皇樹暦749年 冬───
……曇天、小雪の舞い散る空は見るからに重たく、そして灰色に統一されている。どこまで見渡してもそれは変わらず、まるで天空を塞ぐ蓋であるかのように、気分が滅入るように重く、薄暗い空が果てなく続いている。
この冬という季節には珍しくも無い、寒々しい光景だった。
ラファイナの冬は短く、厳冬と呼ばれるような極寒は訪れた事はない。しかし、今はその冬に分類される期間なだけあり、外気は凍えんばかりの冷風が吹き荒び、いかなる場所も例外なく突き抜ける。
だとすれば、人々の足の運びは総じて速く、背を丸めて道を急いでいるのも道理。そしてそれは、どのような身分の者にも平等なのである。
…そんな寒空の下、”彼”が足を向けるのは旧王都キュラウエルの市壁外周を取り巻く貧民街のはずれ、スラム街よりさらに外れた、朽ちた廃屋の立ち並ぶ”棄民地”と呼ばれる立入禁止区画の開けた一角である。
そこで彼らは待っていた。
「お、遅いじゃないか! 待ちわびたぞ。」
”彼”の行く先には、数名の人影が待ち受けていた。言葉通り、いかにも待ちかねたとばかりに、そのうちの一人が彼に向かって声を掛けてくる。
人影は3名。いずれも場違いとも言える上等なコートを身につけており、到着した”彼”の正面に相対するように立っている。その中の代表らしき、最も金の掛かっているだろう上質なコートを羽織った男が発言したのだ。残りの2名は護衛と見るべきだろう。貧民では触れた事すらないであろう材質のコートの下に、帯剣しているのが分る。
そんな彼らに、男は答えた。
「…時間は正確なはずだ。文句を言われる筋合いはないがね。」
代表者の問いに素っ気無い返答をする”彼”。その風体は、彼らのような上等なコートではない。敢えて比喩するのであれば、まるで浮浪者かドブ鼠かのようであった。
それは穿った見方をしているわけではなく、事実そうなのである。”彼”はボロボロになった布を重ねた、灰色の、かろうじて外套と呼べるような布に身を包んでおり、王都に住む一般市民から疎まれそうな出で立ちをしていた。
そうであるからこそ、相対する彼らと彼の生きる世界の違いというものを思わせる。だからと言って、容貌が人の全てを顕しているかといえば、そうではない。
”彼”のそのフードの奥闇より届く、強く強く鋭い眼光は、何者にも絶やす事のできない意思が見て取れる。
それは未来を放棄した浮浪者や、人権を失った奴隷達とはまったく違う、生きる事に貪欲な精神によるものだ。
3人組はそんな彼の一挙手一投足に怯えているかのように絶えず視線を動かしている。対する彼は微動だにしない。…それが正しく”何”であるかはわからないが、彼らの間には、揺るぎ様のない明確な差というものが存在していた。
何一つ対等ではなく、何一つ一致する事のない。
そんな奇妙な双方が一堂に介していたのである。
……眼光に力を持つその男、”彼”は、懐より小瓶を取りだし話を始めた。
「これが約束の品だ。無味無臭、遅効性で徐々に体力を奪う。個人差にもよるが2カ月間程度だ。服用は日に1度、半滴程度を食器に付着する程度でもいい。それで眠るように逝く。……満足のいく結果が出せるだろうさ。」
この薬で間違いなく暗殺が成功するというアピールであるかのように、小瓶を指でつまみ、腫れ物に触れるような手つきで見せつけ、次いで正面に立つ相手をみやった。
提示した相手、3人組の男達は客という立場である。彼らは一人残らず息を飲み込み、緊張した面持ちで、ほんの小さな小瓶と中にたゆたう液体を注視している。
…そう、彼らが欲しているこれは紛れも無い毒薬だ。それも暗殺用の特製劇薬である。この人気のない場所で、彼と彼らはそういった商談をしていたのである。
こういった毒薬という品はその特殊性により、効果の程は提供者の言う事を信じるしかない。当然ではあるが、試すわけにはいかないからだ。
だからこそ、もしそれが紛い物であり、それにより失敗した時の立場の危うさを考えてしまう。慎重にならざるを得ないのも当然だった。
3人の代表者、深い紺色の上質コートを身に纏うその男も、そうした疑念というものに囚われた者であった。眼前の男の取り出す小瓶が、それ一つで彼の未来を左右する品なのだとしたら、信用するまでに時間がかかるのも当然である。素直に受け取る事に躊躇しているようだった。
だから、小瓶を握る”彼”は、上等の客である相手の背中を押す言葉を付け加えた。
「…まあ、心配するのはわからんでもない。だがな、お前の耳には届かなかったか? 俺の醜聞がよ。調べたんだろう?」
「あ、ああ……、知っている。知っているとも。”大蛇”殿。噂は多聞に耳にしている。」
小瓶を手にした彼……、”大蛇”と呼ばれた男は、フードの奥に潜む口端を僅かに吊り上げた。…そう、彼こそが裏切りと策謀に満ち満ちた裏社会で、”大蛇”という二つ名で恐れられる男。「ザナフ=スタイレル」その人であった。
ザナフは誰ともつるまず、常に一人で行動している悪党。街々に点在する裏社会を牛耳る「盗賊ギルド」にすら属さない一匹狼だ。それが問題になれば金で解決する事にしている。
…だが、それに応じない者、調子に乗った輩は容赦なく殺す。
そういう男であった。
そしてそれが許されてしまう男でもあった。
彼が最も得意とし、恐れられる最大の理由が「毒薬の扱い」である。
どんな毒であろうと彼に扱わせれば必殺となり、また逆に、彼に毒物は通用しない。大蛇、という名で呼ばれるのはそういう意味が含まれている。毒を扱うスペシャリスト、それが彼なのだ。
…だから、いまザナフが手にする毒物は、裏社会においての絶対を意味していた。扱えば100%その通りの効果を発揮する、二つ名を名乗るに申し分無い逸品。もちろん証拠など残さない。完璧な暗殺毒である。
それはどんな者でも覆せない。誰も彼の扱う技術には敵わない。そういった既成事実が彼の名を高めてもいた。それゆえに盗賊ギルドも手を出さないのである。
……なぜならば、猛毒を自在に扱う彼を敵に回せば、個人はおろか、組織そのものを壊滅させる事など容易い事だからだ。どんなに強靭な人間でも息をする。空気中に無臭の毒素を散布させれば、それだけで人間など容易く殺せるというわけだ。
そしてザナフは過去に2度、それを躊躇なく行ったという過去を持っていた。彼に歯向かう煩わしくも愚かな豚どもを、ほんの少しの毒によって一掃してみせたのだ。
相手がどれだけの兵力を費やそうと関係が無い。呼吸をした時点で死ぬのだから。
だから誰も逆らわない。……いや、逆らえないのである。
彼にとって、自分以外は全て獲物でしかない。
逆らう者は皆殺し。
…大蛇のザナフ。
それが彼自身も認め名乗る、不動の「悪名」であった。
「……う、う〜む…。」
しかしながら、紺フードの男はよほど猜疑心が強いようだ。それとも気が弱いのか。真実を知ら無知もあるのだろう。度胸のない客であるのは確からしい。もちろん他人を殺すなど始めてなのだろう。
ザナフは思う。もしこの薬を手に入れたとしても、ボロを出して失敗するか、短い天下を味わうだけの小物だろう…と。
まあ、彼にしてみれば取引さえ成立すれば、結果はどうでもいいわけだが。
すでに3分、無駄な時間だけが経過している。
仕方なく、ザナフはこの決断力のないこの馬鹿のために、もう一歩、背中を押す言葉を付け加えた。
「…お前も調べた通り、俺は悪党だが殺人快楽者じゃあない。商人としてビジネス上での取引は何よりも尊重する。商売は商売として違えた事はない。…これでもまだ悩むのなら、このまま帰ってもいいんだがな。」
「わ、わかった。信じよう。”大蛇の男は商売を重んじる”。それは我が方でも調べたからな。いいだろう。対価を支払おう。」
男は急に迅速なった。薬の効果を疑うと共に、これを受け取れば引き返せないという行く末を憂いた葛藤でもあったのだろう。煽られて決心した、という表情だ。…男は周囲の部下らしい一人に指示すると、そいつは待ちかねていたように懐から小箱を取り出した。
そのまま、こちらへと中身を確認させるように開く。
すると、中には大層な装飾で彩られた大粒の宝石が収まっていた。
ブラッディ・クリムソン。
世界に4つしかないという、深紅よりもなお赤いその至宝の宝石は、数多のジュエルの中において、あまりに稀少であり、宝飾類の中でも、とびきりの高値で取引される。真贋を問うまでもない見事な紅色を宿すその輝きは、大きな富をもたらすという栄光と共に、宝石の気分次第で持ち主に”不幸を呼びこむ”という。なんとも厄介な”いわく付き”の品であもあった。
もちろん、ザナフはそれを見抜く眼力を持ち合わせている。闇においても絶えぬこの異彩はイミテーションではありえない。これはまさしく本物である。
毒薬の報酬としては異常とも言える莫大な価値がある品だが、紺フードの男がこれからやろうとしている事の確実性を考慮すれば、相応だといえる。
「交渉成立だな。せっかくの薬だ。せいぜい失敗のないよう使えよ。」
「あ、…ああ。」
ザナフはぞんざいに小瓶を放り投げた。紺フードの男が慌てふためいてキャッチするその間に、配下の男が持つ宝石ブラッディ・クリムソンだけを掴み、さっさと交換を済ませた。そのまま懐へとしまいこむ。
小瓶を投げたのは注意をそちらに向けるため。宝石だけを掴んだのは、箱に細工がされていないように、との警戒心からだ。目の前の連中が小物だからといって過小評価はしない。ザナフはそうして生きてきた。そして生き残ってきた。
なんとか小瓶を受け止めた紺フードの男だったが、その動きがぎこちない。小瓶を握る手が震えていた。ザナフはそれを気する事なく、これ以上の用はないとばかりに、背を向けて歩き出す。
「大蛇殿、いい取引をさせていただいた。…か、感謝するよ。」
声の端が震えている。なんとわかり易い男なのか。…ザナフは目深に被ったフードの奥で呆きれたように息をつくと、その場で振り返った。
そして、この大枚を支払った客への最後のサービスとして、言葉を送る。
「…7メール先の大木の上に一人、そこの廃屋に二人、お前の後方10メール弱、茂みに二人。武器はボウガンだろう?」
「なっ! なあ?!」
裏返った奇声を上げる紺フードの男。面白いほど狼狽した。彼が言った通りの布陣が敷いていたからだ。
…もちろんこれは、男が自身の計画の露呈を防ぐため、と嵩じておいた口を封じのためのものである。悪事を働こうとする者が取引相手の口を封じたいと思うのは当然であり、妥当な判断である。相手がザナフでなければ、その人数で十分に始末できていただろう。
だが、彼が調べた情報というものは、所詮は噂レベルのものであった。
真にザナフを知る者であれば、決して大蛇を怒らせるような事はしないだろう。大蛇に牙を向けた小動物の運命など、たかが知れている。
ザナフは、まだ驚き戸惑っている紺フードの男へと、続けて言葉を送る。
「…俺はなぁ、ビジネスというものにそれなりのポリシーを持っている。商売上の秘匿事項は何があっても喋らない。だから秘密が漏れる心配をしなくてもいい。これで俺とお前の取引は終りだ。」
ザナフは、まるで周囲の全員に聞き届けるように視線を巡らせる。一人一人を、ねめつけるように…。
「…しかし、ビジネスの完遂に無粋な横槍を入れるというのなら…」
そこでザナフは立ち止り、振りかえった。その眼光はまっすぐに紺フードの男へと向けられている。それは彼が極悪人である事を示す、明確な殺意と残虐性を同居させたもの。
「一匹足りとも逃がさねぇ。」
ボロのフードの奥闇で、鈍い眼光に殺意の色が灯る。
まるでその目に射抜かれかたのように、紺フードの男の瞳驚愕に見開かれた。彼だけではない。周囲に伏せていた刺客達ですら、その異様ともいえる空気に気圧され、動く事さえ出来ないでいる。
紺フードの男自身も、貴族権力という有象無象の世界で昼夜を問わず身を削り戦ってきた。それなりに大物と呼ばれた権力者とも渡り合ってきたという自負もある。人が…、気迫や眼光の力で他者を威圧するというのは多々在る事だ。
──だが、
眼前の、大蛇と呼ばれたこの男は違った。
そうした大物だと思っていた相手など比較にもならない。質そのものが違う”化物”が潜んでいると判るのだ。まさに蛇に睨まれたカエルというものの気持ちを我が身そのままに味わっているよう……。
この男に逆らってはいけない。関わってもいけない。
逆らえば確実に殺される。そういう確信めいたものを本能が察している。
紺フードの男は、腰を抜かしたように地べたに座り込んだ。潜めていたはずの殺意やそれに順じた恣意さえもが消え失せ、茫然自失となってうなだれた…。いつのまにか失禁していた事に気がつくのは、もっとずっと後の事である。
「理解してくれて助かる。…匕首(短刀の俗称)が血で汚れると手入れが面倒だ。」
そう言葉を残してザナフは立ち去った。当然ながら、追ってくる気配はないし、追ってくるはずもない。相手はプロではない。金を持っているだけの”ただの素人”なのだから、それが当然だろう。
もちろん殺すのは至極簡単な事だ。しかし、言葉通りナイフを血で汚せば手入れに時間がかかる。それを自分でやる事と殺す事が、相応の対価にはなり得ないと考えたのだ。
つまり、ヤツらを始末するのは、武器が汚れるだけ損をする。
それだけの話なのだ。
ザナフにとっては、相手の命など、そんな程度の価値しかないのである。
「(…まったく……、素人相手の商売は気疲れする。)」
ザナフは歩きながら、汚れた鼠色のコートより煙草を取り出し火を灯す。そして大きく吸いこむと、本日の売上である赤の宝石を取り出した。
…どこまでも深い奥底まで真紅に染まり、最上級の娼婦ですら炉端の石と同等かと思わせる程に魔性の魅惑を持つ宝石ブラッディ・クリムソン。血紅とも呼ばれるそれは、”不幸を呼ぶ”という品である。
しかし、そのあまりの美しさから、いつの時代も常に求められてきた逸品でもあった。それだけに、取引相手に愚痴をこぼすものの、成果については満足している。
───彼はこの時、まだ何も知らない。
この宝石が、彼の人生そのものを費やす事になる”物語のきっかけ”になる品だと。
◆
ブラッディ・クリムソンが”いわく付き”の品だとて、それなりの資産である事実は変わらない。こういった面白い品は、巨大な資産を持つ好事家達に好まれる傾向がある。どれだけ金をつぎ込んでも手に入れたいと考える者も少なくない。稀少価値のある品となれば、なおさらだ。
さきほどの紺フードの男、大貴族カルナック公爵家のデイトバ卿にとっては、それなりの価値がある宝石一つよりも、厄介者である義父カルナック老を蹴落とす方が重要だったのだろう。己が台頭する事により手にする利益とその恩恵は半端なモノではない。
しかも自身の命運がかかった事態において、不幸を呼ぶ宝石を持っているなど、…これほど縁起が悪いものもない。あっさり手放したのは、縁起を担ぐ意味合いもあったのだろう…。
ザナフは当然ながら、取引相手の内情は事前に熟知していた。客が何者であるかを先んじて調べるのは当然の事。それにしても、あの貴族は予想以上に内情全てが筒抜けであった。なんの障害もなく背後関係を調べられた。ザナフ自身も、ここまで阿呆な相手との取引も珍しい、と思ったものだ。
…まあ、今はもうどうでもいい話である。
なにしろ、この宝石は高く売れる事が明白であるからだ。金銭に数えれば、金貨1000万枚に相応するという高価な品である。王都中央地区、それもど真ん中に、庭付き豪邸を建てるくらいの価値は十分にある。宝飾品の相場は流動的とはいえ、宝石そのものの知名度を加味すればそんなものだろう。
ザナフはこの宝石が不幸を呼ぶ、などという馬鹿げた迷信に興味はない。ただ単純に、求めるモノは更なる利益。高く売れればそれでいいのであって、品が何であろうと関係はない。
大蛇の男はビジネスを重んじる。
その言葉通り、彼にとっては商売になるかどうかだけの問題でしかないのである…。
「(ふん。この時間なら……、広場だな。)」
ザナフはこれを換品、つまり別の相応の品に代える準備のため、広場へと向かった。着実な資金にするため、そしてなにより、その”広場”で行われる相場情勢を見極めるためでもある。
……広場、というのは裏社会での通称であり、実質は裏社会でのフリーマーケットである。
金さえ出せばどんな品でも手に入る。ここでは御禁制などという綺麗事など通用しない。全ては金次第。金こそが理であり、筋道なのである。身分さえも、果てには命さえもが金の前では無意味なものでしかない。
それはザナフにとって、当り前の日常的な光景である。
高価な宝石や、天地すら揺るがす聖剣。名家の紋章や犬の肉。それに、このラファイナの現女王イメルザの住む王都イスガルド周辺では売買できないはずの奴隷でさえも、旧王都では当り前の商品として扱われている。
ここでは、そんなものなど当然のように購入する事ができるのだ。
…怒号と喧騒に包まれた活気ある広場は、冬だと思えない程の熱に満たされている。
この”広場”というのは、ラファイナ王家血族、クロービス家の居城キュラウエルの城壁の外にできた集合露店の略称で、4万人以上もの規模にさえ届く街そのものといった様相を呈する露店街だ。
どこが区切りかを聞くなど愚問ではあるのだが、大凡ながら東西南北ごとに販売品のカテゴリが違っている。それら普通の街では見ることさえできない雑多な商品達は、そこに鎮座しているだけで多くの人々を惹きつけ、珍品を求め訪れるという密かな名所であるのだが、…実はかなり治安が悪い。いや、悪いどころか無法地帯と似たようなものであった。
常に何かしらの事件が巻き起こる。殺人など珍しくはないし、死体もよく転がっている。スリのような小悪党ならまだ可愛いもの。路地裏での恐喝や盗難など当り前で、同時間帯にいくつも発生するのが正常という、とんでもない場所だ。無知な者が単独で迷い込めば、たちまち身包み剥がされてしまう。運が悪ければ奴隷商の品物に加わる事すらあるだろう。
しかしながら、ここで動き回る者達にはそんなどうでもいい事よりも、いかに他人を出し抜く事、利益を上げる事以外に感心などないのだ。死体に関わったところで1銅貨の利益にもならない。それを皆が承知しているからだ。
だから、法がないとはいえ、それなりの一貫した統制は取れている。
”利益にならない事に首を突っ込まない”
だから、騒ぎは非常な小規模、そして短時間で収束する。…そういうものなのだ。
…そんな中で、
ザナフは周囲に蔓延る煩わしい豚どもを掻き分けながら、一路、馴染みの宝石商へと向かった。
途中、2匹ほど馬鹿なスリが懐へと手を伸ばしてきたが、彼は双方とも指を2〜3本切り落としてやった。それらは顔も見る間もなく悲鳴を上げ、呻きながら逃げたようだが、それも大した事ではない。彼に手を伸ばす方が身の程を知らないだけの話だ。むしろザナフに手を出しておいて、指を失っただけで済んだのだから、幸運と言うべきだろう。
「いよお、大蛇の旦那。かなり儲けたようじゃないか。赤石を手に入れたんだって?」
ザナフが訪れたのは、広場北側に位置する食料品がメインとなっている一角。生肉関連品を売りさばく店だ。しかし店は狭く、暗く薄汚く、店先には数種類の肉しか置かれていない。しかも値札さえなく、ただ干し肉を吊るしている程度の売る気のない店であった。
「珍しいじゃないかい。旦那のビジネスに暴力沙汰がねぇとはさ。エッヘへヘッ…。」
その男……、店主の名はギダルという。彼は楽しそうに歯抜けだらけの口を開いて厭らしく笑った。どこで仕入れたのか、もうザナフの収穫を把握している。わざわざ隠語を使ってはいるが、その商品がなんであるかも確実に判っているらしい。広場の情報通を自称するだけの事はある。。
一方、ザナフはそんな事など気にも留めず、親指と他の指を3本を立て示して見せた。
「ごたくはいい。それよりこれでいいのか?」
「へいへい。わかっておりやすよ。」
ギダルは懐から小箱を取り出した。そして箱を空けると、そこには南方製の独特の香りが漂う煙草が仕込まれている。ギダルはそれを口にし、火をつける。この男が思案する時に必ず口にするものだ。売り物の肉に臭いがつく事など気にも留めない。……最も、店頭の肉などカモフラージュ用の小道具なわけだが。
すると、彼は自身の後ろに控えている何者かに耳打ちした。ザナフの耳にすら小声で2度ほどのやり取りをし、奥の誰かの気配が消える。ギダルの耳となっている手下の一人だろう。
「ふ…む。いいとこ800万前後……ですかね。先日、そいつとは別の血紅の持ち主が死んだとかでね。どこからも敬遠されてまさぁ。今は不気味がって売り払おうとしたが買い手が付かず、安値で手放した…、なんて話も聞きますがね。」
ギダルはタバコを吹かし、大きくゆっくりと煙を吐き出したあと、さらにこう付け加えた。
「まあ、限定的な値下がりでしょうが…。今は売り時とは言えませんねぇ。」
ザナフはこのギダルという男自身を信頼しているわけではない。しかし、商売人としての立場は信頼している。ここで安易な嘘をつけば裏の宝石商という信用に傷がつくからだ。
そしてこの言葉には嘘はない事も判っていた。ザナフは商売人として、そういった裏情報に長じている。自身の持つ情報、そして外部から情報を加味した上での、大凡の価値をはじき出す。そしてそれはザナフの見立て通りだった。彼はそれを確かめるべくギダルの店を尋ねたのである。情報の裏を取った、というわけだ。
ザナフはビジネスを重んじる。だから高く売れるはずの品が基準より安いとなれば売るわけにもいかない。多少の手間がかかろうとも、判断するための情報収集に余念は残さないのは当然の事…。
今売ろうものなら、商売の基本である”安く仕入れて高く売る”という原理原則は成り立たない。いまこれを換金、もしくは換品してしまうのは最善ではないと判る。
宝飾類は年数で劣化する事がなく、価値も変動しにくい。時期を見て売り払う方が正解だろう。
「邪魔したな。」
「へへ…。ありがとござい。」
ザナフはそれだけを言い残すと、懐からギダルへと布包を投げて渡した。これはさっき、ザナフに手を出したスリから、逆にスッておいた品だ。中身は確認していないが、重さから見積もれば500〜550G程だろう。普通の宿なら食事付きで3カ月強は宿泊できる金だ。情報量としてのチップには充分だろう。ザナフもそんな小銭など重いだけで邪魔なため必要ない。
「そうそう、大蛇の旦那。…殿下が御見栄ですぜ。」
「…フン、野豚がお出ましか。」
ザナフは合点がいったように相槌を打った。いつもに比べ、広場そのものが、妙な活気に包まれているような感覚はあったのだが……、なるほど、これはあの男が来ていたせいか。
あの男とは、このラファイナ王国の西方に位置する隣国、商業国と呼ばれる”カルバレッタ”でも有名な豪商ジョンバトの事である。金にモノを言わせて手当たり次第買い漁る無粋な輩だ。
しかし、広場にとってはお得意様であり品のの無い男として有名である。金持ちの大盤振る舞いだから、殿下という分り易い通称で呼ばれている。
「……まあ、畜生には興味ねぇがな。」
「しかし相場は大きく変動しますからねぇ。殿下の豪遊には我々も頭を悩ます次第ですよ。いやはや、困ったお方だ。」
困ったと言いつつも、顔は喜んでいる。無条件にガラクタを高値で買い漁るボランティアのような男が出れば、商人にとってこれほど嬉しい事はない。
「邪魔をした。」
「いやいや、またのご来店を御待ちしておりやすよ…。」
踵を返し、来た道を戻るザナフの背中にギダルの声が届く。ザナフは金の使いどころを知らない馬鹿に興味がないので、ジョンバトごときに関わるつもりもないが、…どうやら、懐で眠るブラッディ・クリムソンはそれを許さないらしい。
彼が関わりを持つ気がなくとも、不幸を招く血紅はその力を発揮していたのである。
◆
ザナフが商用と共に道具を揃えて広場を回っていた頃、イベント場の方では、まもなく本日のメインイベントが行われようとしていた。
これより行われるのは、この広場で最も盛り上がる飯種、オークションである。出品した品にどれだけ金額を上乗せできるか? それにより落札者が決まるという、客の目を引くイベントだ。
2週間に一度のこの催しには、様々な品が出品される。庶民には到底手の届かない美術品、装飾品、村や街の利権までが当り前のように披露される。
そして、ここだけには紛い物が出品される事は許されない。広場の露店のように騙される事が一切ないのも特徴だ。…それだけに値段は天井知らずで上乗せされる。
だからこそ、これを楽しみにしている者も少なくない。一種の祭りといってもいいだろう。それだけに、金持ちの酔狂という面を持つのも否定はできない。人というのは、それが酔狂だと知りながらも、ガス抜きが必要な動物でもあるのだ。
…広場において、最も熱気に包まれているそのイベント会場を横目でみるザナフ。しかし当然のように興味などない。自身が出品して利益を得るなら別だが、ビジネスにならないものに時間を割かれても無駄だからだ。
こういう見世物での取引では、気分が高揚するため無駄金を払う者がほとんどだ。こんなものに金を投じるなど、馬鹿馬鹿しい事この上ないと知っている。中にはここで値の上がった品を取引する専門の商人もいるが、それは彼のスタイルではない。
ザナフは悪党ではあるが、堅実な商売を基本としている。それが一番稼げると知っているからだ。
「おやまぁ、バカ息子じゃないかい。儲かってるかい?」
そんなザナフがイベント会場の脇道を素通りしようとした時、背後から老婆の厭らしい声が届いた。この悪徳広場には明かに不釣合いで温和な、皺だらけの笑顔と、背の丸まり腰の折れた小柄な白髪の老婆。しかしその茶色い瞳の奥は明らか濁っている…。
この醜女こそ、この広場での事実上の支配者、通称”猫婆”である。
…名前の由来など知らないし、興味もないが、ザナフが自分以上の悪党と思えるのはこの婆だけだ。そして幼少の彼を育てた正真証明、最悪のクズでもある。そのくせ無駄に長生きだ。
「………何か用か? ウジムシ野郎。」
「つれないねぇ…。親が息子に声を掛けて、何が悪いのさぁ。しぇっしぇっしぇっ…。」
猫婆は舌打ちするような気味の悪い笑いをすると、営業スマイルを浮かべ、さっそく本題に入り始めた。
「いい商品が入ったんでね。アンタに声を掛けておこうかと思ってね。」
「…ほう。てめえがこの俺に売り込みとは明日は太陽でも落ちて来るのか? いいなりになって落札しろってか?」
この老婆の魂胆は見えている。最近のザナフがかなり稼いでいるのを知っていて、少しは分け前を寄越せと吠えているのである。もう一つや二つの含みはありそうだが、まあそんな所だろう。
コイツを育て親だと感謝をしているわけではない。むしろ逆で、躊躇なく殺せる一人である。情や憐憫などまったく感じない。とっとと死ぬべきクズなのは揺るがし様もない事実だ。
しかし、猫婆もそんな事は百も承知だ。これはあくまで取引。そういった様々を承諾しつつ品を落札すれば、相応の便宜は図ると申し出ているわけだ。
ギブ・アンド・テイク。
ビジネスとしては真っ当な取引の形だ。口約束というのは、確かに形の無い貸し借りではあるが、この婆も自分と同様にビジネスマンである。その点だけは信頼は置けるのだ。
…もっとも、この場で殺しても構わないのだが、多少の気は晴れてもこの市場は混乱する。そしてザナフは相応の信頼を失い、大きな稼ぎ場を失う事になるだろう。ビジネスからすれば大損だ。現状、そういう利用価値があるため、このババアを殺すのはマイナスだと判断できる。
「……で、品はなんなんだ? 転売できなきゃ縊り殺すぞ、クソ婆。」
「おやまあ、乗ってくれるかのい?! 優しいクズ息子だよ。…今日のメイン商品はねぇ、アンタにも使い道たっぷりの商品さね。しぇっーしぇっしぇ!!」
そう下品に笑うと、猫婆はさっさと背中を向けて歩き出す。商談として、それなりの手応えはあったと判断したからだろう。
この猫婆はイベントのメインを取り持つ身であり、仕切人でもある立場だ。大金が動く場に立ち会わない事はない。つまり、用事は済んだから話す事もない。そういう事なのだ。
「ふん。勝手なやつだ。」
…ここで乗るか反るかはザナフ次第だ。しかし彼もその品には興味があった。なにせ、あの猫婆がわざわざ”頼みにきた”のだ。最低の業突く張りが自分から頭を下げに来た。…それだけ、他人に落札されては面白くない事情があるという事なのだろう。
「……そうそう。」
「ああん?」
だが、珍しく猫婆が振りかえって声を掛けてきた。交渉が済めば他人とばかりに無視するこの婆が、だ。
「落札は”面白い”だろうよ。」
それだけを言うと、また歩き出し、二度とこちらを気にもせずに雑踏の中へ消えていった……。
ザナフにとっては猫婆の諸事情などどうでもいいが、ヤツが念を押した最後のセリフが気になっていた。
落札は”面白い”……確かにヤツはそう言った。
結局はあのクソ婆に乗せられる形にはなるが、そういう楽しみはザナフも好きである。一目くらいは見てやる価値はありそうだ、と鼻で笑いつつ、ゆっくりと歩いて行った。
まんまと乗せられるべく、オークションへと顔を向けたのである。
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