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そこからの流れは、まるで夢でも見ているかのようだった。 ティータちゃんはかなりの重症だったらしく、僕やアガット先輩が屋根から下りる前に病院へと救急搬送された。そして僕らも急いで後を追う。遅れること数分、僕らは倉庫街の一角に建てられた真新しい病院、ルーアン総合病院へと駆け込んだ。 待っていてくれた看護師さんの案内で、到着したのは2Fにある手術室だった。危険な状態での搬送という事で、緊急隊員さんは、普通の外科診察室ではなく、こっちに直接運び込んだらしい。すでにもう処置は始まっているようで、入り口の扉は閉じられている…。 すでに深夜にもなるというのに、院内は突然の重傷者の対応に追われたせいだろう、医師や看護師らが慌しく行き交っている。そして煌々と灯りのついた手術室…。僕らのいる手術室前待合ロビーは、深夜だから照明が半減されているのか、通路は暗く、なにより静寂で、奥の音は少しも届いてこない。 当然、僕もアガット先輩も関係者とはいえ、家族ではないため、より詳しく状況を見守る事ができる親族用の待合室に入ることなどできるわけが無く、一般面会者用の待合所で彼女の無事を祈り、処置が終わるまでの時間をただ黙して待つ。 30分…、1時間…、何もない静寂だけが周囲を支配している。 そんな中、駆けつけたのは真っ青な顔色をしたエリカ博士だった。今朝とはまた違った勢いのまま、こわばった表情で親族用待合室へと駆け込んでいく。奥で看護師に食いついているのか、時折、怒声までもが届いているけれど、今は処置中だから待つしかない。 それがわからない博士でもないんだろうけど、それでも安否が知りたいのだ。母親として、我が子に降りかかった突然の悪夢を少しでも理解しておきたい。それは当然の事。 そしてまた、一般用待合には僕とアガットだけが残された。 長い静寂が訪れる…。 僕はティータちゃんも心配だけど、アガット先輩の事もとても心配だった。いつもの精細の欠片もない、まるで別人 かのように落ち込んだ先輩は、待合室の無機質なソファに腰掛けたまま俯き、身じろぎさえもしない。それどころか、まるでその巨体が震えているかのようでもある。そんな先輩に、僕なんかが声を掛けてあげられるわけもなく、僕はただ、待つ事しかできないでいた。とても歯がゆい。 「………………。」 さらに無言での時間が流れる。すでに運び込まれてから2時間が経過。それでもまだ処置は終わらない。 それからさらに30分程が経過して、ようやくエリカ博士が出てきた。さきほどより幾分かは落ち着きを取り戻してはいるようだけど、こちらへと向けられている表情に浮かぶのは、あからさまな憎悪だった。それはもちろんアガット先輩へと向けられている。 エリカ博士は、身動きすらできないでいる先輩へは近寄らず、その場で、冷ややかな視線を向けて呟いた。 「手術は終わったそうよ。一命は取り留めたって。これから集中治療室へと移動する事になるわ。」 その言葉に少しだけ安堵する僕だけど、エリカ博士の表情は少しも晴れた様子がなかった。それどころか、鋭さを増しているようでもある。 「ここを通るの。奥にあるエレベータで3Fへ移動するのよ。」 容態が安定せず、命の危険があるために、医師、看護師らが常駐して経過を見守る場所。それが集中治療室という箇所だ。つまり、ティータの容態はまだ完全に大丈夫だと楽観する事ができない状況。予断を許さない容態らしい。 そしてエリカ博士は険しい表情でこう言った。 「人殺し。」 停滞する空気の中で、静寂に響き渡るその言葉は、先輩に刺さるかのように辛辣なものだった。しかしそれでも先輩は動かない。いや、動けないんだろう。横から覗くその表情は、僕が見たこともない程に真っ青だ。 「あんたはティータを斬りつけた。そして今回は死ななかっただけ。人殺しにはならなかっただけ。…でも、もう少し傷が深かったら死んでた。運が良かっただけの事。殺人者にならなかっただけの話。」 「でも、あんたはティータを殺そうとしたのよ。どんな経緯があろうと、アンタはティータを殺しかけた。」 「そんなヤツがなんでここにいるの?」 …最近、少しづつラッセルさん御一家に溶け込んでいたアガット先輩は口では嫌がりながらも、まんざらでもなさそうな顔をしていた。どこか幸せそうな光景だった。 反発するエリカ博士も、先輩を嫌ってはいたけど、なんだかんだ受け入れつつあったように思う。ティータちゃんのお父さんであるダンさんや、お爺さんであるラッセル博士らにとっても、いつの間にかアガット先輩は家族の一員になっていたんじゃないかと思う。 アガット先輩も、ティータちゃんも、その家族も、皆がささやかな幸せを得ようとしていた。 僕は直接的にそれを見続けていたわけじゃないけど、部外者だって見ればわかる。アガット先輩はどことなく充実しているように見えたから…。 「邪魔よ。消えて頂戴。」 しかし、すでのその光景はどこにもない。完全に拒絶するエリカ博士と、ただの加害者と成り果てたアガット先輩。そこに、ささやかな幸せなんてものは微塵も存在しなかった。 「消えろって言ってるのよ!」 ほどなく2度目の宣告。それでようやく先輩が重い腰を上げた。血の気を失った表情は変わらず、ただ言われた通りに動くネジ巻き人形のようでもある。まるで、幽霊が歩いているかのように足取りは重く、左右に揺れている。まるで別人であるかのような姿を僕は初めて目にしていた。 …ふと、立ち止まったアガット先輩。 その唇が震え、何かを言おうとしているようだけど…、それを言葉にする事ができないようだった。 僕は…、こういう仕事柄なので、重い空気の中で謝罪をする場面というものに一度だけ立ち会った事があるから、なんとなく理解できるんだけど、人が本当に取り返しのつかない事をした時というのは、安易な謝罪の言葉は出ないのだと知っている。 ”ごめんなさい、許してください” 普通の事であれば、そういう謝罪を口にする事が正しいだろう。 だけど、そんな言葉で許される状況じゃない。そんな分かりきった言葉で済む問題じゃない。 エリカ博士にとっては、なによりも大切な愛しい家族を傷つけられたのである。激しい怒りや、やるせない気持ちをそんなひと言で解消する事はできない。そんなに簡単に割り切れるものじゃないんだと思う。 言葉は万能じゃない。 言葉が全ての罪が消してくれるわけじゃない。 博士のティータちゃんへの愛情は誰もが親馬鹿と認識する程のものだ。目に入れても痛くない存在だというのは、誰の目にも明らか。そんな愛娘が傷つけられたのだから、言葉なんて”気安い謝罪”が許しに値するわけがない。そんなものよりも、娘の無事だけが重要なんじゃないだろうか? それだけの事をしたのだと、先輩も分かっているからこそ、声が出なかったんだ。 だけど、それでも…。 「すまない───。」 そう口にするアガット先輩。…僕は、そんな先輩を見ていられなかった。先輩だって、妹のように仲良くしていたティータちゃんを自分の手で傷つけてしまったんだ。辛くないわけがない。その後悔は底知れない。 くそっ! 本来なら責められるべき元凶はオアネラだ。あいつがこんな馬鹿な事をしなければ、彼女が傷つく事も、先輩が苦悩する事も、エリカ博士が怒りに駆られる事もなかった。悪いのは全部あの女なんだ! …だけど、結果としての現状を無視できるわけじゃないから、僕はただ黙ってそこにいる事しかない。 いまから復讐して倒したとして、それでどうなるのか? ティータちゃんが傷付いた事は何も変わらない。現状は何一つ好転しない。 何の意味も無い事だった。 いまの僕に、アガット先輩に出来るのは、ただティータちゃんの身を案じる事。 出来るのはそれだけだ。情けないけど、いま僕らに出来ることは何もなかった。 時間だけが過ぎていく。 早朝・遊撃士協会ルーアン支部───。 「ふむ、アガット君、メルツ君も帰ってきたようですな。では始めるとしますかね。」 そう言うのは禿頭のロズートさん。アオネラのお父さんだというこの爺さんは、徹夜した僕らの帰りを待っていてくれたようだった。頭が下がる思いっス。 僕らは今、ボロボロになった遊撃士協会の1Fに集り座っている。ただ、アガット先輩だけは壁に寄りかかって座ろうとはしなかった。さすがの僕も、いまの先輩にそれ以上は触れるべきではないと思い、温かいコーヒーだけを渡して椅子に座る。 …あれから、エリカ博士の付添われて集中治療室へと入ったティータちゃんは未だ眠っているそうだ。僕らはエリカ博士に追い払われたからその場面に立ち会う事ができなかったんだけど、改めて看護師さんから、命に別状はないと聞かされ安堵した。 そして病院から戻るとすでに早朝で、ロズート爺さんが待っていたというわけです。 「え〜〜では、オアネラ査察官より今回の選考試験による結果を申し上げます。」 …実はこの禿爺さん、今回の査察にたっぷり関わっていたそうで、今回たまたまオアネラと同じ時期に来たわけではなく、最初から重なるようにしていたのだとか。まさか最初からオアネラとグルだったのかと思うと、なんともやるせない気持ち。こんなちっぽけな脇役の僕でさえ、憤怒の情が沸きあがろうとしていた! 許せないっス! 「すいませんねぇ。これも仕事なものですから。」 …などと申し訳なさそうな顔で謝るロズート爺。こ、この野郎めぇ! お前らのせいでティータちゃんがあああ! 「お詫びというわけじゃないんですがね、これ焼きたてなんですよ。私、こういうのが好きでしてね。」 「わぁ! 自家製クッキーっスか! いただきまぁーす!」 もふもふ…、こ、これは…、これはウマイ! このまろやかで繊細な味、口の中に広がるハチミツのふんわりとした甘さが絶品! それでいてしつこくなく、歯ごたえを楽しみながら、砕ければ口内を蹂躙するとろけるような感触、さらに鼻腔をくすぐるモドカシイ芳醇な香りは、至福のひと時を感じさせてくれる。これぞまさしくクッキーパラダイス!! そういうわけで、ロズートさんは許してあげた。 クッキーに罪はな───いや、このお爺さんには罪はないわけだし。 いや、それ以前に、こんな美味しいクッキーを焼ける人に悪い人はいない!(断言) もふもふ…。そうして僕は、5枚目のクッキーをほおばった。あ、コーヒーじゃなくて紅茶がいいっスね。 「あの、アガット先輩。…先輩もどうっスか? クッキー、美味しいっスよ?」 僕とジャンさんが注目する中で、アガット先輩だけは俯(うつむ)いたまま抜け殻(から)のようになってロズート爺さんの声はあまり届いていないようだった。でも仕事中でもあるので、聞いてはいる様子。まあ、あんな事があった後じゃ、仕方ないとは思うけど。もう少し元気を取り戻して欲しいと思う。 「では本題と参りますが…まず、ジャンくん。…君は5カ月間の減俸です。」 「え…、僕がですか?」 突然の発表にまさかの処分を言い渡されたジャンさんは少しだけ目を白黒させる…けど、すぐに納得したように軽く嘆息した。 「そうですね。僕がもう少ししっかりと現状を見極めて指示を出していれば、怪我人を出さずに済んだかも。」 そっか。つまりは連帯責任ってことか。ジャンさん自身に落ち度はないけれど、そういう事なら減俸もやむなしだろう。そうなれば僕も同じかな。…でもティータちゃんの事を考えれば納得できる。 「いえ、正確には連帯責任に関しては1カ月分のみ。4カ月分は問題はキミ自身の失態です。」 「へ?」 驚いたのはその場に居た全員だった。そんな僕らに興味がないように、ロズートさんは淡々と説明していく。 「今回の減俸は、キミに支部管理者としての業務に問題があったからなのです。」 「ど、どういう事ですか?」 「簡単な話ですよ。オアネラ嬢の父親、ロズート・エペランガ氏はすでに他界している。それを確認せず、私がロズートだという言葉を信じてしまったからです。情報統括の立場たるキミがそれでは意味が無い。」 いきなり度肝を抜かれた。 ロズート・エペランガさんはとっくに亡くなっている!? じゃ、じゃあここで話しているハゲ爺さんは、一体誰だって言うんスか?? 「私は引退間際の遊撃士でサーボックと言います。ロズート氏とは似ても似つかない別人ですよ。」 あんぐりとしたまま驚いている僕やジャンさんを気にする事もなく、ロズートさん…いや、サーボック査察官は続けた。 「キミはロズート氏の顔を知らなかった。しかし私がこちらに出向く事を伝え、到着する当日までの1週間内に、遊撃士協会本部へロズート氏の資料を問い合わせる時間は十二分にあったはずです。そうすれば本人がすでに他界し、本人でない事にも気づいたはずです。」 「ジャン君、キミは相手が遊撃士の幹部だから、と疑わなかった。相手の目的が観光だという事以上を考えもしなかった。それが最も重要な失態です。キミはただの受付ではない、この都市を総括するリーダーでもある。身内であっても相手の確認は怠ってはならない。必要な情報は先んじて仕入れておくのが貴方の役目なのです。そういう心構えがもう少し必要ですね。」 ロズート…じゃなくてサーボック爺さんは怒りを顕わにするでもなく、ゆっくりと諭すように指摘した。ジャンさんはうまく返す言葉が出ないのか、小さく申し訳ありません、と呟くに留まる。 「そしてアガット君、キミはオアネラ査察官の言われた通り今日付けでランクCへ降格です。理由はオアネラ嬢より説明があった通りです。」 「ああ、異存ない。」 即答。ロズートさんの言葉に素直に応じる先輩は、どこか魂が抜けたようだった。たぶん、降格自体よりティータちゃんの事を気にかけているからだろう。僕は12枚目のクッキーを口に入れながら、暗澹たる気持ちで先輩を見ていた。 でも罠に嵌めておいて、それで降格というのはやっぱり納得いかない。いくら本人承諾でティータちゃんが試験に同意したとはいえ、命の危険があるという試験に参加させるだなんて間違っている。絶対に間違ってる。 先輩がCランクだというのは、イジメじゃないかとさえ勘ぐってしまう。 「あ〜、それでメルツ君。キミには研修に行ってもらう事になりました。」 「は?」 一生懸命にクッキーを食していた僕は、3杯目の紅茶を注いでいる最中に固まった。あれ? 僕にもそういう罰則があるんスか? てっきりジャンさんと同じ減俸かなんかだと思ったのに。 「場所は存じませんがね。少し頼りないという事だそうですよ。」 「うへぇ…、またル=ロックルですか〜。あそこはなぁ〜、こってり絞られたんスよね〜。」 皆が参加するという遊撃士専用の研修施設があるル=ロックル。実は僕、いい思い出がまったくない。カルナ姉さんどころか、いまはもう退職したツァイス支部のキリカさんにも、めがっさ絞られたからだ。あれは本気で思い出したくも無い地獄の日々だった…。だってあの人、僕とガチでバトルさせるんだもの。Sクラフトぶち込まれて5回くらい死んだ気分だったよ。 そう思い出して、溜息のごとく大きく深呼吸すると、胸に強烈な痛みが走った。 「──んぎっ!」 うがっ! …忘れていた。アバラ骨が折れてるんだった。いまの今まですっかり忘れてた。色々な事があったし、クッキーがおいしいもんだから、すっかり忘れていた。思い出すと急に強烈な痛みが走って僕を苦しめた。 「ん? どうしたんだ? メルツ君。」 「いやいや、なんでもないっス。クッキーが喉に詰まって…はは……。」 ジャンさんは少し心配そうな顔をしているけれど、僕は嘘を付いて誤魔化す事にする。だっていま騒いだら、ジャンさんだけでなく、アガット先輩にも気を使わせちゃうもの。 でもまあ、思ったより痛くないかなぁ? 特に耐えられない痛みじゃないし、あとで落ち着いたら病院に行く事にしよう。 「───以上が今回の適正試験での皆さんの処遇です。…フォローするわけではないのですが、オアネラ嬢はあれで色々と考えて行動されているんですよ。どうか恨まないでやってください。この通りです。」 「ちょ、ちょっと…、そんなに謝らないでくださいよ」 最後に、ロズートさん…ではなく、サーボックさんが深々と頭を下げた。ジャンさんが慌ててそれを止める。うん、確かにこの人が詫びる事じゃないよね。それに、こんなにおいしいクッキーが焼ける人に悪い人がいるわけがない。23枚目のクッキーを飲み下しながら、僕はこのハゲ爺さんを恨む事ができなかった。 しかし、試験だとはいえ、やはり非難を浴びるべきはオアネラのはずっス。試験は終わったというのに、なぜあの女は現れないんだろう? 顔を出すのがイヤで、このまま帰る気なのだろうか? そうだったら、本当にイヤなヤツだ。 「いやぁ〜、でも美味しかったーーー!」 クッキー40枚を完食した僕は、紅茶5杯で満腹になった僕は、気まずい空気を振り払うかのように背伸びをした。さすがにもう、これ以上は食べられないっス。ほとんど僕が食べていたような気がしたんだけど、誰も食べないから勿体無いもんね。 「はっはっはっ、私のクッキー、メルツ君には気に入って貰えたようで何よりですよ。」 「はいっス! 少し気落ちしてたんですけど、今日からまた一生懸命に仕事しなくちゃいけないんだから、元気じゃなくちゃだめっス!」 そうなのだ。いつまでも気落ちしたままでは仕事は出来ない。ティータちゃんは大丈夫だって看護師さんも言ってくれてたから、僕らは、ピッシリとして、いつものように元気に仕事をしなければいけないと思う。泣きそうな顔のまま、依頼人の前に立つなんて、それは遊撃士としてダメだと思うから。 「さあ、アガット先輩! 仕事に励むっス! ティータちゃんなら大丈夫っス!」 少し無神経だとは思ったけど、僕は先輩に元気を出して欲しかった。本気で仕事へと向かう先輩は僕なんか足元にも及ばない程、すごい人なんだ。本当の遊撃士とはこういう頼れる人の事を言うんだ。そう思える人だから、僕は先輩にこの逆境に負けて欲しくなかった。オアネラなんかに気持ちで負けて欲しくなかった。 「…そうだな、俺は遊撃士だ。気持ちを切り替えるしかねぇな。」 壁に寄りかかっていたアガット先輩は、そう小さく呟くと、何か諦めにも似た表情で戸口へと向かった。でも、その背中を見ると、ふっきれたワケではないようで、重い空気を背負ったままでいる。先輩…大丈夫っスかね…。 とはいえ、そこはこれ以上どうする事もできない。先輩は降格したとはいえ、僕の尊敬する上級者なんだから、仕事となれば手を抜くような事はしないはずっス。きっときっと立ち直ってくれるっス! …こうして、朝の集まりは解散となったわけだけど、 まさか、オアネラがあんな行動に出るだなんて、この時の僕には想像もできない事だった。 「よし、お仕事完了っス!」 ジェニス王立学園への学校説明会に来たという親子連れご一行様の護衛任務を終えた僕は、街の入り口で大きく背伸びをした。そろそろお昼。お腹も減ってきた。朝食べたロズ…じゃなくてサーボックさんのクッキーは美味しかったけど、やっぱりクッキーだからお腹が空く。 「うく〜〜〜、いってぇ〜。」 ついでに骨折した部分の痛みもぶり返してきた。仕事中は無視してたけど、やっぱり痛みが増してきたように思う。これは早いところ病院へ行った方がいいかもしれない。 ちょうど昼時で休憩時間も取れるから、さっそく病院へ急ごうと思ったその時、僕の行く先にそれが待っていた。 「よう、チェリー。そろそろ昼休憩かい?」 「ギャアア!…って、おおお、お、お前は…っ!!」 突然の声に驚いた。街の入り口、橋を渡ったところにはあの女が、オアネラがいた。ウェーブのかかった金髪と、はちきれんばかりの胸、ボンテージファッションのような遊撃士装備、妖艶な吸血鬼そのままを絵に描いたようなその姿。そして何よりあの不遜な態度は変わらず、腰に手を当ててニヤついている。 「な、なな、何の用っスか! 僕はお前なんかに用はないっス!」 「ふふん、査察官様にずいぶんな口の利き方じゃあないか。」 すでに僕は腰が引けていた。こいつはどうして、こうも人を驚き怯えさせるのだろうか? コイツを前にすると、ロクな事にならないのは身をもって経験済みだ。どうせまた、容赦ない嫌な事を考えているに違いないっス。 あ…、そうか…。 僕はこの時、この女を初めて見た時のクルツさん、アガット先輩の反応を思い出した。冷や汗を流していたクルツさんや、近寄るなと怯えたアガット先輩。いま思い出せば、こういう気持ちだったのかと納得するしかない。 それに今まで雲隠れしていて、今になって現れたには理由があるのだろう。僕は気を引き締めなきゃと、自分を戒め怯えた身体を押さえつける。…そう、これ以上、先輩やティータちゃんがヒドイ目に遭わせるわけにはいかないからだ。 「なぁチェリー、今夜はアガット先輩、降格おめでとうパーティでも開こうかと思うんだけど、どうだい?」 「……な、なんだって?」 「アガット君、降格おめでとー! いまどんな気持ち? 妹みたいな子を自分で斬り殺そうとしたのって、どんな気持ちなの? あ、もしかして昔、死んじゃった妹を思い出したりした? そんな子をまさか自分で殺しかけるとか、ありえなーいっ!…そんな感じの飲み会。ナカナカ面白そうだろ?」 「なっ……!」 「そうだよねぇ、死んじゃった妹の代用品を、今度は自分で殺すところだったんだもんねぇ。面白い話じゃないか? そこんとこ、過去の傷口をえぐってさぁ、楽しく盛り上がろうっていう企画。参加したくてウズウズすんだろ? なぁ?」 「………………。」 「おっと、それだけじゃ盛り上がらないわねぇ。それなら今度はあのジャンっていうひ弱な受付も病院送りにしとくか。あんな使えないヤツはいらないだろ。査察官権限じゃクビには出来ないからさぁ、模擬戦に参加させて、不慮の事故とかで潰してやろうなんて考えてるんだけど。いい案だと思わないかい?」 「ふざけるなっ!」 僕は堪らなくなって声を荒げた。 「そんな事させるわけあるもんかっ! そんな事させやしないっス!」 腹の中が煮えくり返っている。そしてこの女は、こういう口をきいて僕の反応を楽しんでいるのも分かっていた。僕をからかって、冗談でも言わないような事を平気で口にする。…そして査察官という権限を利用して、本気で悪夢みたいな事をやってのける。 「ケェヘッヘッヘッヘッヘ! こいつは面白い。このアタシに反抗しようっての? ただのチェリーで下っ端で、カスで脇役で使い道のないギャグ要員が、大先輩様の言う事にケチつけようってわけ?」 「馬鹿言うんんじゃないっス! 先輩っていうのは、アガット先輩とかクルツさんとか行動が尊敬できる人の事を言うんだ! お前みたいに権限を利用して人を苦しめるようなヤツは、先輩じゃない!!」 そうだ。先輩というのは、敬うに値する上司の事を言うんだ。この女は権限を利用して好き勝手に引っ掻き回し、悪い傷跡しか残さない。僕はコイツを敬うなんて事、絶対にしない。 「…分かってないわねぇ。お前みたいなカスがどう考えようと、権力ってものは明確な差として存在しているんだ。例えば、お前のなってない物言いが気に食わないと申請すれば、お前は準遊撃士に降格できる。やろうと思えば、遊撃士の資格抹消だって出来る。それがアタシとお前の差、権力、権限の差ってものなのよ。」 オアネラは不適な笑みを揺るがす事なく、こちらへとゆっくり歩み寄って来る。ただ歩いているだけなのに、恐ろしい威圧感があった。それはこいつから感じる絶対の余裕。何があろうとも動じないその悪意から来るものだ。 「おい、ガキ。お前みたいな下っ端は、大人しく言う事だけを聞いてた方が得だと気づきなよ。人の言う事だけをハイハイ聴いて、大人しく目立たず振舞ってりゃ、それで穏やかに暮らせるだろ。それが利口な人生だろ? 分相応だろ?」 利口な生き方。利口な人生。それは何かを踏みにじられても笑顔でいろって事? 大切な人達や、仲間がどうなろうとも、それを笑顔で、何もなかったように気にするなという事? それが利口に生きるって事なの? 分相応って事なの? 「ただでさえ、こんな田舎臭い国に足を運んで、つまらない任務をこなしてるアタシは働き者さ。少しは権力者を労わったらどうだい? 利口にやれよ。それが大人ってもんだろ?」 「ぼ、僕は……!」 自分でも怒り狂っているのがわかる。だけど、これを言ってしまったら、もう引き返せない。遊撃士である事も、先輩達と一緒にいる事も、街の人達の力になる事もできなくなる。 でも、それでも僕は、黙っていられなかった! 「お前なんかを遊撃士だなんて認めない! ティータちゃんを傷付けたり、先輩を馬鹿にするようなヤツが遊撃士だなんて、お前は間違ってるっス!」 分かってる。これは挑発だ。この女がどこまで本気かしらないけど、こうやって僕を挑発しているのは確かだ。だけど、だけど僕は許せない。そしてこの女は、冗談であろうと、言った事を実行するヤツだ。このまま放置なんてしておけるハズもなかった。絶対に、絶対に、コイツだけは野放しにしておいちゃいけない。 「そうだ、チェリー。ひとつゲームをしよう。」 オアネラは僕の目の前に来ると、口の端を釣上げた嫌な笑みを浮かべて、人差し指を上に向けて言う。 「アガット降格祝賀会の前に、運動でもしないかい? 模擬戦だよ。もしもお前がこのオアネラ様に勝てたら、祝賀会はナシにしてやってもいい。このまま大人しく帰ってもいい。だけど、その代わり勝てなかったら、お前は遊撃士資格の取り消しだ。もしくは自分から退職してもらう。」 最初からこれが狙いだったんだ。コイツは自分のヒマつぶしに僕を使おうとしている。勝てない事を承知で勝負させようとしている。それで拒否できないように、先輩を嘲弄した。これは罠だ。受けるべきじゃない。こんな不利な条件、飲むべきじゃあない。 「わかったっス。その模擬戦、受けて立つっス!」 でも、僕は引くわけにはいかなかった。先輩を馬鹿にされ、人で遊ぶような遊撃士を認めるような事は断じてできなかった。何も抵抗しないで、平穏な道を歩いたほうが利口なのかもしれない。だけど、僕は受けて立つ事しかできない。僕はこの女を許せない。 「ケェヘヘヘヘ! おや、本当にやる気かいボウヤ。じゃあ、たっぷり可愛がってやろうか。」 こうして、僕はオアネラとの戦いに挑む事となる。 胸の痛みは激しくなっていく。だけどこの戦いは逃げることが許されないものだった。
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