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仕組まれた戦い。命を賭けた慈悲なき戦い。 エステルは自身を貫くために、全員の命を救うために全身全霊を注いだ。 そして誰の命も奪う事なく、完全に勝利を収めた…………。 しかしその 彼女の茶色く長い髪。それをトレードマークのように ……だけど、闘志までが失われたわけじゃない。それを示すがために、フルーレの仕組んだ戦いを 「さあ、出てきなさい! フルーレっ! あたしの勝ちよ! ヨシュアだけじゃない、ケビンさんもリースさんも殺さない! どんな相手が来たってレンを守るわ! 誰の命も奪わずに戦い抜いてみせる!」 例えどんな無茶だろうと無理なんてない! どんなに厳しくとも、解決する道は必ずどこかにある その叫びに導かれるように、暗黒 腰までの 戦いを始める前と変わりなく、戦いを仕組んだ者でありながら 「……トドメは刺さないのですか?」 「刺すわけないじゃないっ! もし、現実世界で同じように襲われたとしても、あたしは相手を殺さない! 殺すことで何も解決なんかしない! 何度来たって追い返すだけよ!」 フルーレはエステルを見つめたまま、何も言わない。 否定も肯定もせずに、ただ、無機質な視線をエステルへ向けるのみ。もちろんエステルも対抗する意思を持って元凶たる彼女へと視線を返すが……、彼女には自身の考えを読まれていても、フルーレが何を考えているのかを知る 「………では、私が始末しましょう。そういう約束ですからね。」 「────── なっ!!」 「そ………、そんなこと! 絶対にさせないっ!!」 「……ふふ…、ルールを決めるのは私だと言いませんでしたか? 貴方の意志など関係ない。」 フルーレは一歩一歩とケビン達へと近づきながら、いつの間にかその手に巨大な鎌を出現させた。それはまるで、レンが手にしている大鎌に、重厚の黒鉄色に黄金のラインが刻まれたあの エステルはその恐ろしさを知っている。あの レンが黒の世界の住民である象徴とも言える巨大な鎌。それと同じ物をフルーレは使っている。ゆっくりと歩くその後姿はレンを思わせるものだった。腰までの長さの、背に流れるあの煌びやかな白い髪が短く、紫色であったなら、きっとレンと見分けがつかなかっただろう。それ程に似ていたのだ。……あの執行者としての戦鬼と化したレンに。 「ケビンさんっ! 起きて! 目を覚まして!!」 倒れたまま動かないケビン。まさかこのような事態になるとは想像していなかっただけに、今になって全力での攻撃が そうである以上、自分がなんとか阻止しなければと、エステルは 「動けませんよ? だから邪魔も出来ません。……言ったでしょう? 私はこの世界の《支配者》だって。」 そう、彼女が全てを仕組んだ。そして彼女が全てを決める。それに対してエステルは何を決める事もできない。何も為す事ができない。今はただ、レンを フルーレはケビンの横を通り過ぎ、その背後で十字架に掛けられているリースへ向かった。 彼女はまず先に……、リースを殺すつもりなのだ。その大鎌で………。 幻影のように触れることのできなかったリース。しかしフルーレにしてみれば、それは 「やめなさい! フルーレっ! なんでっ………こんな事をっ!!」 どれだけ力を振り絞っても、体はまったく動かない。ケビンと戦った時はなんとか しかし、どんなに叫んでもフルーレにはそれが届いていないかのようだ。 緑色に輝くエメラルドの瞳が、再度エステルを向けられた。 彼女は口元だけの極微な、そしてどこか 「貴方はまだ……、自分の法則下でこの世界を見ているようですね。 ここは貴方の生きる白の世界ではないのですよ? 叫んでも願っても希望 彼女は闇の空が広がる天に向かって視線を向けた。まるで天空の星空を 「……御覧なさい。この漆黒の闇に 「これは貴方の大好きなヨシュアさんが原因で生まれた世界。あの化け物に全てを奪われた事で生まれた私の世界なのです。彼が私の住む村を全滅させなければ、これは生まれなかった。」 エステルは思い出す。リベル=アーク事件後、ヨシュアから改めて聞いた彼の罪を。そして、多くの人の命を奪い、一つの村を全滅させたという事を。だけど、それがこのフルーレに 「………彼から聞いているのでしょう? 滅ぼした村の事を。そこに住んでいたのが私です。私には元々、両親はいませんでしたけど、……ひとりだけ、妹が居ました。二人だけの生活は厳しいものではありましたが、貧しくとも、寒くとも、支え合って生きる事ができた。ささやかな幸せがあったのです。」 「しかし、それはあの男によって奪われた。私は村を滅ぼされ、最愛の妹さえも失い、そして不幸にも人身売買の手に落ち、《楽園》という名の娼館へと流れた………。おかしいでしょう? まるで作り話のような流れで闇から闇を体験したんですよ、私はね…。ふふふ……まるで喜劇のよう…。」 「本当に……本当におかしな話ですよね? あの男は自分の住むハーメル村が滅ぼされて大切な人を失ったと嘆くのに、他人の幸せは平気で摘み取っていたのですから……。自分は壊れているから仕方がないと他人事のように抵抗さえせず、幾人も幾人も、平気で殺してきたのですから。……なのに彼は今、貴方との幸せな道を見つけてもう笑っている。それは楽しいでしょうね。本当に……こんな喜劇はありませんよね。」 「……………………………………………。」 エステルには返す言葉が無かった。無責任に言える 「………昔話を続けましょう。」 「結果として、私は娼館《楽園》で、地獄のような日々を生きなければなりませんでした。……いいえ、レンちゃんを含む21名もいた少年少女達は全てそこに居た。様々な理由で集められ、商品とされた子供達がそこに居たのです。」 「だけど、みんな精神を病んで死んでいきました。肉体を 知りもしない男の欲望を満たし、服従させられ、意味も分らず殴られ、心さえも痛めつけられる。他者の 「……わかりますか? その絶望が、その悲しみが? 愛情や喜び、そして人との ───エステルにとって、レンを含む彼女達の話の真相を聞くのは、これが初めての事だった。この事件が起こらなければ、ヨシュアがあのまま宿屋でこれを語っていたはずだったからだ。……しかし、落盤事故から始ったこの闇世界との対峙により、話は中断された。 そして今、それが最悪の形でエステルに伝わっていく。いや、包み隠しもしない当事者の言葉が、彼女へと地獄の様相としてぶつけられていた。ヨシュアの過去を悼む間もなく、レンや彼女の不幸を思い知らされる。そして自分が、いかに守られた生を享受していたのかも知っていく……。 「《身喰らう蛇》が”楽園”へと突入して来た時、すでに壊れていない子供達は片手で数えるほどでした。……そんな中で、私達がかろうじて精神を保ち、生きていられたのには理由があったんです。」 「レンちゃんは自身の人格を分裂させる事で精神を保った。自分を自分ではない他者と認識させ、 「そして私は、彼女を最愛の妹と思って依存した。村を滅ぼされた時に殺された、すでにこの世には居ない妹……彼女をいとおしい妹だと依存した事で、精神を安定させた。」 「私がレンちゃんを愛している理由、守る理由、……それは妹として、絶対に捨てられない絆を見出しているからです。彼女が妹ではないとわかっていながら、それでも幼く震える事しか知らない彼女を助けたいと思った!」 「それを 「痛みも知らない。苦痛も知らない。汚された事すらない貴方。白の世界でのうのうと生きてきただけの貴方…。だから、このような事実を耳にしたとしても、所詮は他人事でしかない! どこまで行っても第三者には変わりがない!……そう、第三者。たかが第三者なのです! ヨシュアさんの過去に対してもそうだったように、貴方は聞いて実感を得ないままで同情する事しかできない!」 「───── 軽いのですよ、あなたの”諦めない”は。」 「………………フルーレ……、あんた……そこまで………。」 それが、彼女がレンを求める理由……。全ての苦しみを共に生きた彼女とレンだけに許された絆だとでもいうのか? 黒の世界を知っている同胞だからこそ、救えるのは自分だけだと言うのか? でも、少なくとも今のエステルよりもレンに近い場所に居ることだけはハッキリしている。フルーレはエステルよりも深く深くレンと関わり、レンの事だけを見て、考えて、いまこうして立ち塞がっている。それは事実だ。 「……私達がそうであったように、人はいかに努力を重ねようと覆せない状況があるのです。自分では何も選べない。それが”運命”だと諦めざるをえない事もあるのです。努力しても変えられない運命という非情が、現実として存在するのです!」 「だから今、それを再現しているのですよ! そして貴方も味わってください。希望が摘み取られるという事を、望みが消え去るという矛盾を。貴方が信条とする努力による解決は、けして万能ではないという事を!」 フルーレは大鎌を振り上げる。命を狩り取る『ナインライブズ』が、十字架に縛られたままのリースを殺すために、振り上げられた。 「や、やめてっ! フルーレ! やめてよぉぉぉぉ!!」 「いいえ。貴方は知らなくてはなりません。 フルーレは……そのまま意識を失ったままのリースへと……、凶器を、……容赦なく…………、 振り下ろした───。 紅の鎖が弾け、十字架に張り付けられたリースから鮮血が飛び散る! 引き裂かれる肉の音と共に、一瞬だけ見開かれた 彼女はその身を 口から、 体から、 切り裂かれた傷口から、彼女のすべてを垂れ流し、命そのものを振りまいて………。 「─── リース…さん………、リースさんっ!! いやあああああああ!!!」 ごぽり、と吐き出した血液の塊と共に彼女は目を見開いた。 そこで初めて、リースは意識を取り戻し、 彼女には何が起こっているのか判らなかっただろう。 なぜ、自分がこのように切り裂かれ、命を奪われるかさえ理解できなかっただろう。 しかし、自身がどういう状況に置かれているのかだけは分ったのかもしれない。 死に至る斬撃……。 もうすでに、助からないと判る 命の鼓動を脈打つはずの心臓は、もうない。 すでに裂かれて機能などしてない…………。命を支える要素は何一つ存在し得ない。 リースは最後の力でなんとか顔をあげて……ケビンを見る。 そして、優しい瞳を向けた彼女は……、 ほどなく…………呼吸を止めた……。 残されたのは、 もはや魂の宿る事の無い、傷つき血に染まった………肉体という”からっぽ”の器のみ。 いや、すでに器としての役目もない、破れて血を流すだけのもの…………。 「貴方はレンちゃんに手を出すべきではなかった。安っぽい同情などというエゴは持つべきではなかった。エゴはエゴとして己の内で、 半身を赤に染められたフルーレはそのまま、いまだ血液が そして、エステルの方も向かずに話を続ける……。 「貴方はどんな人にも優しく接する事ができるのかもしれない。でも、それでけではレンちゃんは救えない。優しさだけが彼女を守る術ではないのです。生半可な覚悟で彼女に接するべきではないのです。こういう結果を招くかもしれないという覚悟というものが、貴方には決定的に不足している。」 「 振り上げ、倒れたケビンへとそれを振り下ろす! 地面へと突き刺さるかのように、ケビンの胸倉へ吸い込まれるナインライブズ。 その肉を突き破る音は心臓への一突き……。 気絶したはずのケビンは、その瞬間、リースと同じように目を見開いた。 声にならない悲鳴を そして、 口から赤の鮮血を、大量の血液を吐き出しながらも、ようやく…… 「……ごめん…な……エステ…ル…ちゃん……。殺そうとして……ごめ…………。」 「でも、オレ……。」 無造作に刃が引きぬかれた傷口から、どろどろと朱の泉が吹き出る。 それは取り返しのつかない心臓への一撃。 先ほどまで力強く語っていたはずの彼は、すでにもう息する事さえも消えかけて。 「…………リー……ス……………。」 そのまま、ケビンという人間は呆気なく止まった……。 瞳から流れていた涙だけが残り、そこに宿っていたはずの感情を示す輝きはもうない。 何も果たすことも出来ずに、 最後にただひとつ、エステルへの謝罪だけを残して。 彼は失意の中で、逝った………。 そして最後に残されたのは、 2つの死体だけ。 「あ………………………………………………………………。」 「……………ぅううう………ああああああああああああああぁぁぁ!!」 エステルは叫ぶ。苦痛と、嘆きに満ちた しかし、悲痛な声を上げようとも、彼女が守りたいと思ってきたものは残らない。 理不尽な状況を突きつけられ、そして無常に刈り取られた。物言わぬ 彼女なりの精一杯の努力などお構いなく、彼らは力尽きていった。 理不尽だと思う状況を覆す事はできず、突きつけられた事実だけがその場に残る。 「なぜ泣くのですか? それは誰に対する涙なのですか? 命を落とした彼らに? それとも 苦しい、心が痛い。エステルはこれほど叩きのめされた事はなかった。信じていたものが、こんなにも簡単に壊れてしまうという事が。努力しても、どれだけ努力しても結果は変わらなかった。彼らを救う事ができなかった。 ……思い出すのは、あの『百日戦役』で母を失った時の事。ただどうする事もできず、押さえきれない哀しみが押し寄せてくるだけだ。これが努力の果てにあった結果……。 努力しても何も為しえないというのなら、何に抗おうと結果は変わらないのだろうか? 「全てを諦めるのなら、いまのうちですよ。……そうすれば貴方は、自分の世界で生きられる。……その決意が消え去ったというのなら、ここで終わりにする事もできます。」 レンを諦める…。諦めれば、こんな悲劇から解放されるというのだろうか? それでも諦めずに、このままレンが生きる黒い世界と向き合いながら、それでも自分は彼女を想い続けていけるのだろうか? 諦めない。それだけの言葉にどんな想いを込めていたのだろうか? どれだけの覚悟があったというのか? その一言が、彼らの命を奪った事になるのではないか? エステルの中で様々な想いと葛藤が交差する。これまで生きてきた世界が、こんなにも否定され、自分を打ちのめしていくというのなら、黒く 「呆けている 彼らを 「耳には届いているようですから、話を続けますが……今度は、今の二人よりも大切な二人を天秤にかけさせていただきます。」 その不穏な発言に、エステルは怯えながらも静かに顔を上げた。すると、目の前には、Yの字に分かれた2つの道が出来ていた。どちらも道以外の部分は底の見えない断崖絶壁で、歩くことのできないように築かれている。フルーレが構築したのだろう。 気が付けば、自分の後ろに見えていたはずの十字架に縛られたヨシュアもいづこかへ消えている……。 「今度の選択は簡単ですよ。右の道を行けばレンちゃんがいる階層に出られます。そして左を行けばヨシュアさんがいる階層へ。どちらかを選んでいただきますが……。」 「……………。」 「でも、当然レンちゃんを選ぶんですよね? まあ、その場合はヨシュアさんには今のお二人のように死んでいただきますが。それも貴方の発言したこと。”諦めない”を貫いていただきましょう。」 次いで、フルーレは………またもどうしようもない選択を迫った。レンを諦めないというのなら、ヨシュアさえも殺す、と言っているのだ。今度は回りくどい物言いではない。身を裂かれる以上の選択を、この場で下せと迫っているのである。 それを呆然と聞いていたエステルは、思考を止めたまま、ぼんやりとその別たれた道へと視線を上げた。 これまでの人生においてもっとも過酷で無慈悲な選択。大切な人を選ぶ運命の道。それが目の前にあった。 死に掛けたヨシュア、闇に囚われているレン。……助けられるのは一人だけ。 それはこの世界の ケビンとリースの死を目の当たりにして、それでも後悔なく選べる者など、いるわけが……ない。 ちょうど、その時だった。 突然、周囲が そしてフルーレが自身を抱きしめ、苦しげに、その場に 「くっ! あああ……う…ううう………。」 まるで発作でも起きたかのように苦しみだす彼女。エステルはこれまで完全無欠を誇っていた彼女からは想像さえしえなった彼女の苦しみの表情に驚いた。しかしフルーレは、それを堪えるように、大鎌に 「な……なに……?」 突然のその光景に、エステルは呆然としながら 「………なんでも……ありません。貴方がレンちゃんやヨシュアさんを想うよりも、私はそれ以上の覚悟で挑んでいるという事です。私は、貴方よりもレンちゃんを想ってあげられる。見せかけだけの弱い貴方よりも、ずっと強く彼女を慕ってあげられる。………それだけの事。」 立ち上がったフルーレは、まるで今の苦しみが嘘であったかのように平然としている。もう苦しむ様子を見せる事無く、元通りの態度で言う。歪んだ世界も元に戻っている。 「私はこれから、レンちゃんの相手をしなくてはなりません。……だから、貴方と話すのはこれで最後になるでしょう。……見届けさせていただきますよ。貴方の決意の行く末を……ね。」 それだけを告げて、フルーレは迷わず右の道を進んで行く。迷いもなく、 エステルはなす術もなく、その背中を見送る事しかできなかった。もう体への呪縛はないというのに、それでも行動を起こす力が残されていなかった……。 「…………エステルさん……………。」 ふと、道を行くフルーレが立ち止まった。そのままで、彼女はこちらを振り向く事無く、背を向けたままで 「最後にひとつだけ言っておきます。………貴方は一番大切な事を忘れてますよ。それを忘れてるから、こんな選択で迷うんです。」 「……………………え?………。」 エステルがその言葉の意味を しかし、ただ背中を見つめるだけで、呼び止め問いただす気力さえないエステルには、彼女の残した言葉の真意がわからなかった。そしてそれを考える余裕もない。道を選ばなければならない事には変わりがないからだ。 エステルには比べられない程、ヨシュアもレンも大切な人だ。それに甲乙をつけるなど出来るはずがない。だけど選ばなくてはならないのだ。……そうでなくては二人とも失う事になる。 ヨシュアか、レンか………。 フルーレの思惑がどうであれ、エステルは答えを出さなければならないのであった。 斬────!! 邪気を宿した自分が、執行者を名乗るレンが巨大な鎌を振るう。悪魔の刃を向けられる先には赤子……。それが切り払われる! レンが守りたかったのは小さな命。真っ白で純粋で、どこまでもキレイな命。何色にも染まらぬ赤子だ。それも自身との血縁かもしれない子である。全力で駆けたのだ。死に物狂いで手を伸ばしたのだ。 だけど、わずかに届くことはなく───。 その決定的な斬撃音と共に……、周囲の全てが一変していた。 小さな命を救いたいと願い、手を伸ばした先には何者の姿もなく、周囲に築かれていたはずの死体の山も、血と雨に濡れた街並みも、全てが消え去っている。いつの間にか周囲はすべて闇で包まれており、そこにレンだけが一人、その場に立ち尽くしていた。 「………………何が……、起こった………の?」 突然消えたあの悪夢なような光景、なぜ自分はこんな闇の中にいるのだろうか? 目の前にいた執行者を名乗る自分はなんだったのだろうか? 次から次へと急変する事態についていけず、ただ闇の中に 「こんにちわ、レンちゃん。お久しぶりね……。」 そこに居たのは見知った顔だった。 昔、もうずっと前に知り合いだった子。あの《楽園》という娼館に居た頃から知っている顔。……何かと自分へ話しかけてきた同年代の子だ。あの頃と同じ、白い髪に白の服をまとった少女。確か名前は……。 「フルーレ……。」 「そう……ね。やっぱり覚えてたんだね………。」 そう答えたレンではあったが、どこか妙な感覚があった。彼女を知っているはずなのに、よく思い出せないのだ。彼女は確かに古い知り合いだったはずだ。 それだけの長い間一緒だったというのに、彼女とどういう関係だったのかさえ、ぼんやりとした記憶にしか残っていなかった。霧に閉ざされた木々達の しかし、話しているうちに、だんだんと呼び起こされた記憶があった。それは、彼女が執行者候補生として高めた能力が【脳波コントロールによる幻術】だという事だ。 一口に幻術といっても無数の種類がある。《幻惑の鈴》を名乗る執行者ルシオラは、道具を使った誘導催眠に類する技術を扱うし、《怪盗紳士》ブルブランは人の認識力の錯覚を利用した手品に類する技を用いる。 だが、フルーレの扱うそれはどちらのものでもない。ワイスマン教授やヨシュアの用いる【魔眼】の一種、その最たるものだ。視線を交わした相手を自身の世界に引きずり込み、支配する。これは技術ではなく、超常能力に 「いままでのは……フルーレ、あなたの仕業ね! そして今も使ってる……。そんな あくまで強気で対峙するレン。いつ視線を合わせたか、という問題は残るが、それでも、これまでの不可思議な光景は彼女が見せていたと考えて間違いないだろう。あの光景、赤子を切り裂こうとした自分自身も、フルーレが見せていた幻だったのだ。 だから、というわけではないのだと思うが、レンは目の前の少女に敵意を感じていた。あの惨劇を別のレン自身がやっていたように見せ、仕組んだ、というのが我慢ならない。自分がいつも以上の過剰な怒りを感じているのがわかる。先ほどの血塗られた街並みを見ていたのと同じように……。 一方で、フルーレはそんなレンを見据えながら、なんら変わらぬ様子で答えを肯定する。満足そうに目を閉じ、薄く笑みを浮かべて答えた。 「………そうだね。私はレンちゃんには勝てないと思うよ。……でもね、今日はそれよりも、貴方に話があって来たの。とっても大切な話……。」 「大切な…話?」 「そう。とても大切な話よ。……大丈夫、そんなに警戒しなくてもいいよ。この件に結社は関係ないから。これは私個人で起こした事。 幻を見せておいて、支配する気はなく、しかも結社は関係ないという。あからさまな矛盾に 「ええっとね、ヨシュアさん達に会ってきたの。久しぶりだったけど、色々と変わりなかったわ。」 「えっ! ヨシュア達に……会った……の!?」 「うん。さっきまで一緒だった。……それにエステルさんには初めて会ったけど、とってもいい人だと思うよ。貴方の事を想ってくれる人。……だからね、余計にずるいなって思うの。」 「………ずるい…?」 そのように、フルーレは不満を漏らした。 レンは、その違和感を覚える語り口をおかしいとは感じている。だが、フルーレの真意が読み取れない。 あんな幻を見せて、こんな世界にまで引き込んで、用があると言ってエステル達の話をし出す。一体、何が言いたいというのだろう? 連続性がない。とりとめがないため会話が成立しない。 彼女の事自体があまり思い出せないというのはあるけれど、それでも、不可解な会話であった。 レンは単純な戦闘だけでなく、状況判断にも推察にもまったく ヨシュアやエステルに会ったというのが本当かどうかはともかく、フルーレの会話の先にどんな目的が隠されているのかがわからない。彼女が口にした通りの 「……う〜ん……どちらかというと、感情的な話かな…。」 「─── っ!」 思考が読まれている!? さすがのレンもその事実にだけは一瞬の躊躇いを生んだ。思考制御は出来ないことはないが……、それを行っていると戦闘での反応速度はどうしても落ちる。 「戦いの事なんて考えてるの? そんなに警戒しなくてもいいよ。確かにそれはあるけど、私がこれからする事には変りはないから。」 「一体……何をしようって……。」 「うん。簡単な話。……エステルさん達はきっとレンちゃんの新しいパパとママとして家族になってくれる。……ならね、もうパテル=マテルはいらないって思うの。だからね、返してくれないかな?」 「────え?」 レンの驚きをよそに、フルーレは片手を掲げ、その名を呼んだ。 「来て、パテル=マテル。」 同時に、地響きのような音と共にそれが現れた。それは赤の人形兵器。全高15.5アージュ、重量55トリムの巨人である。圧倒的なパワー、その凄まじき戦闘能力を持って、立ち塞がる者を打ち倒す意志なき人形。だが、常にレンの声を聞き、守ってきた強き父、優しさを持つ母のような存在だ。 それがフルーレによって呼び寄せられた。いづこからともなく、闇 そしていつものように、ブースターより噴出する気化熱を浮力にして、ゆっくりと地面へと降り立つ。 ただし、フルーレの側に。 「パ、パテル=マテルっ! なんで……そっちに───っ!」 いくら冷静さを崩さないレンでも、こればかりは普通でいられなかった。自分以外が操る事ができないはずのあの機体が、フルーレの側にいるというのか? まさか、これも彼女が見せている幻術の世界だから? 「残念だけど、それはハズレ。レンちゃんは勘違いしているもの。」 「かん……違い……?」 「そう、勘違いよ。レンちゃんがパテル=マテルを初めて起動させた時、何があったか思い出してみて? きっと様々な事がひとつに フルーレの問いかけがこの状況を理解する上での唯一の手がかり。そう考えたレンは、未だ霧の中にある古い記憶を呼び起こす。 ……あれはもう5年以上も前の事だ。《身喰らう蛇》の執行者候補生として、レーヴェとヨシュアに見守られ、そしてもう一人の誰かと共に 恵まれた才能が開花し、様々な知識を獲得、そして戦闘能力においてはヨシュアを それが……いま目の前にいるフルーレだ。 「………あの頃、レンちゃんは確かに優れてはいたけれど、今みたいに快活な魅力を持つような人格ではなかった。まだ、全てを持つ”執行者のレン”という人格は完全ではなかったもの。……どちらかというと、まるで楽園に居た頃の人形のような、言われた事をこなすだけのような人格、貴方が『クロス』と名付けた彼に似ていたわ。」 レンでさえ、無意識下の中で認識しているだけの存在、深層心理に形成された別の人格の名を、なぜ彼女が把握している? いくら思考が読み取られるからとはいえ、そんな深淵までが筒抜けだというのか? あてずっぽうでは判らない事なのだから、それほどの力がフルーレにあるという事になる。 さすがのレンも、ここまで他人に心を見透かされるという不気味さに戦意が削がれている。そんなレンに構わず、フルーレは話を続けた。 「ちょうどその時、行き詰っていたゴルディアス級機械人形兵器の問題が、操縦者不在の話が持ち上がったのよね?」 レンがゴルディアス級機械人形兵器、後にパテル=マテルと呼ばれるその機体の操縦者となる少し前、操縦者が見つからず、その起動実験テストを行った者は次々と廃人と化してしまい、研究は 「そうよ! レンはパテル=マテルの起動に成功したわ! だけど……あ……あれ?」 パテル=マテルは自分の物、それを宣言するかのようにレンは声を上げたが……言いかけて疑念を抱いた。自分がパテル=マテルを動かした。それは現在において紛れもない事実だ。しかし思い出す。……フルーレが消えたのも、この時期だった………。 確か……起動テストを受けたのは彼女が先で、自分は後だった。いや、自分は命じられるままに先に起動実験を行おうとしたのだが、彼女が先に行くと順序を変えたのだ。その後、彼女は姿を消した……。その辺りの記憶が…やけに 「……そうね。だっていくらレンちゃんが天才だからって、これを操るのは無理だったもの。いくら優れていたとしても、幾人もの大人が廃人になるような脳波を、天才だから、なんて信頼性のおけない言葉だけで、 子供の脳で処理できると思う? ……無理だとわかっていたから、私は先に実験を受け入れた。」 「だって、私は脳波を操るスペシャリストだもの。貴方より成功の確率が高いのも道理。……それでもね、あの波形はめちゃめちゃだったから、とても苦労したわ。普通の人じゃ廃人になるのも当然。……さすがの博士も、脳の処理能力限界という機能把握には至らなかった、というわけね。」 「じゃ……じゃあ! なんでレンが動かせたの!? あなたがそのまま動かせば良かったじゃない! レンなんか放っておいて、あなたが使えば良かったじゃないの!」 「だって、あの頃の私はこれはいらなかったけど、レンちゃんは欲しそうにしていたもの……。だからね、貸してあげる事にしたの。」 フルーレの能力を考えれば納得せざるを得ない結論。彼女はレンよりも先にパテル=マテルを動かせる立場にあった。しかし、動かさなかった。 「そのうち返してもらえばいいと思って甘くみたのかな。ちょっと油断したの。そしたらね、体、壊れちゃって……。動かなくなっちゃった。頭から下の全身麻痺。……だから、結社に居ることも出来なくなったの。馬鹿みたいだよね。」 「……………………。」 「でも、体はもう治ったし、新しいパパとママができたレンちゃんには必要ないんじゃないかなと思ったから、返して貰いに来たのよ。……もういいよね? ヨシュアさんとエステルさんがいるのだから、──── これは必要ないわ。」 「そ……そんなの………。」 信じられない、とは言い切れない。だけど、レンにとってパテル=マテルは心の支えになっているもの。共に過ごすことで安心を得る事ができる存在だ。 「パ、パテル=マテル! こっちに来───」 「無駄よ。……当然だけど私はパテル=マテルを動かすことができる。先んじて意識を潜り込ませておいたから、操作系は全て私が 彼女の言う理屈や過程がどうであれ、レンにはこれから彼女が何をするのか、もう予測すらできない……。そして、パテル=マテルという自身の支柱を奪われたレンは、想像以上に──── 「か、返してよ! レンのパパとママ……、返してっ!」 「言った 「そんな事ないんだからっ! パテル=マテルはいつだってレンと一緒だもの! 絆があるもの!」 「いいえ、これはただの機械よ。血の通わない人形。絆なんかあるわけがない。それこそ貴方の妄想なのよ。こんなものに依存したって意味がないわ。」 「違う違う! パテル=マテルはいつだってレンの事を考えて────」 「こんな玩具に人を思う知能なんか存在しない。貴方の思考に反応して解析装置が正確に命令をこなしただけの話。……命令されれば、レンちゃんにだって躊躇なく攻撃するわ。こんな風にね。」 フルーレの答えと同時に、パテル=マテルの 歩き出す。攻撃対象へと。 レンと名乗る対象を殲滅せんがため、操縦者の意向通りに忠実に動き出す。 大地踏みしめるその轟音は この世界の全てにおいて、間違いなく最高LVに到達した人形兵器、その巨体は、今まさに破壊の 「や……やだ………、パテル=マテル!! レンに答えてよ! パテル=マテルっ!」 レンがどれだけ叫んでも、どれだけ操つろうと念じても、巨人は反応すらしない。巨大な腕を振り上げ、その小さな体目掛けて、フルパワーで殴りつける! その瞬間 ────、レンの目に映ったのは大きな絶望だけだった。 僕は─────、 誰も居ない、誰も居ない暗闇で、ただ小さくうずくまり、膝をかかえていた。 どれだけ時が経とうとも、罪を犯したという事実を エステルがくれた気持ちや、レーヴェが教えてくれた強さ。それが自分を支える力になったとしても、罪が消えたわけではない。そんな事はわかっていたはずだった。 しかし、目の前に現れた彼女は、当たり前の事を言った。 家族を殺された。自分が殺した人達の遺族。彼女はその生き残りであったと。 逃げるつもりなんてなかった。隠すつもりもなかった。ただ、彼女がそうだと知らなかった。全ての罪に重さの違いはないけれど、それでもあの村の事は悔いても苦しんでも片時も消える事はなかった。 そう、確かに僕は化け物なのだから、殺されて 殺されることが当然だったんだ。 ハーメル村が戦争の犠牲になって滅んだというのに、奪われることの苦しみを知っていたというのに、僕は他者の幸せまで摘み取っていた。そんな自分が許されるはずがないのだから。ハーメル村やカリン姉さんの事を だけど、彼女の言葉でさらなる罪を知った。 今になって、ようやく気付くかされた。 レンの事だ。 僕とレーヴェは結社の作戦において、とある組織の本拠地、《楽園》を名乗る館に突入した。子供に売春をさせ、金持ちから金を 薄暗い部屋、客の男はとっくに逃げ出し、残され倒れた彼女を見て、僕は確かにこう言った。 『レーヴェ、この子が生きているところを見たい。』 自らに傷を科し、それでも自我を保とうとした彼女を、生きていたいと願っていた彼女を見て、興味を引かれた。あの頃の僕自身には感情がなく、ただ、なんとなく、…そのようにしてまで望みを捨てない彼女に興味を引かれたからだ。 結果的に………それは彼女の命を救った言葉だったのかもしれない。 話だけを聞けば、これがきっかけで彼女が救われたと思うかもしれない。 だけど、真実はそうじゃない。 彼女は《執行者》になった。そして結社の命令により、僕のように人を殺した。 殺して、殺して、数え切れないくらい殺した。 でも彼女は、そんな生を望んではいなかった。人を殺める事など望んではいなかった。 本当の彼女は、人を殺したくなんかなかったはずだ。 もし、望んでいたのなら……、なぜ《執行者のレン》という人格を作り上げた? 彼女が望み、求めている生を受けられていたら、そんな人格は作らなかったはずだ。 望んでいなかったから、違う人格を作り出して逃げ込んだんじゃないのか? 《楽園》に居た時と同じように。 彼女は望まずして人殺しにされたんだ。………そう、この僕によって。 『レンは強い』───そう言った事で、僕は彼女を縛り付けてしまったんだ。強さというものに。 レンの望まない状況を与えた。 僕が彼女の生きているところを見たいと願ったから、彼女は結社に きっと、レーヴェなら傷を癒した後、彼女を然るべき施設に預けられたはずだったんだ。 僕が望んだから、レーヴェはレンをそうせずにいた。だからレンは人殺しにならなければならなかった。 本当の自分になれなかった。 本当の彼女は、いま僕やエステルの見ている《執行者》のレンとは違うものなはず。 自分の だというのに、僕は彼女をさらに狂わせた。 ──── 僕は彼女を救ってなどいない。違う地獄へ突き落としただけだ。 彼女は《楽園》にいた時、何も選べない状況にあった。 僕は僕のために彼女にこだわった。だから彼女は僕と同じ人殺しにされた。 ……僕は彼女の運命をまたも狂わせた。 下劣だと感じた《楽園》の人間と同じことをしたんだ────。 ………なのに僕は、そんな彼女へ、またも手へと差し伸べた。 彼女にそのような仕打ちをしておいて。救うような事を言ってみせる……。 きっと僕は…………、 家族という絆を持つことで、知らないうちに、彼女への 自分のために巻き込んで、それで フルーレの言う事は少しも間違ってはいない。彼女は悪でもなんでもない。 なぜなら、僕こそが元凶だからだ。過ちの根源だからだ。どう考えても非は僕にしかない。 ならば、僕は生きていてはいけない。 今後、また誰かの運命を狂わせるかもしれないのだから、生きていてはいけないんだ。 胸の傷。 フルーレが与えてくれた傷。 彼女が引導を渡してくれるなら、それがいい。それでいいはずだ。 あとはもう………………逝くだけだ────。 目を閉じようとした時、気が付く。……いつのまにか、隣に誰かが立っていた。 見上げて驚いた。それは十年前に失ったはずの人。……かけがえのない……僕の………姉。 「カリン………姉さん………?」 姉さんは、あの頃と変わらぬ優しさで、僕を見下ろしていた。 晴天の空のように清んだ微笑みも、黒くたおやかな黒髪も、何一つ変わらない。 ああ、姉さんはあの頃と何も変わっていない。あの優しい笑顔で、僕の事を見守っていていた。 「─── 膝をかかえて あれからずっと会うことのなかった僕のたった一人の姉、カリン姉さん。レーヴェと共に3人で、家族として暮らしていたあの頃を思い出す。いや、今でも鮮明に覚えている光景。 僕は、また涙を流した。 「久しぶりね……ヨシュア…。迎えに来たのよ。」 「迎え…に?」 カリン姉さんは僕と目線を合わせるためにしゃがみ込み、手を伸ばす。あの頃のように、家に帰ろうと手を引こうとしてくれる。何もかも昔のまま……。何も変わらない穏やかな日々のように。幸せだった日々を再現する。 「レーヴェのように貴方に会いたかったけれど、私にはもう無理だったから……。いま、この時だけ許されて……、ここに来られたの。」 間違いなく姉さんの手だった。見間違えるはずもないカリン姉さんの手だった。……それにもし、これがフルーレの術だとしても、こんなに優しい最後なら構わない。文句なんかあるはずもなかった。一番会いたい人と会えたんだ。お礼を言わなければならないくらいだ。 「 また、3人で暮らせる。 そして、この苦しみから解き放たれるというのなら、何も迷うことはなかった。 「さあ、逝きましょうか。」 カリン姉さんより差し伸べられた手。幸せを取り戻す一番の選択。 僕は、ゆっくりと手を伸ばした─────────
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