態勢を保ちつつ、敵がいるであろう路地へと入る。……そこは街の中心であり、憩いの場たる公園。そこに目指すべき敵はいた。

「おぎゃあー! おぎゃあ!!」
 赤子が叫ぶ声と共に、レンはその光景を前に自身の正気を疑った。

 死体の山。うずたかく積まれたその上に、
 黒の大鎌を背負った少女が、薄笑いを浮かべて虚空へと笑いかけている。その少女は紫色の髪を持ち、白とラベンダー色のゴスロリドレスを身にまとっている。頭には黒のリボンが二つの輪を描いている。

 足元には、同じく紫の髪をした男と、赤毛の女が縦横に切り裂かれて動きを止めていた。表情は苦しみと苦痛に満ちたままで、体中から赤の体液を垂れ流している。腕は助けを求めてか天を向いて伸ばされていた。

 レンはその二人を知っていた。忘れるはずもなかった。

「ハロルド=ヘイワーズ、ソフィア=ヘイワーズ………。」
 物言わぬ、無残なむくろさらしているのは、間違いなくその二人だ。……だが、レンにはそれを驚く事は許されなかった。それ以上のモノが目の前にいたのだ。


 死の山のその少女は、足元に踏みつけている、ソフィア=ヘイワーズのむくろから泣き叫ぶ赤子を奪うと、襟首を持って目線の高さまで持ち上げた。……そして、不気味な笑みを浮かべると、こちらへと気付いたのか視線を向けてきた。返り血を顔に浴びたその少女の顔は、これら全ての行いに喜びを感じているかのように、邪なる笑みを宿している。

「─── あら、来たのね。お姫様……。」
「……え?」

「この二人、きっと元はレンのパパとママだったはずなのに、レンじゃない子供を抱いて楽しそうにしてたの。だからね─── 殺しちゃった。」
 その少女が踏みつける男女は間違いなくヘイワーズ夫妻。そして目の前の紫の髪に大鎌を持つ少女は、嬉しそうに何度となく彼らを踏みにじる。

 レンはそれを信じられない光景として、ただ見ていた。
 その残虐な行為を続けている少女が、あまりに酷似こくじしていたからだ。

 自分と。

 いや、似ているなんてレベルじゃない。まるっきりレンそのものだ。あの髪、あの顔、忘れるわけもない自分の姿。まったく同じ服に、大きな鎌まで、何一つ違う部分などない。何よりも、直感が確信を持って告げてくるのだ。……あれは”私”だ、と。


 そして、死者の山に立つ”自分”は、ゆっくりとその手に持つ赤子を前へ差し出した。


「これ、………なんだと思う?」
「おぎゃあー! おぎゃあーー!!」
 泣き叫ぶ赤子を持って、私が楽しそうに口元を歪めた。憎悪と喜びが交じり合ったような笑顔に、レンは動く事もできずにいた。

「これはね…、レンの居場所を奪ったモノ。コイツがいなければ戻れたかもしれないのに、知らない間に全部を奪っちゃった泥棒。……”レン”はこれ、嫌いだわ。」

 少なからず持っていた感情。あの赤子への嫉妬しっとがどこかにあった。だけど、執行者の仕事でもなく、ましてや罪もない赤子である。いくらレンだって、分別くらいは持っているはずだった。
 だけど、目の前の、死の山に立つ自分は、そういう感情を一切持っていないよう見えた。少しも我慢せず、全ての感情をありのまま現している。……そう感じるのは気のせいなのか?
 
 そう───、もしあの時、
 ヘイワーズ夫妻がこの赤子を抱いて、娘である私を忘れて幸せそうにしていた時、破壊の衝動が押し寄せる自分をレーヴェが止めなかったら……、このような光景になっていたのではないだろうか?

 見えるモノ全てを破壊して、目の前のレンのような事をしていたのではないだろうか?






「うふふ……。ねえ、私。…………これって、男の子だと思う? 女の子だと思う?」





「……………………え……?」
 不意に投げかけられたその言葉。しかし、戸惑うレンはそれがどういう事なのか理解できない。目の前の自分に問われても、頭が真っ白になって答えられないでいる。

「ふぎゃあっ! ふぎゃあーー!!」
「レンの弟になるのかな? 妹かもしれないわ。」

 呆然と見ていたレンは、その言葉に我に返り、そして反芻はんすうする。





 弟……? ……妹……?






 いままで考えた事もなかった事。少しも思い巡らせなかった事。


「レンの……………………?」






「そうよ、血がつながってる子。……だって、親が同じならそうなると思わない? 当たり前の事でしょ?」



 死の山のレンは、ただ困惑するだけのレンへと事実を述べる。考えた事もなかった。自分に血縁が居た事なんて、あの赤子と自分がつながっていた事なんて……そんな事は、気にもしなかった。

「……だと…………しても……………。」
 うまく考えがまとまらない。でも、別にどうでもいいはずだ。泣こうが喚こうが、死のうが生きまいが……どうでもいいはずだ。あの親の子で、自分と関わりがあろうと、なかろうと……関係がない……はずなのだ。
 なのに、体の奥底からにじみ出るかのような戸惑とまどいとあせりが自分を締めつける。襟元を物のように持たれたその子が、いまどういう状況に置かれているのかを考える。



 しかし、死の山の自分は、そんなレンを見て笑顔になった。

「うふふ……、そんなに険しい顔するなんて、おかしいわ。……安心して。これは始末しちゃうから。この”執行者のレン”が大切な貴方のために、両親もこいつも、世の中の全部を殲滅してあげるわ。だって貴方は、私の大切な”お姫様”だから───。」



 ”お姫様”



 レンの心の深淵に在るべきその言葉。自意識の奥底に編みこまれた本当の自分、執行者でもなく、楽園の娼婦でもない本当の自分。それを表すはずの言葉。

「だからね、レン。……これは今、殺しちゃうね。だって、私は”執行者のレン”だもの。お姫様の変わりになら、なんだってできる。汚される自分のために別の人格だって生み出せる、人殺しにもなれるし、天才だって演じれる! ……貴方は何も心配せずに、ただお姫様として自由でいればいいの。」


「だって、私は貴方が大切なんだもの。……だから、なんでもするわ。」

 答えを待つこともなく、”執行者”を名乗るレンが、泣き喚く赤子が無造作に空へと放り投げた。執行者のレンはよこしまな笑顔で大鎌を構える。落ちてくるタイミングに合わせて大きく振りかぶり ─────、

「待って!!! その子は────っ!!」
 自分でも信じられない程のスピードで、防御もなにも考えずに飛びかかる。自分の居場所を奪った命、どうでもいいはずの命、殺してしまいたい命、……だけど、弟かもしれない命、妹かもしれない命。
 レンはただ、懸命に手を伸ばした。助ける理由なんかないはずなのに、絶対に助けたいと思っていた。


「死んじゃえ!」
 しかし、”執行者”を名乗る自分が大鎌を震う方が速い! 飛びかかるレンの手は届かない───。
 そして……。








◆ BGM:3rd「追憶」(サントラ2・04)









「エステル……、今日はゆっくり休むといい。」
 荒れる天候の中、なんとか村へと戻ったヨシュアは、駆けつけてくれたバンドル先生にエステルを任せると、村長へ状況を説明すると言い残し、再度、雨の中へとおどり出た。

 いくら寒さを感じようとも、過酷な環境には体が慣れていた。元とはいえ執行者であった事がいまになって役立っているのは皮肉なものだ。しかし、だからこそエステルを守れる事にもなるのだから、過去として自分の一部として抱いていくしかない。
 そんな事を考えながら、村長の家へと向かうヨシュアだったが………、



 いきなり方向を変えると、村の外へと進みだした。
 そして村外れの家屋の見えない広場までくると、歩みを止める。

 周囲には誰もいない。ただ、長い年月を寡黙かもくに育った大木が1本と、踏み固められた地面、そして無数の水溜りがあるだけだ。ヨシュアはただ、そこで何かを待っていた。予感のようで、確信のようなものがあり、それが来るのを待っていたからだ。……彼女が、来るような気がしていた。



「久しぶりだね。今まで気がつかなかったよ。フルーレ…。」


 ヨシュアは雨降りしきるの中、背中から感じる気配に向かって声を掛けた。ほどなく、雨の中にその姿が浮かび上がる。

「ヨシュアさん。お久しぶりですね。」

 それは少女だった。
 真っ白なワンピースだが、スカートはサーキュラー(フレアスカート)。装飾はアクセントとして使われている黒のリボンのみという、簡素だが上品な印象を持つ白い髪の少女であった。
 冬の寒空に雨……、そんな中でも濡れる事を気にせず、穏やかな笑みを浮かべた少女は、懐かしそうに、そしてまた、悲しそうな顔でヨシュアへと挨拶あいさつを返した。

 一方でヨシュアはその姿を確認し、予想していたとはいえ驚きを隠せない。彼の知っている彼女は、とある理由で体の自由がなかったはずだったからだ。なのに平然と歩いている。

「あの体から、そこまで立ち直れるなんて……。いや……それともすでに僕自身が君の能力によりそう認識させられているのかな?」
 ヨシュアはあらゆる可能性を少女へ向けながらも、いつでも動けるように用心する。心では戦いなんてしたくないとは思っているが、戦いに慣れた体には、ただならぬ殺気が感じられたのだ。

 少女、フルーレはそんなヨシュアに構う事なく、返答する。

「……答える義務はないのですが……。さすがの私も、雨のような不確定要素が入り込むような状況で能力を発揮するのは無理ですね。今は力を行使していないと考えてもらって構いません。」
 ヨシュアはまだ100%を信じたわけではなかったが、確かに彼女の言うとおりだ。彼女の能力は強力だが、これは現実と認識する方が納得がいく。雨が降っている事に感謝しなくてはならない。

「私の身体は本当に回復しているんですよ? ……結社の治療もかなりの技術革新がありまして、あんな体だった私でも、完全に元に戻る事ができたんです。」
 結社に治療を受けた。つまりそれは彼女が《身食らう蛇》に復帰した事を意味する。ヨシュアは彼女の回復を素直に喜びたい一方で、これから戦わねばならないという残念な気持ちの双方が心に渦巻いていた。

「……………もうひとつだけ聞かせて欲しい。」
「はい。」
 目を閉じて答える少女に、ヨシュアは最も聞きたかった質問をする。

「あの落盤事故……。君はどうして助かったんだ? ご両親は君を心配して………。」
「私が起したからです。」
 あっさりと返ってきた答え。あまりにも血の通わない結論に、ヨシュアはただ苦しむ。

「……養父であるイアソンさん夫婦を犠牲に……? 僕が知っているフルーレはそんな……、君は他者を犠牲にするなんて事はしなかったはずだ。」
 まるで嘆きのような問い。死の間際、フルーレの事を心配して逝った女性が脳裏に浮かぶ。彼女は養女だというのに、心の底から愛されていたのだ。……だというのに、その彼女が事故を起したとなれば、それはあまりに悲しい事だ。
 出来るなら、事故だと言って欲しかった。例え血はつながってなくとも、イアソンさん夫婦を好きだと、その口から聞きたかった。

「ふふふ……貴方は昔からそうですね。エゴの塊。そうやって自分の思い込みを他人に強いる。それがエゴと言わずになんと言うのですか?」
 フルーレと呼ばれた白の少女は、少しも躊躇ためらうことなく言い放った。態度はまったく変えず、穏やかなまま、絶対的な確信を得ているように答える。そしてそのまま言葉を続けた。


「結社からの命令により、貴方の抹殺とレンちゃんの確保を命じられました。これまで、裏切った貴方が放置されてきたのはワイスマン教授の加護によるものです。……しかし、彼の死亡により、保留となっていた貴方の立場は後任者へと委ねられた。そして命令系統が新たとなった事で、改めて処分が決したというわけです。……組織的な問題で時間はかかったようですが、妥当な判断でしょうね。」

 ワイスマン教授、つまり”蛇の使徒《白面》”が死亡した。執行者であったヨシュアではあるが、実質は彼の”持ち物”であった事で、福音計画以後は所有者不在という形となっていた。
 そして後任者が決まったことで、棚上げされていた処遇が決められたのだ。リベル=アーク事件以後、裏切り者である彼が放置されてきたのも、うなづける理由である。

 ……そして、それを告げた彼女、フルーレは動きを見せないでいた。これを聞いたヨシュアがどう反応するのかを見るように、ただ、見つめている。
 だが、ヨシュアは迷うことなく腰に差した双剣を引き抜き、彼女へと構える。

「君の言葉が真実だとしても、……僕の本心は戦いを望んでいない。」
 そうは言っても、彼女の目的がそうであれば、戦いが避けられない事は承知していた。それにすでに武器を構えなければならない程の殺気を感じていたのだ。達人のレベルであるからこそ察知できてしまう、この異常な殺意はヨシュアへと向けられている。レンと同年代の少女だというのに、向けられる殺気は尋常じんじょうではない。

「確かに、君は僕を許すつもりはないのかもしれない。それどころか僕を殺す理由がある。……だけど、無関係の人まで巻き込むなんて事まではしなかった。……なんで、そんなに変わってしまったんだ……。」
 武器を構えながらも、ヨシュアは哀しみを宿す瞳で訴える。昔のフルーレは、本当に優しい、人を気遣い、他者を重んじる子だった。凄まじい能力を持っていたというのに、人を殺めるという選択を拒みつづけた。……それを知っているからこそ、いまの彼女を前にして、苦しんでいる。

 だが、フルーレはそんな想いを否定するかのように、冷ややかな視線で返した。しかも彼女の瞳は計り知れない殺意により闇の色へとくすんでいる。…そう、かつてのヨシュアや、レンが殺意を込めた時のように、その目には輝きそのものが失われている。

「5年……いえ、6年ですか。……それだけあれば人は変わります。貴方だって正しい心へと変わったのでしょう? ならば私は、その逆へと目覚めただけの事。なにがそんなにおかしいのですか?」

 そう、人は変わるものだ。今の自分がかつての自分ではないように、彼女もまた、別の自分へと変わったのだろう。しかし、納得がいかない。何が彼女を変えたというのか?
 ヨシュアが苦しむ最中、フルーレはその態度を見て、優しく、穏やかに、しかし残酷に笑ってみせた。

「なるほど……。そうやって他者を哀れむような態度をとれば、周囲の人々は貴方に同情し、共感し、仲間として受け入れられるという算段なんですね。それが貴方の処世術……。昔から変わりませんね。いい子を演じるだけ……。計算高いんですね、相変わらず。」

「僕はっ! ……できるなら、君とだけは戦いたくない。でも、そんなに僕が憎いというなら───」
「黙りなさい化け物。」

 これまで、ヨシュアと戦った者は多くいたが、その誰もが彼を嫌悪していた事はない。だが、彼女は彼を”化物”と呼んだ。それは絶対的な否定。ヨシュアが以前、”壊れた人形”と自身を称し、化け物を名乗った事を承知で彼女はそう呼んだのだ。彼を一番傷つける言葉を選んでそう呼んだのだ。
 彼女がヨシュアに持つ感情は存在の否定以外にはない。人としてさえ認めていないのだ。………これ以上、話し合いが続こうと、どんな言葉も無意味だろう。

 だから、ヨシュアも迷う事なく少女へと剣を向けた。手加減のできる相手ではない。彼女はレンより先に執行者になる事が見とめられた存在なのだ。彼女があの能力を発揮する前に無力化させなければ勝ち目は無い。

 彼女は執行者候補生であった頃、その能力の恐ろしさから、誰からともなく、こう呼ばれていた。
 ─── 《支配者》と。

 彼女が能力を使えば、いかに達人だろうと逃れる術はない。たとえ相手がレーヴェだろうと、蛇の使徒であろうと、一切関係なく敗北を喫する。脅威ともいうべき、本来ならば人という身が持つべきではない、凄まじいまでの能力を持っているのだから。

「わかった。僕もここで討たれるわけにはいかない。悪いけど全力でやらせてもらうよ。」
 彼女が戦う姿勢を見せている。そして脅威の能力を持ち合わせている以上、ヨシュアはそういう対応でしか望めない。それに、全てを否定する彼女に対しては、これ以上の理解を得る事はできないのだろう。だから、力で答える。彼女があの能力を使われる前になんとか捻じ伏せ、話を聞かせるために。



 雨がさらに激しくなる中で、両者は身動きすらせずに、相手の出方を伺っている。一方は殺意を、一方は和解を望み、動くタイミングを計っている。しかし、フルーレはそんな事さえ意に介さないとばかりに、話を続ける。

「いいんですか? 貴方は元々、隠密行動が得意なだけで、正面からの戦闘は不向きでした。……昔と違って…、いまの私は、技量だけならレンちゃん以上ですよ?」
 彼女の言葉を無視してヨシュアは仕掛けた。忽然こつぜんと姿を消し、周囲へと解けこむ。常人からは捉えられない程に高速で動き、気配を断つ。あの剣帝レーヴェでさえ、そのスピードによる怒涛どとうの攻めに剣を取り落としたほど。並みの相手では姿をとらえる事など不可能である。

 響き渡るのは雨音だけ。普通に考えれば、雨の中での移動や攻撃では、その痕跡こんせきを完全に消す事など出来るはずがない。ヨシュアにとって屋外での雨は絶対不利な状況のはずである。
 だが、彼は完全に姿を消した。雨に体を打たれているはずなのに、音は無く、揺らぎさえも消すという完璧な動きで仕掛けたのだ。

「……化け物の本領発揮、というわけですね。その華麗な動きでいままで何人殺してきたんですか? 十人? 五十人? 百人以上でしたっけ?」
 その言葉に、ヨシュアの攻撃が一瞬だけ乱れるが、それでも攻撃は止めない。そのまま、フルーレの左腕を捕らえた! 駆け抜けた一瞬の後に、二の腕には赤い筋が生まれ、そして大量の血が噴出した。

「なっ! なんで避けないんだ?!」
 それを一番驚いたのは他でもないヨシュアだった。彼女の実力ならば、見事に回避しきるか、ごくごく軽症で済んだはずなのに、棒立ちのまま一切避けなかった。ヨシュアは彼女の回避能力を考慮した上での攻撃を仕掛けた。回避させ、体力が切れたところを捕らえるつもりだったというのに。
 そんなフルーレは、自身から流れる血を感情のない瞳で見ていた。傷ついた事さえどうでもいいように、まるで他人事のように、物語の一部を鑑賞しているかのように……。

 だが、それでもヨシュアは動きを止めなかった。彼女から発せられる凄まじい殺気はいまだ消えてはいないのだから。フルーレが戦う意思を捨てていない以上、彼女が避けなくとも油断はできなかったのだ。

 しかし、心には戦う前よりも大きな躊躇ためらいが生まれていた。彼女の放った言葉が彼に刻まれる。

「ヨシュアさんが躊躇うなて……、らしくないじゃないですか。昔はさんざん殺してきたくせに。……私の家族も、そうやって殺したくせに…。」
 胸が痛い。心が苦しい。彼女の発する言葉が心に痛手を与えていく。切り傷よりも深く、どんな薬さえ癒せない。それが彼へと浴びせかけられる。

「よくも黙っていられたものですね。私の家族を殺したのが貴方だと、6年前には一言だって言わなかったのに…。ずっと言わなかった。……だから、それを知った私は、復讐のために変わらざるをえなかったんですよ。」

「貴方は……最低です。」
 彼女には責める理由がある。ヨシュアは責められるだけの事をしている。彼女の家族を奪った自分が、その彼女に剣を向ける事自体が、おかしい事だと知っている。心に穿うがたれる痛みはあまりにも強く、まともに動いていられない…。

「……戦う気がないなら、こちらから行きますよ?」
 しかし、ヨシュアは倒されるわけにはいかなかった。きっと自分が倒されれば、エステルにも危害が及ぶ。どうしても負けられなかった。自分だけの問題ならば剣を収めればいい。しかし、大切な人を守るためには戦わなければならない。
 だから、仕掛けた。これ以上、言葉にとらわれる前に、決着を付けねばならないと思ったからだ。

 もう一度、スピードを取り戻し、さらに加速してからの一撃、二撃、……剣での攻撃は確実に決まるが、同時に彼女の後ろに回りこんで腕を捕らえようとした時のみ、鮮やかに回避される。次々とフルーレの身体に刻まれていく赤い筋。ヨシュアは彼女を無力化させたいのに、傷だけを負わせるだけで捕らえる事ができない。

「私を殺さないで捕らえようなんて、優しいんですね。……本当は殺した方が楽だと思ってるくせに。」
「違う! 僕は君を殺したくなんか───っ!!」
 そんな気持ちが命取りになった。
 いつの間にか、同等の速度で追いついたフルーレが、ヨシュアの右腕、その手首を掴む!


「捕まえた。」


 瞬間、ヨシュアは身体を宙へと投げられる! なんとフルーレは、右手一本で手首を掴んだままヨシュアを投げたのだ! そのまま、容赦なく地面へと叩きつけられる!!
「ぐっ───!」
 凄まじい衝撃にヨシュアが息を詰まらせた。だが、フルーレは手首を離さず、恐るべきパワーで彼をまた舞い上げる! そしてもう一度、全力で地面へと叩きつけた!!

「───がはっ!」
「ヨシュアさんの弱点は、捕まえられると非力な事です。……ほら、なんにもできない。貴方は自慢のスピードさえ封じてしまえば、その辺の強化猟兵と大差ないんですよ。」
 フルーレは表情を崩さず、そのまま枝でも振るうかのように、今度は大木へと打ち付ける!! あまりの衝撃で大木に亀裂が生じた。今の一撃でヨシュアは肋骨を折り、内臓を傷つけてしまう。
 口からの吐血! あまりの痛みに視界が揺らいだ。しかも───!

「痛いですか? じゃあ、これはどうです?」
 フルーレは、ヨシュアの手首を握った右手に全力を込める。

ベキッ───!!


「ぐあああああぁぁぁぁ!!」
 なんと、握力だけでヨシュアの手首の骨を握りつぶしたのである!! 予想もできない凄まじいまでの激痛に、握られた剣を取り落としてしまう。

 だが、ヨシュアはそれで終わらなかった! 手首を握るフルーレの右腕、その肩口を真下から蹴り上げる! それは完璧にフルーレの腕へと命中! 彼女の腕は、跳ね上げられるようにヨシュアの腕から離れる!

 その隙に、ありったけの力で立ち上がり彼女から離れるヨシュア。そして、間合いをあけた彼が見たのは……、フルーレの右腕が、彼を掴んでいた右腕がだらりと垂れ下がった姿だった。


「あら? 外れちゃった。ふふふ……上手いものですね。間接だけを外すなんて…。腕ごと切断するか、いっそ殺してしまえばいいというのに…。甘いというのですよ、こういうのは。そういう意味では昔に比べて、ずいぶんと弱くなったんじゃないですか?」
 間接を外して平然としている少女…。相手が大人であれば、それほど奇異な光景には映らなかったかもしれない。しかし、彼女ほどの幼い少女がそれで平然としているのは狂気さえも漂わす。
 フルーレは作業でもするかのように垂れ下がる右腕を支え、バキン、という嫌な音を立てて自らの肩をはめた。斬られた時と同様に、痛みなど感じていないかのように。

 いくら屈強の者であろうとも、全身が切り傷だらけで、しかも肩を外すなんて激痛を平静のままでいられるわけがない。
 あきらかに彼女はおかしい。このパワーといい、痛みを感じない身体といい、そもそも、全身麻痺で動けなかったはずの彼女が、ここまでの復活を果たし、そして明らかに別人であるかのような振る舞いをするなど……信じられるわけがなかった。

「やはり君は今、能力を使っているのか……?」
 そうとしか思えなかった。彼女がいま見せた行動は全て常識から逸脱いつだつしすぎている。人間では不可能ではないかというパワーがそれを裏付けていた。

「………さあ、どうでしょうね? ふふふ……。」
 フルーレは微笑を浮かべるだけで答えない。だが、能力を使っているようにしか思えなかった。

 彼女の能力は、絶対的な『脳波コントロール』である。しかも相手の干渉かんしょうを受けずに、一方的に五感を狂わせる事が可能だ。その力に囚われた者は、身体を動かそうとしても自分の意思では行えなくなる。例えば、手を動かすという伝達を強制的にカットし、命令をまげて足を動かすように変える事だってできる。相手がどう動こうとしても、脳の伝達機能を掌握しょうあくするというものなのだ。

 一度でも視線を交わせば取り込まれる。目を通じて相手の脳へと働きかけ、幻覚を見せる事も出来るし、それどころか相手の行動全てを支配する。それはどんな相手であろうとも逆らえない。……それこそが彼女が《支配者》と呼ばれる所以ゆえんである。

 ヨシュアやワイスマンが得意とした”魔眼”は暗示を強化したもののように思われているが、フルーレのそれはまったく別次元のものだ。魔眼すら及ばない”完全支配”である。他者を操るという意味では究極点に位置するものと言っていいだろう。

 その能力により、ヨシュアは幻覚を見せられているのかと考えた。彼女は目から通じて相手を支配する性質があったため、視線は合わせないようにしていた。それに、相手に幻覚を見せるならば、雨までも再現しなければならない。雨という不確定要素を織り交ぜながら幻覚だと認識させる事は不可能。だから、雨が降っている限り、能力に捉えられる事はないと考えていたのだが……。
 いまこの状況をかんがみれば、いつの間にか彼女の指示下に置かれ、錯覚さっかくさせられているという可能性は高い。

 ……だが、この激痛までが幻覚だとは思えなかった。自身の感覚では、右腕の手首は完全に砕かれているし、内臓も相当に痛めている。これを説明できないのだ。まさか、この”折られている”という認知自体が支配されているのか? 地面に叩きつけられた激痛も誤認だというのか? いや……それとも、この場に立って相対しているフルーレの姿自体が別モノなのか?

 どこからが幻で、どこからが現実だというのか? それすらもわからない。

 フルーレの力は、《幻惑の鈴》ルシオラのような”幻術使い”とはまったく別のものだ。脳波を自由にコントロールするという、超常能力の類するものである。一度、とらわれれば死、あるのみ。ヨシュアにはもう、逃れる術は残されていないのだ。

 彼女はまさしく《支配者》。……敵対する全ての生死を左右する事が出来る者なのだ。



「…ヨシュアさん。何をそんなに怯えているのですか? 私の《支配者》の能力がそんなに恐ろしいですか? 殺されてしまう……と?」
 しかし、彼は首を横に振った。ヨシュアは状況分析をしただけであり、能力に捕らわれてしまう事が怖いのではなかった。……ただ、無性に悲しかったのだ。

「君は……そこまで、…そこまで変わり果てて……、それでも僕を殺したい……という事…なのか…。」





 彼女、フルーレはその悲しい叫びのような問いを聞くと、目をつむり、思い出すように語り出した。

「助けを請う商人はのどを一突き、
 泣き叫ぶその妻の首を即座にね、

 運悪く犯行を見てしまっただけの通行人は背中から切り裂き、
 敵対した猟兵団は完膚かんぷなきまでに切り刻んだ。

 ターゲットの潜伏していた村は撹乱かくらんのために村ごと焼き討ち。
 炎と煙から逃げ出そうとした人達を次々と絶命させた。

 執行者《漆黒の牙》、その名は貴方のもの。それがくつがえせない事実です。
 貴方自身が行った非道です。


 教授にやらされたから無罪?
 子供だったから何人殺しても許される?

 じゃあ、殺された相手は黙って納得しろというのですか?
 なのに貴方は全てを黙認して、それでも生きたいというのですか?」

 少女が口にする言葉にヨシュアがくちびるを噛み締める。過去の罪を知る犠牲者であり、それがきっかけでレンと共に楽園へと入る事となった犠牲者。ある意味、レン以上に世界の最悪の中を生きてきた少女なのだ。

 それもこれも、《漆黒の牙》を名乗ったヨシュアのせいだ。
 ヨシュアのせいで地獄へと落とされ、生きなければならなかった。

 恨まれないわけがない。

「あの村に居た私を見逃さなければ、誰からも責められはしなかった。あの時に見つけて殺しておけば、ずっとずっと…お仲間から大事にされて、重宝されて、いい気分で家族に浸れた。……そうですね、黙っていればいいだけですものね。」


 その言葉に……ヨシュアは………、残る左手に持った剣を……落とした…。


 昔、任務により壊滅させた一つの村がある。100人程度の小さな村だったが、《結社》の情報を握ったまま潜伏した男を殺せという教授からの命令を受けた。
 実際、情報は確かに重要なものであったし、ワイスマンはヨシュアに実戦テストもやらせたかった。《結社》とワイスマンの思惑が合致がっちしたため、村はヨシュアにより壊滅させられる道を辿たどる。

 村が襲撃されたその時、フルーレは外には逃げず、子供達が遊びで使う地下室で怯えていた。
 外には《漆黒の牙》と呼ばれる死が蔓延まんえんする地獄。そんな中で、彼女は隠れていた。だから、見つからず、難を逃れることができた。


「すまない……。あの村は…僕が……………。」
 確かに命令された事だ。幼かった自分が、壊れた人形であった自分が、言われるままに行った事だ。世間的な法的措置、認識ならば彼に罪はないのだろう。
 しかし、実際に家族を奪われた者はどこへ怒りをぶつければいいのか? 仕方ないからあきらめろ、と泣くだけしか残されていないのか? 怒りというほこは、どこに収めればいいのだろうか?

「ヨシュアさん………、貴方は仲間達から期待され、今ではもうすっかり許されて暮らしている。さぞ、心地よい毎日なんでしょうね? そうですね、どうせお仲間からすれば、どんなに厳しい過去であっても所詮は他人事ですからね。関係が無い事なんでしょう。だから平然と仲間に加えてもらえたんですよ。」


「罪が許されたわけでもないのに、ぬるま湯を享受している。……貴方は最低です。」
「僕は…………っ!」
 ヨシュアの悲痛な叫びは、言葉にさえならずに黙るしかなかった。

 自身のために人生を台無しにされた少女。過去の象徴。許されない罪の証。

 教授に命令されたから。
 だから、許されるのか? 子供だから何人殺しても構わないのか? 自我がなければそれでいいのか?


 そんな事、あるわけがないのに…。



「………それだけならまだしも、貴方は常に冷静で温和な顔の下で、実は他人を犠牲にしなくては生きられない人間でした。…そう、生きているだけで人を不幸にしていく存在なんです。…レンちゃんの事もそう。今のレンちゃんが苦しんでいるのは、あなたのせい。……そうですよね?」

 レンの事。






「………そうか…………………、僕は………そうだったのか…………。」



 ヨシュアはレンに対する、それに気がついてしまった。

 人に指摘され、ようやく、それが彼女の言うとおりなのだと気がついた。
 彼自身も無意識の中で、レンへの贖罪しょくざいを考えていたのかもしれない。だから、彼女の家族となる事で、罪をいやそうと考えたのかもしれない。




 完全に動きを止めてしまったヨシュアが立ち尽くしている。体中の痛みよりも、心の痛みが大きいのか、握りつぶされた右手首を押さえようともせず、ただ、雨に打たれている。

 フルーレは、手元から巨大な鎌を出現させた。それは、レンが持つものとまったく同じの武器。”ナインライブズ”という一度にここのつの魂を刈り取るという死神の凶刃だ。それがいま、弱りきったヨシュアへと向けられた。たった一つのか細い命へと。

 そのまま、静かにヨシュアへと歩み寄ると、彼女はその真正面へと立ち、こう告げた。



「その身に宿りし災いの種、罪悪の根幹こんかん、全ての念を断ち切り─── 死をもってめいすべし。」


 腕一本で軽々と頭上に掲げた大鎌、ナインライブズ。フルーレはそれを迷いなく袈裟懸けさがけで振り下ろす! 同時に、ヨシュアはその刃を受け、身体には斜めに深く切られた赤の線が浮かび上がった。

 鮮血せんけつが、真っ赤な血液が噴出す! それは間違いなく、ヨシュアの身体より飛び散ったもの。

 静かに、音もなく地面へとすヨシュア。
 そして地面は赤くまっていき、それは水溜りへと広がっていく。透明だったはずの雨水が、どす黒いしゅへと変わっていく……。ヨシュアはすでに動く事もなく、呼吸さえも微弱びじゃくに残すだけであった…。致命傷を受け、このまま放置すれば助からないであろう事は、誰が見てもあきらかな事だった。



 そんな彼を見下ろすフルーレ。しかしその顔に喜びはない。あれだけ殺意を向けていたというのに、滅ぼされた村のあだを取ったというのに、自分の妄執もうしゅうを断ち切ったというのに、その瞳は雨ではなく、涙がこぼれていた。



「──── ヨシュアさん、貴方は弱すぎます。これでは……。」



 そのまま、フルーレは何も言わずに立ち去る。瀕死ひんしのヨシュアを残したまま、雨に打たれて歩いていく。その先にあるのは、彼女がもう一つの目的としている相手が居る場所。村で唯一の宿屋…。

「エステル=ブライト…。貴方もヨシュアさんと──── 同じ、でしょうか?」



















 ねぇ、レンちゃん………、















 どう、思う?



















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