リアル俺が引越しをした話

「そのまんま、あった事を書いたノベル」
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前編:VS立ち退き屋さん 後編:引越しの一部始終


前編:VS立ち退き屋さん

その1「そもそもの始まりは秋の事」 その2「戦闘開始、注目の第一回戦」
その3「途方にくれて神に会う」 その4「まずは行動、先手を打つ」
その5「立ち退き屋との押し問答」 その6「冬馬が一番嫌いなもの」
その7「交渉人、可と不可」 その8「春にはまだ早い頃」

その1 「そもそもの始まりは秋の事」

 秋というと、食欲の秋とか運動の秋とかが一般的で、明らかに引越しなどという言葉はまず浮かばないはず。そんなシーズンじゃあないもんね。よっぽど何かがなければしない事だと思う。

 リアル俺こと、このホムペの管理人・冬馬も当然のごとく、食欲だけを満たし運動はしないという怠惰な日常を慎ましく送っていたわけでありました。
 当然のように、この時点で引越しなどという考えは微塵もありません。引越しのひの字も頭にはありません。そりゃあ当たり前ですよ。ワタクシはとてもいい場所に住んでるんだもの。

 我が家から最寄駅までは、なんと徒歩1分! 走れば20秒! しかも線路を挟んで向かい側には商店街があり、中規模ながらスーパーもある。もちろんATMもあるし、クリーニング屋もある。自宅周辺の歩いて5分にはコンビニも2件あるんです。それに家の付近には大きな道路もないので静かだし、日当たりだっていい。さらに角部屋…。こんないい場所ないですよ?

 ちなみにナゼか歯医者が6件あります。選びたい放題です!

 …いや、歯医者はともかく、なによりもペット可な物件なんですよ! 我が家には引っ越す前から悪の帝王として君臨する猫様がおりまして、奴が住んでもOKという条件なんですよね。そういう部分を含めて考えれば、これ以上の条件のアパートなんてないわけよ。ああ、もちろん職場がある東京新宿にも近いです。とにかくいい場所なんですよ。

 …さて、そんなアパートに居住しているわけですが、その日も相変わらず平穏な日常だったわけですよ。やっとクソ暑い夏も去って、過ごしやすくなるなぁ〜と満足してたわけ。

 そうしたら、来たわけさ。問題の通知が。


 書面にはこう書いてありました。






 アパートに住んでる皆様コンニチワ。あと2カ月で取り壊すから、それまでに出て行け。






 は? 目を疑いました。でも内容は変わりません。

 あと2ヶ月で取り壊すんで出て行け。

 そりゃあ文面は穏やかですよ? 誠に遺憾だとかなんとか、それらしいオブラートに包まれてはいましたよ? でも実際の内容はそういう事でした。アパートに欠陥があったため取り壊さなくてはなりません、という理由なのですが、注目すべき部分はもちろんその期限。

 あと2カ月で出て行け?


 ───もう頭が真っ白。

 そりゃあそうでしょうよ! いきなり書面であと2ヶ月で取り壊す、と言われたらどう思う? 何の問題もなく平穏に過ごしていたのに、すぐ出て行けなんて言われたら誰だってパニくるでしょ? もちろん、そういう事は初めてだったしね。どうしていいのか途方に暮れました。

 どうしたものか〜と我が家の帝王がゴロゴロ擦り寄って来た時を狙い、隙だらけの腹部に必殺パンチをお見舞いしながら、一緒にゴロゴロしながら思案しているうちに一週間が過ぎます。あっという間でしたが、職場の人に相談できたので少しは落ち着いてはいました。

 そんな時にやってきたのです。立ち退き屋が。

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その2 「戦闘開始、注目の第一回戦」

 立ち退き屋。

 …といっても昔のTVドラマに出てきそうな悪党顔のヤクザみたいのじゃあなく、普通のスーツ姿の普通の男が2人。どうやら、大家から委託されて今回の立ち退きを実行している会社のようですが、まずここで腹が立ちました。大家からは一言もなく、他人に任せているのが納得いかなかったのです。

 確かに、裁判とかでも当人同士で話すわけじゃなく弁護士が間に入りますが、だからってこんなヒドイ通知を送りつけて、それで他人顔というのが感情論として気に食わなかったんです。そういう社会の仕組み的に仕方ない事は分かってるけれど、理屈と誠意は別問題だもの。

 でも、怒ったらマイナスだ、というのは理解できていたので、まずは話を聞く事にしました。怒る前にまず相手がどう出てくるのかを見極めようと思ったわけです。不満をぶつけるのはそれからでもいい。


 さて、彼らの言い分ですが…、ぶっちゃけ”書面の繰り返し”でした。

 このアパートには欠陥があるから取り壊す必要がある。申し訳ないけど出て行け。…と同じ事を言うだけ。まあ、相手も仲介会社でしょうからヘタな事は言わないでしょう。言わなくていい事を言って揚げ足取られてもマイナスですからね。
 しかし、これだけは分かりました。どうしようもなく頭の悪い冬馬も、ここで”分かりました”などと了承しちゃうのは超絶なアホだという事です。言われるまま、はいそうですか、と指示通り出て行くのは、あまりにも馬鹿すぎるという事です。

 だから、ここでは何も答えませんでした。話は聞きましたが返答はしない方が利口。その方が時間が稼げるでしょうし。…普通、そうしますよね?

 ですが、このまま攻められてばかりもシャクだったので、こちらからも質問しておく事にしました。
 それは相手の誠意を試しておくために、です。

 申し訳なさそうな顔をしながら話す立ち退き屋が、実際どう思ってるのかを調べておく事にしたのです。
 そしてこんな質問を投げてみました。

「すいません、もし2ヶ月後に立ち退いた場合、加入している災害保険はどうなるんでしょう? 再契約時の半年前に新たに払い込んだばかりなんですけど…」
 そう聞いてみます。災害保険は2年更新。その時点では半年程度しか過ぎてなかったため、途中解約するとその分の料金が戻ってくる仕組みになっているのです。それに対して、どう返答するのかを見てやろうと思いました。

 すると、

「解約なんじゃないですか?」

 そんな答えが返ってきます。
 その様子からすると、途中解約での返金など調べてもない、むしろ初めて聞いたという態度でした。

 つまり、立ち退きを迫る相手に対し申し訳なさそうな顔だけを向けて、その実は”返答する用意”がなかったのです。  なんですかそれ、あんまりじゃあないですか!

 大家の都合での移転を迫るなら、その仲介会社は大家から物件の様々を聞き取り、誠意を持って居住者に答える義務があるんじゃないの? もし初めて聞いたのなら、こちらで調べますとか言い方だってある。なのに、そういう答えをいけしゃあしゃあと答え、その上、話を聞いてもメモすら取らない。誠意のカケラも見せずに、そこで話を終わらせようとする。




 フ ザ け や が っ て … !
 お 前 ら 絶 対 ナ メ て ん だ ろ ?




 冬馬、マジで火がつきました。
 その場では表情を浮かべず何も言いませんでしたが、心中ではマグマが吹き上がろうとしていました。

 絶対出ていかねぇからな!

 そう誓います。

 この場面での表面上の勝負は、立ち退き屋が通達する立場として上、という視点での話でしたが、実際のところは住居人である冬馬の怒りをかった時点で相手の負けでしょう。

 このまま終わってなるものか! こうなったら徹底抗戦です!

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その3 「HP3の神様」

 さて…、その場は解散となったわけですが、怒りの冬馬はその日中に行動を起します。

 さきほども言ったように、冬馬が時間を稼ぐ事には意味がありました。職場の同僚のオッサンに少しだけ話を聞けたのです。こういう問題の相談に乗ってくれる法人で「借地借家人組合」というのがあるという事を。
 東京借地借家人組合…、やたら漢字ばかりで難しそうですが、何の事はない。今回のような例と同じく、アパートの立ち退き問題などの相談に乗ってくれる組合なんだそうです。ホームページにもちゃんと掲載されてます。分かんなかったら、あとで検索してみ? すぐ出てくるよ。

 ともかく、怒りながらも依然として優位ではない状況にある、追い詰められた冬馬には、ここに相談するしかない、というのは選択の余地がない事でした。いかに堅苦しそうな組合だろうと、ここにすがるしか手が無いのです。立ち退き屋はこちらの怒りさえ察する事のできないボンクラとはいえ、それでも立ち退き屋には違いありません。こちらよりも経験があるはず。立ち退き問題のドシロウトである冬馬に勝てる相手ではないのです。

 なので早速、その組合に連絡してみますと、どうやら住んでいる地区ごとに担当者がいるようです。すぐに冬馬の住んでいる地域担当さんに電話して、相談を持ち込む事にしました。


 なんと! 運がいい事にその日の午後は空いている、という話。(というか無理を言って時間をいただいた)そういうわけで光の速さで予約させていただき、事務所があるという街へと出発します。
 迷っている間などない! このまま行動しなければ負けは確定、あのムカつく立ち退き屋の言うまま出て行くしかない!


 そんな事は絶対に許せない!!

 …ならば進むしか勝機はないのです! 

 しかし、相談するのにも料金はかかります。さすがに、ちゃんとした組織なら無料はないでしょう。うう…、仕方が無い。必要経費だ…。


 おおよそ2時間後───、

 初めて乗る見知らぬ電車に、初めて降りる街…。
 やって来ました目的地! 借地借家人組合地区担当さんがいる駅へ!

 ハッキリ言って超がつくほど方向オンチの冬馬には、降りた途端にチンプンカンプンでした。これだけは間違いないのですが、3歩で道を忘れる絶対の自信がありました! 事実メチャメチャ迷いました。マジで同じ道を2回歩き回りました。しかしながら、都会というほど混雑した場所ではなく、店もまばらで林立はしていませんでした。目印となる建物はすぐわかったのです。(それでも迷ったんだけどね…)

 そして歩き回るうちに指定された場所へと近づいていくわけですが…、そこは、とてもオフィス街には見えない裏路地でした。歩く道はどう見ても住宅街。左右はアパートと一軒家が立ち並ぶのみ。しかもコンビニすらないんだな、これが。…あれ? そのなんとか組合って、オフィスみたいな近代ビルのテナントとして入ってるんじゃないの?? スマートなキレモノ弁護士みたいな男がスーツ姿で待ち構えてるわけじゃないの?

 そのような不安が募る中、道はどんどん閑静な…というか静けさ漂う住宅街の奥地へ。

 そしてようやく到着したのは…、なんだ、このお化け屋敷…。

 いかにノベルとはいえ事実を書いているノベルなのに、こう言っては何ですが…、目的のそこは、どう見ても廃屋にしか見えない家でして…、組合に相談する前にまず自分の家をなんとかした方がいいんじゃないかと思わずにはいられないボロ家でした。本当に申し訳ないんだけどボロ屋としか形容しようがない家でした。だって入り口かすら悩むような、オフィスでもなんでもない、ただの一軒家なんだもの。

 そして、そちらに在宅されていた組合の人というのが…、やけに普通の、どこにでもいそうなジイちゃんでした。一言でいうなら…枯れ枝みたいな、というか、HP3くらいしかなさそうなご老体というか…。ちょいと失礼だとは思いますが(かなり失礼)、でも本当にそんな感じなのよ。

 当初感じた大層な組合、というイメージはあっさり瓦解し、いまやすっかり、このジイちゃん大丈夫なのか?という別方向への不安に包まれておりました。相談中にいきなり動かなくなるんじゃないか、と心配で心配で…。


 ところが! そのジイちゃん、マジで神だった。


 やたら狭い家の中に案内された冬馬、涙ながらに事情を話すと、ジイちゃんがこちらの持っていった契約書を時間をかけて読み、冬馬へと質問してきます。

「いままで住んでて、家賃の払い遅れとかある? それか問題を起したとか」
「いえ、ないですけど…」

「今住んでいる部屋に何か問題はある? 床が抜けてるとか、住めないほど酷く痛んでるとか」
「全然ないです。マジ快適」

「なるほど…、これまでに家賃の払い遅れがなく、騒ぎを起したなどの問題も起していない。そして聞くところによると、大家がアパートに問題があると言っても、住んでるアンタ本人はまったく不便なく、問題なく暮らせている。なら、契約している以上、出て行く必要はないよ」

「民法には賃借権というものがあります。居住者は法律で保護されており、これは非常に強い権利。だから、住んでいる者が特に問題を起してないというのなら、相手がなんと言おうと取り合う必要も無い。」

「え? マジっすか!?」


「それに多分これ、相続の問題じゃあないかね。よくあるんだよ。持ってきた契約書には大家の名前が一人でしょ? なのに、この立ち退き依頼状を見るに、大家が3人、複数で署名されているでしょ? こういう場合、遺産相続のために物件を現金化し分配する事案がよくあるんだ。…この大家さんは結構な年齢なんじゃないか?」

 言い当てられて冬馬マジでビックリ。

「うい、そうっす! いい歳の婆さんでした! あ、確かにこの立ち退き状には3人の連名になってます!」

「じゃあ、つまりはそういう事なんでしょう。遺産相続のため、新大家はアパートを取り壊して現金化して財産分与、もしくは新しい建物を立てて新規になにかを始めようとしている。もちろん必ずしもそうとは限らないけれど、このアパート自体が築15年程度、まだまだ現役の、取り壊す必要のないアパートを壊す…と考えればそういう可能性は高い」

「…理由はともかく、居住者が契約を結んでいる以上、契約期間である以上は、たとえ大家であっても賃借権を覆すことはできないので安心すればいい。もし勝手に取り壊そうとしたら警察に駆け込めばいい。それは犯罪だから」

 …という事でありました。


 つ、つまり…、いままで通りに普通通り暮らしていれば、家賃をちゃんと払い込み、家を壊したり近所迷惑さえ掛けなければ、大家側の横暴な理屈は完全に無視しても構わない、という事だったのです! あと2カ月どころか、契約満了までは出て行く必要なんかまったくない、そういう事だったのです!


 うおおおおおおお! マジかよ! ビバ! 賃借権っ!! 喜べ猫ぉぉぉぉぉぉ!!
 ジイちゃんありがとう!! 家がボロとか、HP3とか言ってマジごめん! あなたが神だ!


 …でも、HP3なのは事実だけどな…。



 まとめると、つまりはこういう事。

・建物が問題だと言われようが、住んでる人が問題ないと思えば関係ない。
・アパートの契約期間中なら、何を言われようと出て行く必要は無い。(悪いことしたら別)


 それに加えて、こんな事も教えて貰いました。

・アパートの更新料は実は払う必要が無い。法律で決まっているわけではなく、大家側が勝手に決めているだけ。
・アパートの保険には加入する必要が無い。アパートがどうなろうと、住んでる者には負担する義務が無い。(自分の家財道具に対する保険ならいいけど、建物だけなら加入してやらなくてもいい)



*ご注意と注釈

 今回の例はあくまで我が家の場合です。全部が全部同じ結論ではない場合も当然あると思います。しかし、賃借権というのが、そういう強い法律だというのは変わりません。検索して調べても、やたら難しいので、本気で困ったら借地借家人組合に相談してみるといいでしょう。(各県にあります)
 また、文中でもあるように、借地借家人組合は変な組合じゃありません。少なくとも冬馬が話した爺さんはとても親切でいい人でした。その辺は安心だわね。

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その4 「まずは行動、先手を打つ」

 ぬおおおおおお、行って良かった! 本当に良かった。
 あのまま行かずに悩んだって解決しなかった、行動しなくちゃ答えには到達できなかった。

 相談料金なんて安いもの。それに値する価値はあった。
 賃借権の事をわかりやすく理解できただけでも、十分な勉強になった。

 借地・借家人組合ありがとう! ジイちゃん風邪とか引かんようになー。
 (次回会うまでに老衰してなきゃいいけど…)


 うっし!
 そうと分かれば怖いモノはない。早速、行動を起さなくてはならない。それも早ければ早いだけいい。

 まずやるべきは事実を知らせること。現在残っている住人に、今回の大家側が出した「2カ月で出て行け」という無茶な提案が横暴なものだと知って貰う必要がある。つまり、この立ち退き請求が不当だと知ってもらわねばならない。

 うちのアパートの部屋数は全部で30世帯程度なのだけど、現在その全部には入居していない様子。大家側で契約更新を控えていたせいか、実際に残っている世帯は半分いるかいないかくらい。う〜む、いままで他の住人なんて感知せずにいたから、見た目だけじゃ住んでるかどうかはわからない。まあ仕方が無い。
 とりあえず、今回の件で悩んでいる人のために、借地借家人組合という相談窓口がある事、そして自分も家に居るときは相談できる、とその旨をレポート紙に記載し、全住人分コピーして各ポストに投函しておいた。また、在宅者には会って話もしておいた。


 投函した自作レポートに対して返信があるなしにあまり意味は無い。…要は、出て行く必要が無いという情報を共有できればいいだけの話。別に集会を開いて反対運動うんぬん、という気はないのです。この情報配布により、住人の誰かが抵抗すれば立ち退き屋にはマイナスになるわけだから、それでOKなわけです。

 奴らが黙ってた”不当な立ち退き要求”という奴らの弱点を、晒してやろうという話なわけですよ。


 へ? こんな事して何になるのかって?

 そりゃ仕返しですよ。悔しいからに決まってるじゃん。相手が横暴だっただけ、という事実を理解させなきゃ、騙されたまま引越しさせられてたトコだったんですよ? 頭くるでしょ? フザケンな!でしょ?

 だから抵抗してやるのです!

 馬鹿にされたまま出て行くなんて冗談じゃあない。徹底抗戦してやるだけの話。馬鹿にされたまま終われるかっての!

 賃借権が有効である限り、こちらの方が絶対的に強いという事さえ理解できれば、恐れるものなど何もない。後ろ盾がある以上、恐れるものはない。反撃開始です!

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その4 「立ち退き屋との押し問答」

 それから1週間ぐらいでしたか…、再び立ち退き屋が家にやって来ました。

 当然、冬馬が自作した告知レポートも目を通している事でしょう。そりゃそうです。誰も住んでいない部屋にまで投函したのは、住んでいるかが分からなかったのもありますが、何よりもコイツらにも見て貰えるように、と思ったからです。

 相手がどんな反応をするか確認したかった、というのが本心ですかね。

 …とりあえず、再度の話し合いに際して用意したのは録音機です。ヨドヴァシキャメラにて5000円くらいした機械なんですが、これはNHKの集金員と戦った時にも使ったもので、相手の承諾を得て録音し、後になって言った言わないなどの言い逃れが出来ないようにするためのものです。NHK戦で学んだ知恵、というやつですな。

 さて、今回は2度目の話し合いとなりましたが、こちらはもちろん直球勝負です。冬馬が借地借家人組合に出掛けて話し合ったという事、こちらには賃借権、及び占有権があり、その上でまっっっっったく出て行く意志がない事を包み隠さず伝えました。

 えらい強気ですねって?
 そりゃそうですよ。権利はこちらにあるんだもの。
 悪いこと何にもしてないんだもの。出る必要ないんだもの。

 強く言える立場なんだから、精一杯やらなくちゃ意味ないでしょ。

 そんな冬馬に対して、頭を下げまくっていたのは、その立ち退き屋の取締役という50代くらいの男でして、こちらのそういう意志にも、頭を下げるだけしかしない人でした。

 しかもズルイのです、頭を下げるだけで具体的な話し合いはしないのですよ。こちらは例の火災保険解約についてや、引越し資金の具体的な金額、保証など含めて用意してくるんだろうと覚悟してたのに、そういうモノもまったくなく頭を下げるだけ。何も出しゃしない。

 敷金礼金はお返し致します。…と言うだけで、なぜ2カ月での立ち退きを主張したのかも返答しない。お前らね、それは説得でもなんでもねーじゃんよ。あんたら何しに来たの? 頭下げるだけなら猿でも出来るよ?

 確かに世の中には色々な人がいるから、相手に合わせて話すには出方を窺うのが正しいんだろうけど、それにしたって用意くらいはしてくるものじゃないの? そういったモノもまったく出さないのはどういう了見なんでしょうかね。

 相手に注文を出させるまで、手の内を明かさない方が相手にとっては得なんでしょうけど、それって住人側に対する配慮は皆無じゃねーの? それこそ和解への道が遠くなるだけじゃあないの?

 別に大家側、立ち退き屋側がこのアパートを今後どうしようというのには興味ないですよ。そんなのどうでもいい話だもの。ただ、住人として納得のいく結果が欲しいだけなんですよ。そういう期待に答えられないのであれば、頭下げられても意味が無いわけで…。

 立ち退き屋…、その取締役さんは天然ボケなのか、計算づくでやっているのかは不明ですが、とりあえずは印象さらにダウンしたという事は確実でした。だから、こちらも本音を交えつつも、漠然と答えてやりました。

「出て行く必要がないのに、わざわざ引っ越すわけないじゃない? 貴方は違うの?」

「あたしゃ面倒くさいのでヤです。」

 引っ越す必要がないのにわざわざ引っ越すなんてデメリットしかないやん。
 正論でしょ?

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その6 「冬馬が一番嫌いなもの」

 そうして2カ月程が過ぎ…、冬の足音が迫ってきました。

 その間に、冬馬が出したレポートに返信をくれた住人は一人だけでした。その人も冬馬と同様に困っていたらしく、レポートにて借地借家人組合を知り、あの爺ちゃんに相談したようです。教えてくれて助かりました、と感謝してもらえたのは嬉しかったかな。でもまあ、その方は話を聞いた上で、残っていても仕方が無いので、と転居したとの事でした。

 そして、その時点で残っている住人は冬馬を残して3名だという話でした。どうやら他の2人も冬馬同様まったく動じていないようです。逆に、話を聞いてすぐに出て行った人はかなり多かったようですね。よくあんなヒドイ理由で簡単に出て行くものだと思いましたが…。

 頭を下げるだけの使えない立ち退き屋の、うさんくさい理由の出て行け話に、よくそうも簡単に出て行けるもんだと首をヒネってしまいました。確かに抵抗するのも面倒臭いというのはあるのでしょうが…、ナメられている、馬鹿にされてる事を気にしなかったのでしょうか? まあ、その人にも考えがあるんでしょうから、親しくもない顔も知らない他人が感知することじゃありませんけどね。

 そんなこんなで、立ち退き屋との平行線なままの無駄な会話を毎週繰り返しているうちに、冬になってしまったのです。当然のように、なーんにも進展のないままでした。


 そして理解してしまいました。

 立ち退き屋は頭を下げ続けますが、別に手の内を隠しているわけではなく、頭を下げるだけで何の提案もせず、すでに期限の2カ月も過ぎ去っている。

 これってつまり、立ち退き屋さん無能という事なんじゃない?

 何らかの手段を隠しているわけでもなく、こちらの要望を聞いてくるでもなく、頭を下げるだけの会話が交渉だというのかね? そんな事したって進展なんてするわけないじゃん。そういうの無駄な時間って言うんじゃないの? 交渉にすらなってないのが分からないのか、と。

 そうして今日も懲りずに頭を下げるだけの取締役さん。その姿にもう笑いしか出てきません。

 こういう事を言うのは何ですが、人間、頭を下げるのなんて簡単に出来るんです。
 心の中で舌を出そうが、困った顔で謝ろうが頭は下げられる。そしてそれが本心とは限らない。

 こいつ、フザケろ!と思っていながら、頭を下げるのなんて容易い事。
 社会人なら驚く事もない行動です。謝罪と誠意はイコールではない。

 もちろん様々な場面があり、様々な謝罪があるでしょう。心からの謝罪も確かにある。
 しかし、この”立ち退き”についての当事者としては、それを誠意とは感じない。

 今回の場合でいう誠意とは、相手の理解を得るために、具体策を提示して、それでどうでしょう?と持ちかける事じゃあないの? よりよい条件を出す事じゃあないの?
 もしも読者の貴方がだよ? 突然に引越ししろといわれて、具体的な話もなく頭だけ下げられたらどう思います?  頭下げるより、まずやるべき事があると思いませんか?

 現にこの立ち退き屋は、立ち退きを成立させる事で対価を得る仕事です。
 頭を下げるだけで勝手に出て行くのなら、こんな楽な仕事はないわけで…。

 真摯に具体的な提案をする事で得られるのが誠意ではないのかね? そうであればその態度に同情の予知もあったのでしょうが、具体性が無い会話で頭下げられても、話が進展するわけじゃないんだから意味が無いでしょうに。なぜそれが分からないのかねー。

 そうしたら取締役さん、あまりにも反応がない冬馬に対して、伝家の宝刀を抜きました。
 ついにはお金でなんとかしていただけないでしょうか?と本音を漏らしてきたのです。

 5年間住んで頂いたお礼に敷金礼金返還に加えて10万円プラス致します、などという書面を持ってきました。ほほぅ、最初より金額が釣りあがってきましたよ!

 …お金。世界共通の言語ですね。相互理解力は大きいモノです。
 誰でも受け入れそうな、実に使い易い道具ですよね。



 だけどね、それが一番の誠意ではないんですよ。



 相手の感情を無視してお金で決着をつけるって、それこそ馬鹿にしてるって事じゃあないの?

 金さえ払えばなんでも理解を得られて、合意が出来ると思ってると? それが最大の誠意だと?





 それこそ、フザケンな!ですよ。

 順番が逆でしょう? 会話があって支払いがあって合意に至るのが話し合いであって、会話を無視して現金を支払って合意は出来ないはずじゃあないの? それが誠意じゃあないっていうのが、ナゼ分からないのさ。

 だからお金は嫌いなのよ。便利なだけで誠意がないから。会話を無視して結果を求めるから。

 金くれてやるから出て行け? 敷金礼金よりも金額的に釣りあがってるから構わないだろう?
 困った顔をしながら頭下げて、ぬけぬけとそういう事を口にする。これが誠意だといわんばかりに。

 金額を釣上げて再度提示してくるっていうのは、つまり、そういう事でしょ?

 もーーー、途中で半分ブチ切れながら、冬馬からお金の話はどうでもいいし、するな、と何度と繰り返すものの、一向に出て行く気配が無い冬馬に対し、取締役はブチ切れて”もうそれしかないでしょ!”などと声を荒げる始末。

 ダメだこの人、本気でダメだ…。

 この人、よくこれで立ち退き屋なんて経営してるな、と驚きました。
 今までの交渉では、この程度で心動かす人が多かったのかもしれません。それがどれだけ恵まれた交渉をしてきたのか、と。

 しかも、この取締役、とある日の話し合い中でこんな事も言うんですよ。
 先日、大家さんと話たんですが、もしかしたらアパートをこのままにするかもしれないんですよ…とか。

 それって立ち退き話している相手に、一番言っちゃいけない情報じゃないの?
 普通は絶対に漏らさない情報でしょーに。

 …本当に、交渉人としては最悪ですな。この人よく立ち退き屋の取締役なんかできてるなぁ…。
 世間は広いものですな。


 はあ、疲れますわ。…もうお金あげるから来ないでくれない? 好きなんでしょ? お金。

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その7 「交渉人、可と不可」

 さらに月日は流れ、とうとう年末になりました。


 10月末から始まって何も進展がないまま年末です。
 進展しようがないものね…。はぁ…。

 …そこで懲りずにやってきたのは、その会社の部長だという30代くらいの女性。
 最初見たとき、あまりにも使えない取締役をずっと見てきただけに失礼ながらハニートラップかと思ったくらいです。

 今度は何を言い出すのかと逆に楽しみでもあったくらい。
 まあ、期待せずに顔を出したんです。

 そしたら、
 この人がやっとマトモに会話できる人でした!

 秋から始まって数ヶ月目にしてやっと、ようやく、ようやく! ”日本語の会話が出来る相手”だったのです! もう感動しました。今までは頭下げるだけの「起き上がりこぼし」との不毛で無意味な会話をしているだけでしたからね。交渉っていうのは意味がない事を話し合う事じゃないわけだし。いや、女部長さん、ハニトラとか言って申し訳ない。

 この女部長、まずこれまでの無駄な時間を謝罪し、移転してもらえるなら、こちらも努力させていただく事、具体的に用意すべき提案があれば条件を加味して相談させていただく事、エトセトラエトセトラを順序良く、具体的に話てくれました。こちらがワザとイジワルに喋ったり、難しい言い回しをしても、ちゃんと理解して会話をしてくれます。

 素晴らしい…。こんなに使える人材に出会ったの何年ぶりでしょうか。もう本当にアンタがこの会社の社長になるべきだと心の底から思ったくらいです。こんな使えない取締役はクビにして、女部長さんが会社を仕切るべき。そのくらい出来た人だった。

 しかし、それで折れる程に冬馬は甘くありません。そんな間抜けじゃあないよ。

 だってさぁ、やっと”会話”と呼べるモノが始まっただけで、現状は何も進展はしてないもの。折れる理由も何もないわけですよ。女部長さんは具体的な条件をいただければ対応させていただきます、という答えをくれますが、そこがポイントです。

 思い出して欲しいのですが、冬馬は最初から出て行く気がないのです。

 だったら具体的条件なんて出せるわけがないやん。
 出て行きたくありません。これで話は終わりのはず。

 そもそもがおかしいんだよね。だって、”出て行く事が前提”の具体的条件提示になってない?

 こっちは出て行かないって最初から言ってるのに、そもそもが間違ってるのよね? 噛み合ってないよね? まずは、こちらを転居させる気にさせなきゃいけないのが分かってない。何よりもそこです。…あんた達、それでよく立ち退き屋やってるわね。

 でも、女部長さんはタダモノではなかった。

 冬馬が少しそれを匂わせると、すぐに対応し、現状での不満点を聞き、それらを一つ一つ解消させる方向性へと話を持っていく。
 アンタは本当に有能だなぁ…。涙出てくるわ。

 もう一回言うよ? この起き上がりこぼしをクビにして、アンタがトップになった方がおたくの会社は安泰だと思うぞ。

 ああ、ごめん、違うわ。
 この女部長さんが有能なんじゃなくて、普通の考え方ができるだけだわ。取締役とか他が極端にダメなだけ。

 そして2回の話し合いを経て、いい家が見つかったら考える、という事に落ち着きました。いま住んでいる好条件の家以上の、冬馬を惹きつけるような移転先があれば考える、という結論になったのです。

 …あれ? もしかして話が転居の方向に進展してる?と思いますよね。
 そして立ち退き屋側からすれば、確実に前進したと思っているでしょうね。

 残念でした。

 冬馬は少しも許していないし、理解したわけじゃないし、転居する気もさらさらない。
 何も変わっていません。

 だって、いい家があれば転居を考えると答えれば、決定はYesかNoの二択になるでしょ?
 いい家が見つかるかは冬馬が決めるのだから、相手が口を挟む余地が無くなる。

 相手がどんなに言葉を重ねても、いい家がある事が成立しなければ交渉は進まない。
 つまり、Noと言い続ければ相手は口を出すことさえ出来ない。

 そういう事です。

 起き上がりこぼしの心無い謝罪も見飽きたし、女部長の口の上手さで巻き返されても困るので、分かり易くエグい仕返しをしてやる事にしたわけです。

 冬馬が悪いんじゃないよ。誠意ない対応しかしない立ち退き屋さんが悪いだけ。
 あたしゃ最初から言っている通り、引越しする気なんてないんだもの。

 礼儀と誠意を知らない相手には相応の対応だと思うけどね。

↑UP





その8 「春にはまだ早い頃」

 そして…3ヶ月が経過しました。
 あの意味不明な立ち退き話が持ち上がってから、ほぼ半年が経過した事になります。

 予定通り何も進展しないままの状況。もちろん、相手が提示してくる家は全部No。しつこく出してきても全部拒否します。だって相変わらず転居する気なんてないもの。

 そもそも、今の時点で納得の場所に住んでるのに、越す理由がないのは変わらないもの。そこが重要なのにね。分かってないね。

 メリットがないという損をしてまで、移転してやるお人好しじゃあないし。
 しかもこっちには猫がいる。簡単にいい場所なんて見つからないのも現実なわけです。

 事実、彼らが持って来る転居先案は、数撃ち当たれ、でした。
 沢山あるけどやみくも状態。よくそんなにペット可の物件探してくるなと思うほど多かった。もちろんNo。

 でも、立ち退き屋は”いい移転先を提示する”という条件でしか動けないから、こちらが拒否し続ければ八方塞がりです。残り契約期間1年2カ月。相手がどれだけジレようとも関係ないので無視します。

 もちろん提示してくる物件には目は通してますよ? どうしてダメかを反論するために必要だし。そして可能性は限りなくゼロですが、現状よりいい条件のアパートがあるかもしれないしね。それはこちらにもメリットなわけだし。

 あれ? メリットあれば引っ越すの?…って言われたらそうです。
 本当にいい場所ならね。

 …でも現実問題として、そんな場所はないわけで。

 そうなるともう泥沼です。立ち退き屋にはどうしようもない。持って来る物件も数撃ち当たれと化してきたし。泥沼が干からびて草木の生えない荒野にでもなりそうな状況です。

 相手は急いでいるのは承知しています。だって最初から2カ月で移転しろ、と言っていたくらいですからね。急いでいるのは当たり前、その上、冬馬を含む残り3名が半年近くも動かないんだから、そりゃあ、かなりジレてるはずです。

 それを証明するかのように、とうとう新大家を連れて来ました。ご挨拶に、という名目での援軍…、いえ、新大家の要望でしょうね。こんなに待たせて何やってんだ、と様子を見に来たんでしょう。立ち退き交渉が順調なら顔を出すわけがないもの。

 今度の新大家は元の大家さんの息子さんらしい人で、40代後半〜50代前半くらいかな? そんな幾分は若い人でした。でも、新大家がそこで口を滑らせました。


「実は水回りに問題がありまして…」

 はい、ダウト。


 この期に及んで嘘ばっかり。今までの交渉半年で一度も出てない話じゃん。なんで今になってそういう話を持ち出すの? そんな嘘臭い話でこちらが納得でもすると思う? だから言ってやりました。

「あれ? 今までそんな話一度も聞いてませんよ? なんで今になってそういう事を言うんですか?」
 そしたら黙っちゃった。

 ああ…、そうか。そうなんだ。

 きっとこの使えない立ち退き屋を選んだのは、この使えない新大家なんだ。人を見る目がないから、こういうボンクラを雇ったんだな…。そういう事なんでしょ。
 そうなると新大家が何かを出来るわけではなく、立ち退き屋は相変わらず無駄に物件を探してきて拒否される作業に戻るわけで、不毛な日常が再開されるだけです。この起き上がりこぼしは、こちらが故意に物件断ってるのを理解できてるのかな? 理解できていても、それで行動を起せるならとっくに仕掛けて来てるだろうな。

 相手は急いでいる。
 でも、少なくとも冬馬には残り1年の契約期間が残っており、相手がどう言おうが居座る権利がある。

 普通ならお金で解決するのに金では動かない。誠意がない金は嫌いだし。
 頭を下げて感情に訴えても反応すらしない。メリットなければ動く意味がない。
 加えて、いくら物件を持ってきても全て拒否される。最初から動く気がない。

 そしたら、もう彼らは打つ手ナシなんですな。

 いい気になってるって? うん、そうですよ。だってその通りの状況だもの。

 彼らの敗色は濃厚。…いえ、普通に敗北でしょ。あちらも1年なんて待ってられないはず。その後に出て行かないからといって民事訴訟なんて起したら、さらに時間かかるんだから、それは相手も翻意じゃない。とにかく早く出て行って欲しい相手にそんな事をするわけがない。余計に話がこじれるだけだし、最初の2カ月退去通知が大家側にマイナスになるはず。

 冬馬も相手には”裁判してもいいですよ”って何度も言ってあげたけど、絶対に首を縦に振らなかったから、不利なのは承知してたみたい。

 つまり、行き着くところ、…最初から相手の戦略ミスだったという事。

 計画性もなく2カ月で出て行け、といってた時点で、無理な話だったという事です。どう考えても、こじれるような話だったわけだものね。





 …と、いうわけで、反撃の結果はこのようになりました。
 あと1年ちょい、もしくはそれ以上を居座る事が出来る状況となったわけです。

 さて、後半は引越し編になります。

 こんな優位な状況でナゼに引越しする事になったのか? また、新居探し、引越し屋探し、ゴミ問題などなど、冬馬はどうしたのか、という話を語ろうと思います。もしかしたら、役に立つかもしれない後編・引越し編にて、またお会いしましょう。

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