レン・ブライトの一日

その5 『星降る夜の最終戦』
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BGM:英伝 空の軌跡FC「月明かりの下で」(サントラDisk:1・09)



 その日、シェラザードがロレントへと戻ったのは夜になってからだった。街道に出没しゅつぼつした魔獣退治という仕事を終え、ようやく街へとたどり着いたところだ。

「まったく、まだ古代種なんてのが徘徊はいかいしているなんて…、危険にもほどがあるわね。」

 リベル=アーク事件の折、まるで【七の至宝セプト=テリオン】の出現と呼応こおうするかのように現れた古代種と呼ばれる魔獣。それは遥か昔、この地で猛威もういふるったという恐ろしい強さを持った魔獣である。通常の魔獣などと比べられない程、戦闘能力にけており、もしあれらが街を襲ったら、たった1匹で多くの死者が出る大惨事だいさんじとなるだろう。

 今日の相手は巨大な角を持つ甲殻類こうかくるいのような敵だった。しかも、物理攻撃を反射する特異系。アーツがいたから良かったが、正直、よく一人で勝てたと思う。かなり危なかった。あの事件のころの実力であれば返り討ちにっていたのは自分だったろう。…そう考えれば、影の国での事件でシェラザード自身もかなりきたえられたという事なのだと思う。自画自賛じがじさんではないのだが、それでも何の被害ひがいもなく退治できて良かった。
 せっかく頑張がんばったのだから、今日は思い切り酒でも飲んじゃおう、などと上機嫌のシェラザード。…だが、実際のところ、”今日は”ではなく、”今日も”なのだが…、彼女からお酒を取ったら美人が減るので、それは聞くだけヤボというものだ。


 さて、そんなシェラさんが向かうのは居酒屋アーベントである。日中、師であるカシウスから食事の誘いを受けていたので、楽しみにもしていたのだ。せっかく、あのレンちゃんもブライト家に来たのだから、付き合わないわけにはいかない。
 シェラザードは約11年前…まだ、レナ・ブライトが存命していた前からブライト家に馴染なじみがある。身内だったサーカス団が解散した事で居場所をうしない、彼らをたよったのだ。そしてレナさんの優しさにも、カシウスの大きさにも助けられ、心身共に救われた。あの時に受けたおんは一生掛かっても返し切れないだろう。

 しかし、カシウスも、またレナさんもそういうおんなどという考えは持っていなかったし、何より家族として見てくれた。だから、ブライト家の人達とは血はつながっていないけれど、家族のつもりでいる。

 そんなブライト家に新しい家族ができたのだ。これを祝福しないでどうするというのか?

 確かに、あのレンという少女はよわい13にして普通の人生を送ってはいない。そしてまた多くの問題も抱えている。過去にヨシュアが秘密結社【身喰らう蛇ウロボロス】の執行者しっこうしゃであり、暗殺者としての人生を送っていたころよりも、その境遇きょうぐう過酷かこくだといえよう。
 しかし、ヨシュアがそうであったように、レンも大丈夫ではないかとシェラザードは考えている。確かにレナさんはもういないが、あの頃と変わらずエステルがいるし、カシウスもいる。もちろんヨシュアも彼女を支えるだろう。そして出来ることなら、自分も彼女を応援してあげたい。レナさんのように包み込む優しさはないけれど、一歩引いた外側から、自分なりに出来る事でレンという子を支えるやり方はあるはずだ。

 あの子のこれまでがどうであろうと、これからの人生が幸せであってもいいはずだ。
 ならば、そんな幸せがつつましく、おだやかに流れていくように手助けしてあげたい。


 彼女は改めてそう心にちかうと、暗い夜道を居酒屋へ向かって歩いていた。


 …ロレントという街は眠りにつく時間が早く、暗くなれば出歩く者もほとんどいない。元々、都会と違って遊び歩くような場所もないし、ここに住む人々の気質も手伝ってか、夜は長い傾向けいこうにある。シャラザードも前に都会と言われるクロスベルには小用しょうようで出掛けた事があるが、あそこはそこで魅力みりょくあふれる場所と分かっていながらも、やはり自分にはリベールが合っているようだ。

 そんな、他愛たあいのない思いにふけっていた彼女は、みょうな気配を察知さっちした。
 空気の微妙びみょう振動しんどう、耳に届くかすかな炸裂音、地をける何者かの闘気…。

 これは戦いによるものではないだろうか?

 まさか街中で誰かが戦っている? しかもその気配は自分が向かおうとしている居酒屋アーベントの方向からである。まだ300アージュ以上も先でのもののようだが、それは気のせいではないようだ。

 シェラザードは駆ける。何らかの事件が起こっている事は間違いなさそうだ。もしかすれば古代種が街にまぎれ込み、誰かが戦闘しているのかもしれない。もしくは猟兵イェーガーの襲撃などの可能性もある。なんにしろ、のんびりしていられる状況じょうきょうではなさそうだ。
 だが、居酒屋にはカシウスやエステル、ヨシュアにレンまでがそろっているはずだ。あれだけの面子めんつそろっていれば、古代種だろうが猟兵イェーガーだろうが瞬殺のはずなのだが…、一体どういう事なのだろう?

 夜のとばりが降りたその中を、月にえる銀に輝く髪を揺り振らしながら駆けるその彼女は美しくあり、そしていさましくもある。りんとした引き締まった顔付きをしたその表情はまさに遊撃士のもの。シェラザードは人通りのえた夜のロレントをひた走る。この先で起こっている何かを確かめるために。

 そして彼女は見た。
 前方に浮かび上がる光の柱を。それは彼女もよく知っているものだ。

「ガリオンタワー!?」
 そう、第5世代の新型導力器エニグマが持つ、導力魔法ガレオンタワーである。エネルギーで精製せいせいされた光の塔を打ち立て、そのいただきより無数の光弾を雨のように降らせる大魔法だ。EP消費は大きいものの、その光弾が一発でも直撃すれば昏倒こんとうでは済まない威力がある。非常に心強い反面、威力がありすぎる危険性を持っている。

 そんなものを、まさか街中で使うなんて…、危険どころの話ではない!

 誰がそんな恐ろしい真似まねをしているというのか?

 ひたいに浮かぶあせ底知そこしれない危機感によるもの、一刻も早く現場に到着とうちゃくしようと、さらに速度を上げるシェラザード。そして、到着とうちゃくしたその先に見た光景は、あまりにも異常なものだった。







BGM:英伝 空の軌跡「奴を逃がすな」(オリジナル サントラ Disk:1・32)









 カシウスとレンが戦っている!
 しかもレンは自身のいつも使っている大鎌なのに対し、カシウスはなんとほうきにぎっている!

 その武器は選択肢として意味不明ではあるが、問題なのはそこだけではないのだ。




 なんと、ガリオンタワーを使いっぱなしにして、光弾が降り注ぐ中をかいくぐりながら戦い続けているのである!


 普通に考えれば、長時間の維持いじはできないはずの魔法を維持していることにまず驚嘆きょうたんするだろう。…が、そんな事よりも度肝どぎもを抜かれたのは、雨のように降り注ぐ破壊光弾をけながら戦っている事だ。

 無数に降り注ぐ一撃必殺とも言える威力の光弾攻撃を、全て避けながら、二人は戦っているのである!

 あんなもの、とてもじゃないが避けられる魔法ではない。だからこそ、範囲攻撃としての種別にるいしている導力魔法であるというのに、カシウスとレンは、それら光弾を全て避けながら戦闘を行っているのだ。あの爆雷のような破壊光弾に一発も当たらないなど…もはや尋常じんじょうではない! 想像できるレベルを越えている。越えすぎている!

 確かに、ガリオンタワーの光弾は散弾となって地上へと降り注ぐ。避けることだけに集中すれば、なんとかなるかもしれない…。
 しかし、戦闘をしながらとなれば話は違う。ランダムに発射される予想が出来ない弾道、それを着弾のタイミングをはかりながら、尚且なおかつ敵の位置とすきを狙って攻撃までするというのは、人の行える行動の範疇はんちゅうではない。

 だが、彼らはそれをやっている。そんな常軌じょうきいっした戦闘を続けているのだ!


「な、なんて…無茶苦茶な…。」
 あまりにも異常いじょうな戦闘を目にし、感覚が麻痺まひしていたシェラザード。しかしそこは熟練じゅくれんの遊撃士である。ものの数秒で我を取り戻し、状況の打開をあんじる。

 まず、戦い自体を止めるべきだろう。こんな危険な戦いは今すぐやめるべきだ。だが、無理に止めに入れば、その瞬間に二人は集中力をいてガレオンタワーの光弾に直撃してしまうかもしれない。

 それに、カシウスがわざわざほうきで戦っている理由が分からない。なんであんな武器とも言えないようなモノを振り回しているのか??


 ───その時、カシウスとレンが、はじかれたように間合いを開き、同時に地面へと降り立った。

 ガレオンタワーの詠唱えいしょうもその時点で途絶とだえ、光の塔は消失する。どうやら、あの魔法はレンが行使していたようだ。詠唱を続けながら回避し、しかも戦闘まで行っていたとは…。

 彼女が天才というのは耳にしていたし、戦闘する姿も何度か見てはいたが…、それにしてもトンデモない実力者だ。自分には到底とうていできない芸当である。彼女のそれは、もはや驚嘆きょうたん」などという言葉すら生ぬるい。シェラザード程の熟練者さえもが驚きを越えて放心さえするほどの、あきれるほどの才能であった。

 いや、それどころではなかった。戦いを止めなければ…!

「せ、先生! 街中で何をやっているんですか! それにあんな戦闘、無茶苦茶です! 怪我けがじゃ済みませんよ!!」
「すまんな、シェラザード。悪いがエステル達の方を頼む。いま俺はあの子に勝たなきゃならんのでな。」
 めずらしい師よりの頼み。彼の視線は真摯しんしなもので、あんな常軌じょうきいっした戦闘であろうと、続ける必要を感じているようだ。普段の彼ならば、戦闘をする前になんらかの手をこうじている。戦いを起さない事を前提ぜんていに動いている。

 …しかし今、彼は戦っている。つまりは、今回は”戦闘という行為こういそのもの”に意味があるという事になる。

 一方のレンを見れば、呼吸を荒げ、けわしい表情をしながらも、その戦意には、なぜか殺気の欠片かけらさえも感じられなかった。過去、彼女が身喰らう蛇に所属していたころの戦闘では、その存在の全てが殺意と憎悪ぞうおに満ちた邪気そのものであったが…、いまの彼女からはそれが微塵みじんも感じられない。

 彼女は彼女で真剣であるようなのだが、それでも殺意があっての戦闘ではないように感じられた。
 師匠の武器がほうきであったり、殺意もないのに戦闘していたり、ますますわけが分からない。


「ハァハァ…銀閃のお姉さん、邪魔じゃましないで頂戴ちょうだい! もし手を出すなら、貴方から先に殲滅せんめつしてあげるわ!」

 すでに息もえの状態だというのに、そんな敵意ある言葉で牽制けんせいするレン。しかしシェラザードにもその言葉が切実である事は感じられた。むしろ、いまの言葉は”たのむから邪魔せず戦わせてくれ”としか聞こえなかった。どうやら彼女もこの戦闘を必要としているようだ。

 敵意ではなく、殺意でもなく、とにかく戦いを欲している二人。
 シェラザードにはその真意がまったく分からないが、これが必要だと言われれば、フォローに回らざるを得ない。

 だが、遊撃士としてみれば、こんな危険な行為は即刻そっこくやめさせるべきだ。それが例え知り合いが起したものであっても、否応いやおうなく中止させて当然である。街中でゆるしていい行為こういではない。目の前でこのような私闘がまかり通る程、遊撃士は甘くない!

 絶対に阻止そしして見せる!! …と決意すべき場面なのだが…。

「……はぁ…、了解よ。思う存分やればいいわ。フォローしてあげる。」
 だがまあ、カシウスがそういう危険を承知で、それでも付き合っているのだ。きっと彼ならば一般人が近寄らないよう先んじて手を打っているはずだし、確認もしているだろう。それにレンを応援すると言った手前、これくらいの器量は見せてやらねばなるまい。

 こうなれば、エステル達の介入かいにゅうを防ぐ役目を引き受けると承諾しょうだくするしかない。ヨシュアはともかく、エステルが飛び込んでくれば戦闘中断はけられないだろうし。
 しかし、この商店街から民家は少し距離があるとはいえ、爆裂音や戦闘音、ガレオンタワーのかがやきが周囲に知れるのも時間の問題である。せいぜいあと5分。その間くらいは近づけないように努力どりょくしたいところだ。


「先生、それにレンちゃん。心置きなくやっていいわよ。エステル達は何とかしてみるわ。」
 シェラさんはあきらめ半分、渋々ながらも、引きつった笑顔で了承してくれる。内心では、エステルを止めるのは無茶な気がしてならないのだが、それは言わぬが花というものだ。

「恩に着るぞ。今度ちゃんと酒でも飲むとしよう。」
「ふふ…、お姉さん大好きよ。」

「あ〜もう、はいはい。それじゃあ頑張ってね。」
 そう言い残すと、シェラザードは溜息ためいきじりで居酒屋アーベントへと向かった。きっとカシウスは一般人への危険がないとんで戦っているのだろう。そしてレンもそれが理解しているから、街中であんな魔法を使っていると見るべきだ。いまの彼女ならば、そう考えているのではないだろうか?

 …ロレントにやってくる前の彼女が起した戦いならば、シェラザードは戦いをいどんででも止めていただろう。そこには多分たぶんの悪意が交じり合っていたはずだ。でも、いまのあの子なら、悪意のない戦いが出来る彼女ならば、きっと一般人へも配慮はいりょしているはず。それを考慮こうりょした上であの魔法を使っているのだと思う。

 あらためて思い出してみれば…、あの子と初めて会った時、戦った時と今では随分ずいぶんと印象が違う。とてもやわららかくなったし、邪気も感じられなくなった。エステル達と出会い、様々な出来事をた事で変わっていったのだろう。だって少しも警戒けいかいせず抱きしめられる程なのだ。いい子になってないはずがない。

 なぜ、あの子がカシウスと戦っているのかの理由は分からないが、それでも、この戦いの後、もっと魅力的になるだろうレンの事を思うと、戦闘の結果がどうであれ頑張がんばって欲しいと思う。

「さて、エステルをどうなだめたものかしらね。」
 シェラザードは、背中に感じる戦いの気配を感じながら、一旦その場をはなれていった。








BGM:英伝 零の軌跡「Inevitable Struggle」(オリジナル サントラ Disk:3・15) or (オリンジナルサントラMini :04)








 いま、レンは戦いをいどんでいた。
 敵となっているのはこれから家族となる者。そしてなにより力を持つ者、カシウス・ブライトである。


 なぜか?

 それは、これまでの自分を”える”ためだ。

 変えるのではない、換えるのだ。これまで様々な環境かんきょうで、求められた能力に答えるように自身を”変換へんかん”していたように、このロレントという地で生きるに相応ふさわしい”新しいレン”へと換わる必要があった。


 そして、新しい自分となるためには、色々なものを捨てなければならなかった。それが例え《家族を演じるレン》を作り出すという”本当の自分を覆い隠す行為”であったとしても、そう選択するしかなかったのだ。

 それを実現させるためには、これまで積み上げてきた多くのものは、新しく始まるロレントでの生活には不要だった。それらは今後の生活をよりよく理解をするためのさまたげにさえ成り得る。だから必要がないのだと自分を納得させる必要があった。てきさない能力を切り捨てるために必要な行為なのだ。順応じゅんおうするための儀式ぎしきとさえ言える。

 彼女の真意はこの戦いに敗北する事にある。

 全力を出して、決定的に負ける。そうする事でようやく大きな力に依存いぞんした自意識を、執着しゅうちゃくを捨て去り、もう一歩だけ先へと進む事ができるはずだからだ。そうする事で、まっさらな自分へ、新しいレンへと変換へんかんしなければならないからだ。《家族を演じるレン》へとらなければいけないからだ。

 だから戦う。カシウスが執着を断ち切ってくれると信じて。


 すなわち、これがレンにとっての最後の戦い。
 彼女はいま、そう決断したのだ。





「───光の柱よくいとなれ、星の欠片かけらは地を穿うがち、蹂躙じゅうりんせよ! 導かれしは【ガリオンタワー】!!」

 5度目となるその導力魔法は、道の中央、広場の中心にきらめき輝く塔となって出現する。見上げるそれは破壊の塔、そのいただきより放たれる光弾は、美しい光の尾を引いて大地へとち、い回る者達を容赦ようしゃなく蹂躙じゅうりんする。

 …広範囲におよぶこの殲滅せんめつ魔法はEP消費こそ激しいが、その威力は郡を抜いている。その無数の光弾が命中すれば、大型魔獣ですら一溜りもない。文字通りの殲滅が可能である。

 そんな大魔法を乱戦の中で行使し、それが仲間に命中しないのは、術者がある程度の着弾点を操作できるからである。勝手に外れてくれる程、便利なわけではない。魔法そのものを扱うよりも、いかに仲間を避けて着弾させるかがこの魔法の難しいところとも言える。

 しかし、

 いまこの場において、レンは動き回る自分に配慮はいりょしてガリオンタワーを発動させているわけではない。光弾の着弾点を操作しているわけでもない。このはげしい戦闘の最中、それは不可能である。

 むしろ、レンは魔法範囲内での着弾位置の操作を放棄ほうきしていた。
 それはつまり、その戦域にいる者、自分を含めた全てを容赦ようしゃなく光弾が襲うという事…。

 おどろくべき事に、レンは雨のように降り注ぐ破壊光弾の中をくぐり、さらに大鎌でカシウスへと攻撃しているのだ!

 全ての光弾を紙一重かみひとえける! そして大鎌で攻撃を仕掛ける!
 そんな無茶苦茶むちゃくちゃな戦術が使われていた。

 避ける事などできるはずもない、まさに流星のごとく大地を穿うがつ光弾群、加えてレンの繰り出す大鎌ナインライブスでの連撃、そんな異常なまでの多段攻撃を仕掛けられれば、えられる者など存在するわけがない!

 彼女がカシウスに使っているのは、そういう戦術だった。
 それがいま出せる全力。この戦術で勝てない相手など、まず存在しないだろう。

 当たり前だ。ガリオンタワー…、あんなもの避けられる魔法ですらない。そこに通常攻撃を加えるなどという発想をする方がおかしい。不可能とさえ思える戦術だ。それをレンはやりげている。
 これでなら、レンがしたうエステルやヨシュアはもちろん、クロスベルの特務支援課にいた元猟兵イェーガーランドルフ、同格の執行者達、それに兄としたったレオンハルトにさえ痛手を与えられると考えていた。それほどの、絶対の自信を持てる合成多段クラフトなのだ。

 だが───、

「どうした? 息が上がっているぞ。」
 カシウスは息すら乱さずにいた。彼にはそういうわくは当てはまらない。光弾の降り注ぐ中を、まるで何事もなかったかのように立っている。ただ静かにおだやかに立っているだけなのだ。

 もちろん彼にも光弾は襲い来ている。しかし、彼はその着弾地点や軌道を知っているかのように、その直撃の寸前、最小限度の動きで避けているのだ。いくら達人だからとて、あまりにも神技過ぎる。この男には常識すらくつがえす力がそなわっているのではないかとうたがってしまう。ハッキリ言って理解さえ超えている。…文字通りの、化物だ。


「ハァ…ハァ…。」
 息が上がって返答すらできないレン。しかしそれは呼吸のみだれというより、呆然ぼうぜんとしている要素の方が強い。いくらカシウスとはいえ、ここまでの攻撃を仕掛けてダメージを与えられないなど想定そうていすらしていなかったのだ。

 だからとて、それで勝敗が決したわけではない! まだレン自身にも余力はある!

「ふふ…、この程度で調子に乗らない事ねっ!」
 彼の挑発ちょうはつに自ら乗るかのように、またもレンが仕掛ける! この破壊光弾の降り注ぐ地獄のような戦域せんいきで、その巨大な鎌を大きく振り上げ、振り下ろす! 間違いなくカシウスの胴体どうたいへとクリーンヒットするはずの一撃。しかし、それが振り切る前に、槍の様に突き出されたほうきが、ナインライブスの持ち手、柄の部分を叩き、ねらう軌道をずらされる!

「くっ───!」
 レンは攻撃を中断し、爆裂する光弾からも飛びのくようにね、その場から距離を取る。そしてカシウスは自身も光弾を小さな動きでけながらも、真剣な表情でレンの動きを注視ちゅうししている。

 カシウスの武器は新しく買ったほうきで、あくまで普通の箒である。箒に見える上等な戦闘用装備でもなんでもない。こんなものを武器に使うのは、おさない男の子同士がたわむれに打ち合うくらいのものだ。

 だが、彼はその竹製の長い柄の部分を、まるで棒術のように見立てて扱っている。箒の主要部である羽先を右拳の後ろへと回し、突き出した左手で箒の何もついていない上側だけ握り、竹槍のように構えて利用している。
 それ故に攻撃は突くだけに限られていた。箒の側面でレンの攻撃を受け止めるには明らかに強度不足だし、打ち払う事にも向いていない。だが、突くという攻撃のみであれば、武器を打ち払う程度の強度はある。

 そして今、カシウスはレンの攻撃を阻止するだけに集中している。

 自身では攻撃せず、レンが振り下ろす必殺の一撃をくずす事だけをねらっていた。カシウスは常にカウンターを狙う形で、レンの攻撃を阻止しているのだ。こんな状況で、その全ての攻撃を突きくずすなどという芸当ができるのは彼くらいのものだろう。
 そんな、針の糸を通すような、真の神技を扱えるのはカシウスしかいない。

 さりとて、彼も無傷ではない。ガリオンタワーの光弾2撃を背中と左腕にそれぞれ喰らっている。直撃ではないが、それでも着実にダメージを与えてはいた。レンとて、ただで倒されるわけにはいかない事情があった。

「ハァ…ハァ…、あ、雨のように降り注ぐ光弾の、その全てを避ける事なんて不可能よ! それにレンの攻撃だってそうそう避けられてばかりは居られないはず! さあ、どうするの!? カシウス・ブライトっ!!」
 息も絶え絶えのまま、それでも少しも休まず、さらに加速するレン! このままでは体力が尽きるのは自分である事など最初から分かっていた。だが、いま出来る最大の攻撃を叩き込まねば意味がないのだ。全てが最大での一撃を放たなければ意味がないのだ。そうしなければ、これまでの自分の強さというのを諦められない。

 だから、いまこの一瞬に、これまでの全てを込めて、一心不乱に武器を振るっている!
 それが───、自分の道を切り開くための手段だからだ! 振るわなければ進めないからだ!


「だが、俺はまだ倒れてはいないぞ? それで終わりなのか?!」

 カシウスから届く声には戦闘前と変わりがない。多少のダメージはあったようだが、本当に多少であるようだ。それに対して、レンはそろそろ限界だった。疲労がかさみ、呼吸の頻度ひんどは増していく。それでも酸素さんそが足りなくなっていく!
 でも止まれない! 呼吸をあらげ、肩でいきをしながらも…それでも動く事をやめられない! カシウスの言う通り攻撃をやめるわけにはいかないのだ。ここで終わってはならない! 絶対に!

 ───その時、レンの頭上に降り注ぐガリオンタワーの破壊光弾!

 だが、レンはそれを見る事もせずに鎌を振るう! ナインライブスを一閃させてそれを振り払った! 普通の武器ならば魔法を弾くなんて事はできない。しかし、彼女のそれは魔法さえも断ち切るのだ! そしてそのまま大きなを描くように大鎌を旋回せんかいさせ、十分な加速と威力を得た渾身こんしんの一撃をカシウスへと叩きつける!!

 ごう、という爆裂がまたたき地面へと炸裂! 周囲の石畳ごと吹き飛ばす! カシウスの視界が途絶えた一瞬を狙っての再攻撃! ──だが、それすら予期していたかのように避けられる!
 まさに薄皮一枚の差でそれを避けたカシウスは、距離を取って間合いを開く。それは、ほんの少しの差だった。…だが、とてつもなく大きな差でもあった。越えられない差だった。

 しかし、しかしだ。

 そうして幾度いくどとなくレンがり出す決死の攻撃は、信じられない事に段々とカシウスを押し始めていた。天才たるレンは、この戦いの中でさらに成長していたのである! 破壊のきらめきを帯びる降り注ぐ矢を避けるタイミングを学び、連続攻撃を作り出せる間を学習した。なんと、あのカシウス・ブライトが押されていたのだ!

 たった数分の間に、彼女はさらに強さを増していたのだ。この尋常じんじょうではない戦闘を行う事で、彼女の才能はさらなる促進そくしんを得て、無限に成長していく。それはまさしく驚嘆きょうたんどころか、驚愕きょうがくともいえる天性からくるもの。彼女だからこそし得た進化である。

「でも、これはいらないもの!っ」
 そうだ、こんなものはこれからの、新しいレンにはいらないものだ。このロレントでの生活に強さは必要ない。いま必要なのは、ロレントで生きていくために過去を捨てて変わることだからだ。だから戦っている!

「ハァハァ…こ、攻撃してきなさい! カシウス・ブライト! いつまでも逃げていたら、…レンが勝つわ。勝ててしまう。」
「………………。」
 しかし、カシウスは構えを崩さず、それに答える事もしない。この戦闘が始まってからの彼はやけに無口で、シェラザードと話をした以外にはあまり言葉を発していない。先程のひと言だけだ。

 そうしているうちにガリオンタワーが効果を失い、再びその姿を消していく。レン自身の持つ導力エネルギーも底をついていた。これまで8度もの魔導塔現出げんしゅつで、雨のように降らせた光弾ぐん。その総数100を越える破壊弾が降り注いだというのに、カシウスに命中したのはたった2発。でもそれは、防御に徹していたからこその成果だ。

 …だが、彼の動きを見続けたおかげで、それなりに動きもつかめていた。いまならば、魔法がなくともレンは優位を保てるだろう。完全防御を貫いていたその彼をレンは突き崩そうとしていた。

 いまなら当てられる。…自分が持つ最大のSクラフト【レ・ラナンデス】を。
 勝ててしまう、あのカシウスに!

 …だけど、炸裂さくれつさせてどうしようというのか? 勝つことが目的ではないのに、勝ってしまっては意味がないのに、勝利して、それでどうしようというのだろう?

 本当にカシウスはこれをふせいでくれるのか? 本当にカシウスはレンに勝てるのか?
 …そんな心配まで浮かんでくる。

 でも、自分自身が持つ全力を出さなければ、どこかにわだかまりを残してしまうだろう。こういう言い方は変だが、カシウスの強さを信じてみるしかない。いまのレンをねじ伏せられる者は、彼しかいないのだから。

「…この次でレンの攻撃は終わりよ。銀閃のお姉さんがねばってくれたとしても、そろそろエステル達も駆けつけてくるわ。だから終わり。これがレンの最大の一撃。そして最後の一撃。」
 荒げた呼吸を整えて目をつむり、精神を集中させる。体勢を低くしこしえ、大鎌ナインライブスを振りかぶる。そして浮かび上がるのは、レンの身体を取り巻く黒い念。それは暗闇の闇よりも深く、黒くよどみ、邪気をはらんだ破壊の意志を宿やどすもの。Sクラフトという最大最強の破壊技を放つための準備である。

「お願いよ、悪意あるこのレンに勝ってちょうだい。それが出来るのは貴方だけよ。」
「………………。」

「返事がない、という事は答えるまでもないって事かしら? …それとも、勝てないという事かしらね…。」

 彼の沈黙が勝てない事の肯定こうていではないと願いたい。だが、いくらなんでもハンデがありすぎたのかもしれない。ただのほうきと伝説級の武器で、しかも導力魔法まで無しでは、いかにカシウスとはいえ、レンに勝つことは無理という事なのだろうか。避ける事はできても、倒せないという証明なのではないか?


 いや、違う。

 …彼がこの戦いに負けるなどとは、微塵みじんも考えていない事は一目瞭然いちもくりょうぜんだ。

 いまのカシウスの表情は真剣そのものではあるが、その瞳には生死をした者が持つ切迫感せっぱくかんがない。まるでこの戦いが楽しいと言わんばかりのものだ。そして何より、興味深く事態を見守る視線は、明らかに喜びをふくんでさえいる。断言できる。彼は今、楽しんでいる。


「いや、大したものだ。その歳でこれだけの戦術をり出せるとはな。正直言うとあなどっていた。先にあやまっておこう。」
 何を嬉しそうに関心しているのか? こちらは自身の持つ最大Sクラフトを発動させようとしているのだ。しかも彼の動きも見えてきている。いくらカシウスとはいえ、これほどのハンデがある状況で喜んでいる場合ではないはずだ。余裕があるとでもいうのか? それともレンとの戦いを真剣にやろうとは思っていないのか?

「防御ばかりで失望させてしまったのならそれも謝ろう。しかし、正直言うと自信がないんだ。もしかしたら負ける可能性もある。なんせ確率は1/3だからな。」
「1/3??」
 なんだそれは? カシウスは何を企んでいる? もしかすればこれまでカシウスが無口だった秘密がそこにあるのだろうか? レンの攻撃を避けながら、彼は密かに勝利への方程式を組み上げていたというのだろうか?

 普通の相手ならば、どのような奇策も圧倒的なレンとの実力差だけでねじ伏せる事ができる。しかし、カシウスがそんな策を練っているとしたら、Sクラフトを放つ事にも躊躇ためらいが生まれる。

 そしてカシウスはそこで不敵な笑みを浮かべた。


「じゃあ、今度はこちらから攻めよう。…最大最後のSクラフトなど撃たせはせんよ。」







 その言葉と共に、───彼の気配が変わった。






 それまでやわららかくつつまれていた戦闘域は一瞬にしてその色を変える!
 放たれた闘気にレンは全身が総毛立つ!!

「なっ! なによこの力───っ!」
 レンがまばたきをする間にカシウスの姿が消える! 恐ろしくはやい! ──が見えている! 右側面だっ! そこから彼はほうきを振るい、闘気のかたまりを撃ち出す!! これは見たことがある!

「これはエステルの技っ!」
 エステルが得意とする中距離戦で使用する棒術クラフト、捻糸棍ねんしこんである。そうだった! エステルに棒術を教えたのはカシウスなのだから、同じ技が使えて当たり前なのだ。

 だが、デカイ!! エステルのそれと比べても、その気弾の大きさはレンのたけの倍はある! それに加えてなんという密度なのか? 凝縮ぎょうしゅくされた闘気は、まさに砲弾だ!!

 レンはその大きさと威力に焦燥感しょうそうかんおぼえながらも、それでも冷静さは欠いていない。軌道きどうを正確読み、跳躍ちょうやくでそれを避ける。だが、避けた先に別方向からの、さらに巨大な捻糸棍ねんしこんの闘気弾が迫っていた。着地点を狙っての攻撃である! 直撃されれば吹き飛ぶどころの話ではない! 致命的ちめいてきな、…いや、四肢しし損傷そんしょうを負うような甚大じんだいなダメージを受けるだろう。

「だけど! 直線軌道ならっ! ───やぁ!!」
 しかし、それさえも大鎌ナインライブスを振るって両断する! 発射された闘気弾がいかに強力であろうと、どれだけの速度で襲い来ようとも、それが直線的な軌道ならば、サバく事は不可能ではない!
 だが、破断したというのに、想像を超えた威力が腕に圧し掛かる! とてつもなく重い、かつて感じた事がない程の恐ろしい破壊力である。

 それでもなんとか防ぎきったと思った瞬間、レンは驚愕きょうがくに目を見開く!!

 なんと真上から、カシウスが攻撃を仕掛けてきていた!!



 そして拳を強くにぎり締めた彼は、闘気を宿やどし凶器と化した拳を真下へ、レンへと向けて一気にはなつ!! その異常なまでの破壊力を直感的に察したレンは、なりふり構わず地面を転げてけた!

 その瞬間、地面が爆砕ばくさいする!!

 轟音ごうおんと共にちりほこりを盛大に巻き上げたその一撃…、それはかつてレンが影の国で彼と戦った際、仲間の一人が受けた連続拳打と同じものであった。カシウスが渾身こんしんで放つ拳による激しい乱打、その一撃はとてつもなく重いもので、泰斗たいと流という格闘術できたえたA級遊撃士ジン・ヴァセックですら、片膝かたひざをついた威力だった。

 だが、今の攻撃はあの戦闘以上の威力だ。明らかに破壊力が段違いだと言える。どうやれば、人間が石畳の道路を素手で爆砕できるというのか? 地面をえぐり、陥没かんぼつさせられるというのか? レン自身も並々ならぬ力を持っているが、それでも思う。彼は常識ではかれる能力を大きく超えている。

「よく避けたな。」
 その土煙りがき立つ中で、彼は静かに、そして楽しげな瞳でつぶやいた。そしてもう、彼はほうきなど持っていなかった。まるで箒すら邪魔だと言うかのように、素手の全力でいどんできていた。それでレンを倒す気なのだろう。

 そして今ようやく理解する。
 一瞬でも彼に勝てると思った事が、まったくの過信かしんだという事を。

 いま本気のカシウスと対峙たいじして理解した。いまの自分は、まさに子猫だ。獅子が子猫を相手にする程度の生ぬるい表現では事足りない。まさに巨竜を相手にするような心境だ。

 いくら動きを読んだとて、それは表層上ひょうそうじょうのもの。真価しんかを発揮したカシウスのそれを見破ったわけではなかったのだ。彼からすればレンの攻撃など、まさしく児戯じぎに等しい。どれだけの才能を持っていたとしても、万能の力をそなえていても、けして越えられない壁がある。

 自分が天才であるように、彼もまた自分以上の天才…。
 それに加え、長年にわたり積み上げてきた数十年という修練度の差が、明瞭めいりょうな壁としてそびえているのだ。

 そこまでの差があって、勝てるわけがない。


 武器がなくとも、導力器がなくとも、そんな程度のハンデなど、大した事ではなかったのだ。
 そもそも、子猫では化物に勝てるはずがない。箒だろうと、フォークだろうと、彼はどんな武器でも勝てたのだ。


「いまのはわざと外したんだ。心の準備は必要だろう。」
 これまでの戦闘で動きを読めるようになったと勘違いしていたレンとは違う。逆にカシウスは完全にレンの動きを見切っていた。そして、敵ではないレンのために、わざと一撃を外していたと言う。

 そこでレンは気づく。彼が言った確率1/3とはこれからの事なのだ。いまの攻撃は3発分の攻撃で構成されていた。そのうち、どれかが当たれば、それだけで必殺のダメージとなる。

 何が負ける可能性か? デタラメもいいところだ。


「次は当てるぞ。」
「───っ!」
 そしてまたもカシウスが攻撃してくる! 巨竜の咆哮ほうこうに恐れる間もなく、レンが体勢を整える間すら与えず、正面から、まるで弾丸であるかのような加速での拳がレンを狙う!

 まるで吹き荒れる烈風であるかのように突撃してくるカシウス! レンの出せるであろう最大速度を大きく越えた超スピードでの攻撃は、間違いなくレンの腹部を狙ってのものだ! 考える余裕など欠片もない! 反射的に身体を右へとスライドさせて攻撃をやり過ごす!
 その刹那せつな、今度は裏拳がレンの顔面へとせまる! 避けられる事を知っていたかのように、身体を回転させたカシウスの一撃はこれが2撃目! そしてこれも異常な破壊力をめた一撃だ。

「あうっ!」
 かろうじてナインライブスをかかげて防御するが、それは圧倒的な衝撃となってレンを襲う! 完全に防御していたはずの大鎌が簡単にはじき飛ばされ、レン自身もその威力に地面へと投げ出される!

 だが、まだ3発目が残っている!!


「さあ───っ! 1/3だ。覚悟はいいか?!」

 カシウスが放つ最後の一撃、それは手の平を開いて前へと突き出した拳撃けんげきである。これは寸頸すんけいだろうか?! こぶしそのものが威力を持つものではなく、手のひらがれた、その内部を徹底的に破壊する技。それはかつて彼女も所属していた秘密結社【身喰らう蛇ウロボロス】の執行者しっこうしゃ、ヴァルターが得意としたゼロ・インパクトに酷似こくじしていた。

 一撃でリベール王国のグランセル城城門を粉々に破砕はさいするほどの威力を持った一撃、それをカシウスはいまここで実践じっせんし、レンに勝つために使おうというのか? 先ほど地面を爆砕させた以上の破壊力をレンに叩き込もうというのか?

 すでに武器を失い、敗北は決した。だが、カシウスはその手を止める事はない。
 この一撃がレンへと突きつける最後の一撃、勝者と敗者をへだてる一撃となるからだ。

 それこそが、自分が望むべき明確な差である。これを受ければ、いなく負けられる…。
 これまでの全てが区切りがつき、また新しい始まりがおとずれる。




 これでいい。

 これで、いいのだ……。




 …この瞬間、レンは不思議と周囲の状況が、ゆるやかな時をきざんでいるように思えた。
 不思議と恐怖感はなく、しばられた何かから開放されるかのような感覚までともなっていた。

 そしてその思考の中で、ぼんやりと考える。



 この一撃を受ければ、間違いなく負けられる。

 でも、無事では済まないだろう。
 内臓器官に甚大じんだいなダメージを受け、五体満足ではいられないかもしれない。いいや、死ぬのかもしれない。

 カシウスが放つ本気の一撃なのだから、それくらいは仕方がない。
 だって自分でけしけたのだから、ペナルティを受けるのは当然だ。望むべくして望んだ結果なのだ。


 そういえば…、

 数年前までは命令されるがままに戦い、聖杯騎士や傭兵を相手に躊躇ちゅうちょなく命をうばっていた。まるで花でもむかのように、なんの疑問も持たずに殺してきた。むしろ、それで正しいのだと思っていた。

 きっと、レンが殺した相手も、いまの自分のようにすべもなく散っていったのだろう。



 いま自分がその身となって、ようやくそれを知った。


 エステル達と出会い、過去の自分の行いがあやまちだと理解している今───。

 過去の自分のとった過ちをつぐなうにはどうしたらいいのだろう?
 そしてこれから生きていく自分は、それをどう感じていればいいのだろう?

 分からない。

 どうして、こんなにも分からない事だらけなんだろう?
 執行者として生きていた頃は間違っていたけれど、悩まずに済んだ。




 なぜこうも、生きるという事は悩みを抱えていくものなのだろう?
 分からない事だらけなのだろう?

 どれだけ悩み続ければ、全ての答えが見つかるのだろうか?


 ずっと悩んだ先に、遠い未来に、その答えは用意されているのだろうか?





 もし、来るべき未来に苦悩があるになら、いまここで死んだほうがいいのかもしれない。
 死んでしまえば束縛はない。それこそ唯一無二の自由。


 過ちを犯し、そして果てのない苦悩を解決できずに、またしても自分でない人格を生み出すような、どうしようもない自分は、いまこの場で殺されてしまった方がいいのかもしれない…。





 …しかし、いま目の前には”現実”が迫っていた。
 それは強大な力。絶対的な破壊の力。カシウスが放った3発目の最後の一撃!

 身に受け感じる感情は恐怖。身体の底から吹き上がる絶対的な恐怖である。
 目を反らしても避けられない、どれだけ悩んでも逃げられない、この現実は今まさに目の前に迫っている! この場で答えを出さなければならない問いとして、眼前へと迫っている! 何処へも逃げ場などありはしない!



 悩み続けても生きたいか、それともいっそ、ここで死んで自由になるのか、
 自分は結局どうしたい?





 生きる事の何が辛いのか? 人と接する事? うまく話せない事?
 死ぬ事の何が怖いのか? 痛い事か? それともエステル達と会えなくなる事か?



 でも、押し込められた感情は嘘をつかない。いまの自分が怖いと思っている事を隠さない。





「最後の一撃だっ!」
「でもっ! それでもレンは───!」
 咄嗟とっさに腕をクロスして防御する。
 それがどれだけの効果を持つものなのかははなはだ疑問だが、もうこれしかないのだ。

 いまこの場には自分以外に誰もいない。誰も自分の代わりに傷ついてはくれない。守ってはくれない。だけど、やっぱりレンは生きていたい。悩んでも、罪を悔やんでも、エステル達と…家族と一緒に生きて生きたいから!

 だから! レンという自分が、自分でその身を、その心を必死に守るしかない!!
 目の前の恐怖に立ち向かうしかない!


 …過去の自分、レンが生んだもう一人のクロスという自我は、いつもレンを守ってくれた。レンが傷つく代わりに傷ついてくれた。

 でも、今は昔とは違う! あの頃の自分とは違うのだ!

 自身が組んだ防御が、腕をクロスしたものであるという自然なような偶然。それはもしかしたら彼女の覚悟から出たものなのかもしれない。自分を守るものは間違いなく自分であるという事を心の底で真剣にとらえていたからかもしれない。

 悩む事よりも、まず、いまするべき事を乗り越えるため、レンは迷いなく行動を選択した。



 そして、カシウスが放つ最後の一撃がレンを襲う!
 容赦ようしゃなく、その開かれた手のひらがレンへと向けられた───っ!!












「ジャンケン、ポイ!!」






 カシウスはそのまま開いた手、つまり、パーを出し、
 咄嗟とっさに防御していたレンは、…拳をにぎったままの、ようするにグーである。






 勝負、あり。








BGM:英伝 空の軌跡FC「空を共に舞う気持ち」(オリジナル サントラ Disk:2・24)














「………………は?」






「よぅし! 俺の勝ちだ。」
 レンが茫然自失ぼうぜんじしつとする中、その勝負は、とんでもなく呆気あっけない幕切れとなり終結した。

「…な、なな………。」
「どうした? 今回は完璧に俺の勝ちだからな。」

「なぁ〜〜〜〜〜〜〜!!」
 あまりにも突拍子とっぴょうしもない事に、レンが言葉も忘れてあんぐりとする。それに比べてカシウスはというと、いまの今まで宿していた闘気はどドコへ消えたのか、戦闘すらなかったかのように満面の笑みを浮かべながら彼女の前に立っている。

「はっはっはっはっ! さすがの天才少女もこんな手で負けるとは思っていなかったようだな。」
 かっかと笑うカシウスのわきで、レンは何かを言おうとして声が出ず、もがいているうちに急に力が抜けてしまったらしく、その場にへなへなと座り込んだ。呆気あっけに取られた表情はそのままだ。

 納得いくとかいかないの前に、必死で身を守るために意気込んだ力が、全部抜け落ちてしまったからだ。


「ふむ、少々演技が過ぎたか? 普通のジャンケンじゃ1/3の確率でしか勝てないし、これだけ攻めれば防御の最中にまさかチョキは出さないだろうと…、まあ、気合が入りすぎてしまった感は……ん? レンちゃん、大丈夫か?」

「な、な、何が少々よっ!! こんな勝ちなんて認めないわ!」

 あれだけ圧倒的に攻めておいて何が少々か! こっちは本気でダメだと思ったというのに。それに、あれだけの戦闘を繰り広げておて、ジャンケンで勝敗など認められるわけがない! そもそもなぜジャンケンなのか!

「いや、今朝の戦いの勝敗といえば、これもそうだろう? ジャンケンだって俺の不意打ちで勝っただけだし。再戦なんだから、これで勝っても文句はなかろう。」
「ふざけないでっ! これじゃあレンの全力での敗北にはならないわ! 完全に負ける必要があるのっ! こんな負け方じゃあ意味がないじゃない!!」

 レンの表情は呆然から戸惑とまどいへ、そして不満へと変わっていた。戦闘は戦闘として敗北しなければならない。一方が傷つき、倒されなければならない。それが想定する結末だから。自身が傷付く事でそれを現実として受け入れるため、手ひどいダメージが残る事は覚悟している事だった。

 それが、こんな結果に終わるなど納得がいかない! 納得できるはずがないっ!!


 …しかし、カシウスはあっけらかんとした様子で言葉を継いだ。

「じゃあ聞くが、お前が傷を負う事で誰かが喜ぶのか? エステルもヨシュアも悲しむだけじゃないのか?」
「それは……。」
 答えるまでもない。レンがカシウスとの戦いで傷を負えば、二人は笑顔ではいられないだろう。返す言葉を失い、うつむくレン。しかし彼女はまだ納得できていない。自分の区切りとしての敗北はまだついていないからだ。エステル達を悲しませる事も、自分を納得させる事も出来ず、レンはただ、歯噛みするだけで答えを出せない。しかし、やるべき事はわかっていた。

「でも…、でもレンは…、変わらないと、いいえ、換わらないといけない…から…。」
 そう、ロレントで暮らすために新しい自分になろうとしているのだ。《家族を演じるレン》へと。いまという現実に対処するため、一番適した自分になるため、こうしてカシウスに戦いまで挑んだ。過去を捨てなければ別の自分へは換われない、そう考えたから。それが現実から逃げていると知りつつも、そうする事でしか進んでいけないと感じたから…。

「変化ではなく、変換する、か…。」
「そう、レンはそうしなくちゃいけないの! ここで暮らすのには必要なのっ!!」

「なあ、レンちゃん。…過去を捨ててまで変わる必要があるのか? いまのままじゃいけないのか?」
「…え?」

「今の自分は前と少しも変わっていない。だから変わる必要がある。…でもな、もしかしたら、前の自分と今の自分は随分と変わっていて、自分だけが変わっていないと思っているんじゃないか?」
「そ、そんな事は…………。」

「なら、昔からのお前を知っているエステルやヨシュアだけでなく、シェラザード辺りにも聞いてみるといい。今の自分がどうなのかを。一人で悩むよりその方がよほど建設的だと思うがな。」

 聞けば相応の答えが返ってくるだろう。彼らはなんと答えるだろうか? もし失望しているという答えが返ってきたら自分はどうすればいいのだろう? そんな事、とてもじゃないが───、

「怖いか?」
「だ、誰が怖いだなんて!」

「…お前さんは素直だな。それに根が真面目だ。だから悩みが尽きないのだろうが…、そこが魅力なんだと俺も気づいたところだ。」
「うるさいわね!」
 笑顔でさらっとそういう台詞を吐くカシウスを一蹴するレン。真面目と決めつけと断じられ怒りさえ覚えはしたが、こうもアッサリと思考に陥ると、どうにも言い当てられたようで悔しい。真面目じゃないとは言わないが、真面目と決め付けられるのは気に食わない。


「変わる努力も必要かもしれん。でももまず、このまま、今のままの自分を信じてやってもいいんじゃないか?」
「今の自分を…信じる?」
 これまでレンは、その環境に合わせて”新しいレン”という人格を形成する事で全てに対応してきた。過去の一切を断ち切る事で、新しい環境を受け入れていたのだ。…つまり、換わっていた。

 でも、そういう現実から目を背ける事では何も解決しないと本当は分かっていた。だから、そんな自分を捨てる覚悟もあった。…でも、ロレントでの暮らしを恐れて、知らず知らずのうちに、また自分をすり替えようとしていた。現実から逃げ出そうとしていた。
 カシウスの言う”いまのまま、自分を信じてみる”という考え方。どこかでそれを知っていながら、選ぶ勇気はなかった。全てを背負ったまま、現実と向き合ったまま、それでもレン自身である事を続ける事は、あまりにも難しいからだ。どう道を歩き、選択する事が正しいのかなんて分からない。

「別に俺が手本だなどと言うつもりじゃあないんだが…、自身の過去を案じて、どれだけ悩んでも、解決できない事はいくらでもある。それはお前だけじゃあない。俺やエステル、ヨシュアもそうだし、今日会った人々、そしてこれまで会って来た人々…。それぞれが何かを持ち、抱えて生きている。みんな同じなんだ。」


「悩んだっていいじゃないか。」


「慌てずとも…、時間はいくらでもある。ゆっくりでいい。自分のペースで進んでいけばいい。自分が自分を信じてやれるまでな。」
 このロレントで暮らすならば、時間はいくらでもある。自分を信じてやれるまで存分に悩めばいいと彼は言う。…しかし、今のレンにはそれを実感として認める事は出来ないし、納得できない。

「そんな…の…、そんな事言われたって!」
 納得は出来ないが、彼女にそれを考えさせてくれるほど、今の状況は甘くないようだ。




「なんだなんだ!? さっきからうるさいぞ! 何事だ!」

「こんな夜に騒いでるのは誰なのよ!」

「まったく! どこだ!! とっちめてやる!」

 四方から聞こえる声、それは近隣に住んでいる街の人々のようだった。まだ22:00頃だというのに、眠りについていたご家庭がレン達の戦闘で叩き起され、我慢に我慢を重ねた末、とうとう爆発したらしい。いくら田舎街の温和な人々だとはいえ、安眠を妨害されては怒りもする。
 …それにしたって、ロレントの住人は寝るのが早すぎる。今時いまどき、子供だってこの時間はよいの口だ。

 などと思案している場合でもない。加えて…、さらに最も厄介やっかいな人も走ってきた。


「ちょっとー!! 父さん! レン!! あんた達は何やってんの!!」
 シェラザードに待った!を掛けられていたエステルが、とうとう飛び出してきたのである。二人の戦闘を知り、これ以上は看過かんかできないと鼻息を荒げて飛んできたようだ。

 その後ろに続くのは、”止めたんだけど無理でした”と言わんばかりの情けない顔をしているヨシュアである。きっと、もう少し引き止めるつもりはあったが、まったく効果がなかったのだろう。ヨシュアがエステルを止めるなど無理にも程がある。まさに紙で出来たダムみたいなものだ。2秒と持たない。(むしろ、ほとんど素通り)

 さすがのカシウスもこれにはまいった。彼ほどに卓越した英雄も、安眠妨害された怒りの住民と、我が愛しき突撃娘には抵抗する事などできないだろう。もちろんだが、さすがのレンも、この状況で悩んでいられる程ノンキでもない。目の前のピンチに珍しく慌てている。

「ど、どうするの…?」
「いや、俺に聞かれてもなぁ…。」
 住人らの声が近づいてくる中、慌てるレンはカシウスを急き立てるが、カシウスは難しい顔で思案したままだ。レンはレンでこういう場合の対処など知るわけもなく、逃げていいのか謝るべきなのか分からず、カシウスの返答待ちである。

「アンタ達! どうして戦闘なんて馬鹿な事を───!」

 その間に凄まじい加速で駆けつけたエステルは、えらい剣幕でカシウスへと詰め寄る! そしてその後ろには、まあまあ…と、なだめようとして手も出せない情けないヨシュア。さらにその後方では、シェラザードが無念そうな顔で溜息をついていた。ダメだったらしい…。

 このままでは、エステルだけでなく、住民までもが詰め寄ってきて、四方八方から怒られてしまう。
 カシウスもレンも、かつてこれ程のピンチは経験した事がない。

「お、そうだ。」
 その時、カシウスの脳裏に浮かんだ妙案みょうあん、彼はそれがあまりに残酷ざんこくな結末になると理解しながら、実行せざるを得ない状況におかれていた。もはや一刻の猶予ゆうよもない!!

「よし、レンちゃん。俺の言うとおりにするんだ。!」
「い、いいわよ! なんでもいいから! だから、この状況をなんとかして!」

「まずはエステル!! これを持つんだっ!」
「ちょっと父さん! 聞いて───は?」
 すさまじい剣幕のエステルにカシウスは、いままで使っていた新品のほうきを手渡す。もちろん突然の事に呆気に取られるエステル。思考が停止したまま、言われるがままに受け取ってしまう。

「ヨシュア、お前はその鎌だ。ほら、レンちゃんはそれを渡すんだ。」
「頼むわね! ヨシュア!」
「え? どういう事??」
 レンは言われるままに自身の大鎌をヨシュアへと手渡す。もちろんヨシュアだって状況が理解できず、とりあえずは受け取るが、受け取っただけで、その意図は当然のごとく伝わっていない。


「よし、逃げるぞ!」
「了解よ!」
 すると、カシウスとレンは一気にダッシュ! 街の出口へと猛烈もうれつな勢いで駆けていく! そのスピードは戦闘中のそれとは比較にならないもので、エステルとヨシュアの反論の時間どころか、考える余裕すら与えない程の見事な逃げっぷりだった。

「…ちょ、ちょっと! 父さん!! レンッ!」
 取り残されたエステル達は、ようやく逃げられた事に気がつく。しかも、それだけなら良かったのだが…。



「ゴラァ! またお前らか! 夜中に何を騒いでるんじゃー!」
 導力機器を扱う店、メルダース工房のハゲ爺さんメルダースが寝巻き姿で飛び出して来た。可愛らしいナイトキャップが意外に似合っている。

「おい、エステル! 鉱夫の眠りを妨げるとはいい度胸じゃあねえか! ああん!?」
「あなた、落ち着いてください。アーニャもまだ寝てるんですから…。」
 マルガ鉱山で一番パワフルな親方、ガートンさんがパンツ一枚で飛び出してきた。かなり立腹している様子。奥さんが必死になだめているが効果はないようだ。

「仲が良くてうらやましいけど、夜に騒ぐのは関心しないねぇ。うちの嫁が起きるじゃあないか! これが元でロレントを出て行ったらどうするんだい! まったく…。」
「ああ、ヨシュア君…、僕はやめようって言ったんだけどさぁ…。じゃなくて、キディさんはまだ嫁とかそういう…。」
 雑貨屋、リノン総合商店の親子。ブルーム婆さんと息子のリノン。とっとと結婚しろと言われている彼女、キディさんが気に入っている婆さんは、いつになくお怒りの様子である。

「へ? あの…ちょっと…。」
「皆さん落ち着いて、これには事情が…。」
 まさに人身御供ひとみごくう。カシウスの策略により、まんまと安眠妨害の首謀者に仕立て上げられたエステル達は、暴れた事よりも、夜中に二人がイチャついて喧嘩けんかになったのだ、とうたがいを掛けられ、逆にはやし立てられていた。

「お前らいい加減にしろよ!? 若いからって夜中にイチャついて、なぜ地面に大穴が開いとるんだ?」

空の女神エイドスよ、若気の至りを許したまえ…。」

「…これは事件だわ。この痴話ちわゲンカの裏には大きな策謀が…。」
 近隣の住人があれよあれよという間に広場を取り巻き、大した事件でもないのに祭りのようなさわぎになっていく。空港受付の兄さんや、教会の区長、近所のマスコミ志望少女など、ただ単に面白いから出てきただけ、という人達もむらがっていく…。こうなるともう収集がつかない。






「もう! あの不良中年めーーーーーーー!!」

 そして、エステルのやるせない叫び声は、星の瞬く空へと吸い込まれていった…。









BGM:英伝 空の軌跡SC「絆の在り処」(オリジナル サントラ Disk:2・18)









 星の降るような夜、カシウスとレンは歩調をゆるめる。
 たどり着いたのは木造の2階建て。ブライト家である。昼に出掛けた時と同じような形で戻ってきた二人…。

「やっと戻ってこれたか。しかし、俺達の荷物は手付かずだな、…そりゃあそうか。」
 日中、取り残されたエステルも一人で奮戦していたのだが、家族全員分の荷物が相手では、リベールの混乱を解決に導いた英雄でも無理である。いくら彼女が強くなったとはいえ、たった一人でベッドやタンスを簡単に運べるわけではない。それこそ無理だ。

「は〜、これは仕方がないな。でもまあ、雨も降らなんようだし、明日に持ち越しか。…ん、どうした?」
「…別に。なんでもないわ。さすがにエステルに迷惑を掛けたなって思ったの。」
 掃除の手伝いもせずに家を飛び出し、挙句あげくてには夜の街で戦闘を繰り広げた。素直に片づけをしていれば掃除は終わっていた。かくれんぼをしていなければ住人らに怒られる事もなかったはず。

 レンが勝手な行動を取らなければ何も起きなかった。
 いや、今からでも遅くはない。戻って謝れば、エステル達は悪くないって謝れば…。

「私、戻るわ。」
「はは…、いいから甘えさせてもらえ。」
 なぜ戻らないことが甘える事になるのか? レンは不思議そうな顔をしてカシウスの顔を見る。そこにはあの、無邪気な少年のようで、熟達した戦士とも思えるような優しい顔があった。

「今から戻っても解決にはならんさ。どうせエステル達が少々からかわれて終わりだ。帰ってきたら一緒に謝ればいい。」
「そういうものなの? それが甘えるって事?」


「それよりも、だ。」
 カシウスは返事の代わりにレンの背をぽん、と叩くと、家へとうながす。

「茶でも入れてやった方が喜ぶ。そんなもんだ。」
「…納得いかないわ。」
 納得なんて出来ないし、それでいいのかの判断も出来ない。でも、これだけは分かる。彼は今日一日、ずっとレンに付き合ってくれて、色々な事を教えてくれた。本当はただの他人なのに。家族と呼んでいるだけの他人なのに。彼はどうして、こうまでしてくれるのだろう? 家族って何なんだろう?

 昔、自分にもあったはずの家族というもの。
 幼かった頃の自分は、そんなものを意識してはなかった。

 でも、それは血縁だからそう信じられた。血がつながっているから、当然のように家族なのだと思った。
 じゃあ、いまこの場にる家族って何なのだろう?


 レンがそう悩んだ時、さっき聞いたカシウスの言葉が思い出された。



 ”悩んだっていいじゃないか”



 分からない事をすぐに理解しようと思っても、出来ない事は多々ある。でも、理解するため悩む時間はいくらでもあった。家族というものが何であるのか? それは今という時に解決しなければならない問題ではない。ゆっくり、自分の中で感じて、理解していけば、それでいいのだろう。もしくは、エステルやヨシュアに相談してもいい。二人に聞きずらいなら、シェラザードにでもいい。一人で悩むより、よほど建設的だ。

 レンはいつの間に、そう考えている事を気づいた。

 知らないうちに色々な事を教わっていた。胸に支えた重い何かが今はすごく軽いものに感じた。きっと彼に、カシウスに教わった全てが、自分を楽にしてくれたんだろう。



 …なのに、レンは彼に対して感謝できていない。迷惑を掛けたままで、何も返答できていない。
 どうしたらいいだろう? 自分は彼に何をするべきなのだろう?





「よし、エステル達が帰る前に、まずは俺達がノンビリするとしよう。レンちゃんは紅茶でいいか?」


「……レンでいいわ。」



「うん?」
「呼び名よ。家族同士がいつまでも”ちゃん”付けじゃ変だもの。」

「それでいいのか? 無理にとは言わんぞ。」
「いいのよ。…か……カシウス………おじさま。」

「ほぅ、奮発したな。」
「だ、だって、しょうがないじゃない!! いつまでもフルネームじゃ変でしょ? だからこれでいいのっ!」
 レンはカシウスから顔を背けたまま、少し恥ずかしげにそう伝え、そして言葉を続けた。

「で、でも! 貴方は父親じゃないんだから父とは呼ばないわ。”おじさま”が精一杯の譲歩じょうほよ!」
 そんな不器用なレンに、カシウスは小さく苦笑し、そして口にした。




「そうか、これからよろしくな。…レン。」









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